愛してるよ
数日後、どう手筈を整えたのか、新しい使用人が翼妃の元にやってきた。名前を
鹿乃子は元々
玉龍大社とは違い地属性の神を祀る神社では神鎮の権利をうまく扱える上位三名以外の神鎮を家から追い出す風習があるそうだ。完全なる実力主義の家系で、それ故競争も激しいのだとか。鹿乃子はその争いに負け、家を追い出されて貧しい暮らしをしていた。それなら招きやすいだろう。それは分かるのだが、何故わざわざ元神鎮なのかと疑問に思った翼妃に、柊水は笑って言った。
「地属性の神と水属性の神は相性が悪いんだよ。地の神の力を利用するあの神鎮が傍に居れば龍神は翼妃ちゃんの元に降りてこれない」
どうやら柊水は、白龍ですら翼妃から奪おうとしているようだった。
――最初、翼妃は期待していなかった。柊水が用意した専属の使用人だ。どれだけ酷い人間だろうと不安に思ってすらいた。
しかし、鹿乃子は異文化を持つ外部から来たためか翼妃の知るどの使用人とも違っていた。
これまで食事は残飯のようなものしか与えられていなかったところを、必ず一汁一菜を確保して持ってきてくれた。質素で量は少ないが、麦飯もまだ温かいうちに持ってきてくれるので、以前よりずっと食事が楽しくなった。
鹿乃子はこの屋敷での翼妃の扱いに驚いたようで、翼妃をとても気にかけてくれている。他の人間に気付かれないように食事を運んできてくれたり、厳しい鍛錬で傷を負った翼妃に包帯を巻いてくれたりと、優しい女性だった。
「……私は川に体を浸けると何でも治ってしまう化け物なの。今日も夜に水で体を清める予定だから、こういうのは必要ないよ」
翼妃の斬りつけられた腹に必死に包帯を巻く鹿乃子に遠慮がちに伝える。この人は屋敷の外から来たために、この屋敷の風習も、忌み子の怪我がすぐ治ることを知らないのだろうと思った。
しかし鹿乃子は――
「何をおっしゃいます。治るからと言って痛いのには変わりありませんわ。わたくしは、翼妃様の心にも包帯をしているのです」
と答えた。
不思議とその時、目から涙が零れ落ちるような感覚に陥った。
実際涙は出ていない。雀が死んだ四年前のあの日から、翼妃は泣くことをしなくなった。
◆
数ヶ月も経つと、翼妃にとって鹿乃子が白龍の代わりのような存在となっていった。この屋敷で唯一の味方であり、対話していて楽しい人物だ。
柊水が言ったように、鹿乃子が来てから白龍は翼妃の前に現れなくなった。抗議したい気持ちもあったが求めたところで却下されるに決まっている。翼妃にはいつの日かどんなことでも早々に諦める癖がついていた。虚ろな気持ちで理不尽を受け入れる、それが一番楽だから。
「またそんなものを勝手に持ち出して読んでいるのですか。お屋敷の人に見つかれば怒られてしまいますよ?」
布団に隠れて書物を読んでいる翼妃を見て、鹿乃子が呆れたように近付いてくる。その手には盆があり、心なしかいつもより量の多いおかずが皿に乗っていた。今日もこっそり盛ってきてくれたのだろう。
翼妃は嬉しくなって布団から立ち上がり、円卓の傍に向かった。
「でも、鹿乃子さんも勝手にお食事を持ち出して私に運んでるよ?」
「うっ……それを言われるとわたくし何も反論できないじゃないですか」
「ふふ、意地悪言ってごめんなさい。いつも心配してくれてありがとう」
お礼を言って食事を始める翼妃を見て、鹿乃子も柔らかく笑い返す。
「どうしてそんなに書物をお読みになるのです?」
復讐のためとは間違っても言えず、翼妃は少し迷った後に、“嘘ではない”答えを返す。
「最初は、自分が本当に忌み子なのか知りたかったっていうのもあって読んでた。……私の家族ね、私が六歳の時にみんな死んだの」
翼妃がこの話を他人に自らしたのは初めてのことだった。
「家族だけじゃない、住んでた集落のみんなも死んだ。薄々分かってたけど、あれは全部私のせいだったんだ。私が神社の傍を離れたから祟りが起こった。……きっとみんな、私のこと恨んでるね」
墨で書かれた文章を指でなぞりながら自嘲した翼妃を見て、鹿乃子は首をゆるく横に振った。
「……翼妃様は、ご家族に愛されていないと感じたことがありますか?」
鹿乃子の問いに翼妃は少し考え込んだ。
年月が経つにつれて記憶の中の母親の顔は薄れていく。集落の様子も今ではうまく思い出せない。それでも翼妃は何とか記憶の中の母親を引っ張り出して、優しく自分の頭を撫でてくれたその表情を思い浮かべた。
「……愛されていた、と思う」
「わたくしもそう思います。だって、廻神の人間が、貴女のお父様が、廻神に嫁いだ貴女のお母様が、忌み子についてご存知ないとは思えませんもの」
「……」
「お母様か、お父様か、どちらのご意向かは分かりませんが、翼妃様が女児であると知ってすぐにこの屋敷から連れ出して地方の集落まで移ったんです。自分たちが祟られる危険を冒してまで、翼妃様をこの屋敷から離そうとしたということだと思います。忌み子がこの屋敷でどんな扱いを受けるか知っていたからでしょう」
翼妃は自分の父親を知らない。自分が生まれてすぐ、両親の間でどんな会話がなされたのか知る術はもうない。
――だから名に翼と付けたの――
けれど、どの母親の姿を思い出しても、其の目は愛情に満ちており、自分を疎ましく思っているとは到底感じられなかった。兄も、弟も、祖母も――自分のことを愛していた、と翼妃は思う。
「きっとご家族が自ら選んだことです。翼妃様が罪悪感を抱える必要はありません」
自信を持ってそう語ってくれた鹿乃子。翼妃はまた、出もしない涙が流れたような感覚に陥った。鹿乃子と居ると心の奥底に封じたはずの色んな感情が戻ってくる。それが良いことなのか悪いことなのか翼妃にはよく分からなかった。
鹿乃子がそこでふと疑問に思ったように首を傾げる。
「それにしても、祟りを起こしているのは本当に神様なのでしょうか? 神様に不躾な行為をしたとかならともかく、何も悪いことをしていない翼妃様の周りを祟るなんて、神様がすることとは思えませんが……。少なくともわたくしの元いた神社の神様は人を思う良き神様でございましたよ。祀れば何でも神様とはいえ、玉龍大社の神が祟り神だという噂は聞いたことがありません」
翼妃もそれは考えたことがあった。実際直接会ってみても、白龍が人間個人を祟るような神とは思えなかった。祟りというのは神の意思でどうこうできるものではなく、何かをきっかけとして生み出され止まらない“仕組み”なのか――。
その辺りも知りたいと思いつつ、翼妃は書物を開き次の文章を読んだ。
――“忌み子を火の神の近辺に置くことによっても、災いを免れることができる。是れ、火を司る神と水を司る神が相近ずる故に成る也”。
「え……」
火属性の神々を祀る神鎮の家系、
「鹿乃子さん、これ!」
興奮してその頁を鹿乃子に見せる。
「火の神のところへ行けば、災いが起こらないって……!」
翼妃はこの屋敷から逃亡しようとは考えたことがなかった。帰る場所がないうえに、屋敷から離れれば祟りが起こることを知っていたからだ。自分さえ大人しくしていればもう誰も傷付けずに済むと思っていたから。だが、他の場所でも祟りが起こらないというなら話は別だ。
「薩摩國なんてどうやって行く気ですか? 知り合いもいないのに」
急に鹿乃子が厳しい口調になったので、翼妃は口籠った。屋敷を出るなどということをこの屋敷の使用人である鹿乃子に言うべきではなかったと後悔した。しかし、どうやら鹿乃子の懸念は別のところにあるらしい。
「わたくしは、出雲國からこちらへ来るまでも命懸けでした。長距離移動は険しい道のりです。この屋敷を出たいのであれば、確実に安全に薩摩國まで行ける見通しが立ってから行くのがよろしいかと」
「……鹿乃子さん、止めないの?」
「……ええ。わたくしは止めませんわ。翼妃様が幸せになれるのでしたら、どこへでも行ってほしいのです」
そう言って儚げに笑う鹿乃子には、昔翼妃と同い年の妹がいたらしかった。地の神の屋敷から追い出された後、彼女は一人で生きていく術もなく鹿乃子が探しているうちに幼くして餓死したという。
鹿乃子が自分に優しくしてくれる理由を翼妃はその時初めて知った。
◆
翼妃の目標は、“廻神家への復讐を果たした後に薩摩へ逃げること”になった。翼妃が神々についての書物を読み込み、鹿乃子に薩摩への行き方をこっそり調べてもらっているうちに、いつの間にか春が訪れた。
柊水が帝都へ行く季節だ。この日を待ち侘びていた翼妃は、柊水の旅立ちの日を派手に祝う屋敷の者たちとは逆行して自室へ向かった。やっと柊水と離れられるという喜びで胸が一杯だ。
桜の花びらが廊下に散っていた。
庭に咲く桜の木を見上げ、ふと白龍のことを考える。この柔らかい春の景色をあの人と見たかった、と。
――結局数ヶ月経っても白龍は現れない。鹿乃子が傍にいる限り、本当に翼妃の近くには来られないらしい。
白龍にもらった物は全て捨てられた。今となっては白龍が本当に居たことを証明する術はなく、あれは精神的に追い詰められた自分が見ていた幻だったのではないかとも思う。
(白龍……会いたい)
それでも翼妃は焦がれずにはいられなかった。
今の生活に不満があるわけではない。鹿乃子という自分の味方が現れてから、翼妃は以前よりも心が楽になった。けれど――それは白龍を忘れる理由にはならなかった。
「――翼妃ちゃん、何してるの」
突然話し掛けられ、びくりと体が揺れる。
振り返ると、先程まで屋敷中の人間に祝われていたはずの立派な制服姿の柊水がこちらへ歩いてきていた。西洋の影響を強く受けているであろう背広のような上着を見て、柊水の和装しか見たことがなかった翼妃は、すらっとしていると何でも似合うのだな、とぼんやり思った。
「……外の空気を吸いたくて」
屋敷の一室に大勢が集まっていて、暑苦しくて仕方がなかった。それに、これまで何年もかけて自分を酷い目に遭わせてきた柊水の進学を祝う気にもなれない。
それより主役がこんなところで暇を潰していていいのだろうか、とちらりと柊水に疑問の目を向けると、柊水はふふっと上品に笑った。――年を重ねるごとに、色気というものを身に纏っていく男だと思った。
「僕もだよ。人混みって嫌いなんだよね」
翼妃ちゃんと一緒、などと茶化すように言った柊水は、翼妃の腕を急に掴んできて、近くの一室に引きずり込んできた。油断していた翼妃は突然のことに驚き、屋敷を出る日まで自分をいたぶるのかと絶望する。
しかし、柊水は存外優しい力で翼妃を抱き締めた。
「……柊水様?」
「あーあ。翼妃ちゃんのこと、連れていけないかなぁ」
想像してぞっと寒気が走った。ようやく柊水から離れられると思っていたのに、連れて行かれるなんてまた地獄が始まるようなものだ。
「……私はこの屋敷を離れられない」
「よく分かってるね」
くすくすと笑った柊水にひやりとした。蔵の書物を読んでいることを悟られてはならない。これ以上何も言わないでおこうと思い口を閉ざした。
「祟りが起こってしまうからね。本当に、翼妃ちゃんは可哀想だよ」
「……」
「僕がこの屋敷に帰ってくるまでいい子で待っていてね。僕、高等學校で勉強して、もっと立派な神鎮になって翼妃ちゃんの元に戻ってくるから」
逃亡計画がうまく行けば、その頃には翼妃はこの屋敷にいないだろう。
高等學校で然るべき教育を受け、今よりも知識量が増え、神鎮の権利を適切に扱えるようになった柊水を出し抜く自信はない。何としてでもそれまでにこの屋敷から逃げなければならない。
「翼妃ちゃんは花の香りがするんだ。僕の母様と同じ温かい花の香り」
柊水が翼妃の髪を手ですくい、恍惚とした表情で言った。
翼妃はもう自分の母親の香りを思い出せない。でも、それよりも早く母親が死んでいるはずの柊水は覚えている。不思議に思っていると、柊水がぽつりぽつりと過去のことを吐露し始めた。
「母様が死んだ日、僕はずっと傍にいた。この屋敷じゃいくら優秀な神鎮の奥さんとはいえ女はろくな扱いを受けないから、死体もしばらく放置されててね。母様の死体が腐っていくのを、僕はずっと見ていた」
柊水の母親が死んだのは翼妃がこの屋敷へ連れてこられる前だ。まだ柊水も幼い頃。そんな年齢で、親の死体を間近で見るとはどんな気持ちだっただろう。翼妃も身近な人間の死体を見ているが、二度と思い出したくない光景だ。
「母様は祟りで死んだんだ。神は神鎮の家系の者には手を出せないけれど、母様はこの家に嫁いできただけで、一般家庭出身だからね」
息が詰まった。
「……祟り、って、私の……?」
「うん、そうだよ」
柊水が優しく微笑む。
そんなはずはない。祟られるのは忌み子の周囲の者たちであるはずだ。少なくとも、書物にはそう書いてあった。翼妃の住んでいた場所とは遠く離れた神社にいる柊水の母親が祟られるはずがない。
「当時、龍神はかなり怒っててね。忌み子が生まれたって言ってるのに、屋敷の神鎮が何年も翼妃ちゃんを探そうとしなかったから。廻神家は忌み子を軽視していた。國のどこかに逃げた一家を何の手掛かりもなく探すなんて無謀だしね。けど――それは思いの外龍神の怒りに触れた。脅しとして屋敷にいる使用人や神鎮の家系以外の者が次々と死んでいった。僕の母様も例外ではなかった」
「……」
「ほら、龍神は“悪い神様”でしょう? 欲しい物を得るために手段を選ばないんだ」
言われたことをなかなか呑み込めなかった。柊水が言っていることが本当ならば――柊水の母親が死んだのは、忌み子である翼妃があの集落へ逃げたからだ。
同時に、柊水が自分に抱いている執着の名前も分かった気がした。――憎しみだ。
「だから僕も、欲しい物を得るためには手段を選ばない」
しかし、柊水はとても憎んでいる相手に向けるものとは思えない湿っぽい視線を翼妃に向けてくる。柊水の指が翼妃の指に絡められ、衝撃で動けない翼妃の唇に、柊水の唇が重なった。
「愛してるよ、翼妃ちゃん」
きっと柊水の愛と自分の愛の意味は酷く異なっているのだろうと思った。
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