第一章 十歳

月夜の約束




 翼妃と柊水の出会いから、四年の月日が流れた。翼妃が十歳、柊水が十五歳になる年の秋、庭の紅葉が美しく見えるようになった頃、柊水は屋敷の中でも最も神鎮の権利をうまく使いこなせるようになっていた。顔立ちもより凛々しくなり、使用人の女性の中でも将来有望だと話題となっていることを翼妃は噂で耳にした。


 柊水が評価されるごとに、翼妃の心は冷えていった。あれほど非情な人間でも、能力さえあれば持て囃される。その様子を見るのが嫌で嫌で仕方なかった。



「翼妃ちゃん」



 廊下を歩いていると、柊水に呼び止められた。見た目だけでなく、去年声変わりした柊水の声は、出会った頃よりも低く大人っぽくなっている。


 柊水は来年、由緒正しき神鎮の家系、あるいは神を祀るための産業に従事している名家の者しか入学できないという、帝都で最も有名な高等學校に入学する予定だ。家柄があるとはいえ、入学試験や入学後の授業などは容易ではないと聞いている。そのため、今柊水はその高等學校への入学に備えて屋敷で多くの習い事をしており多忙なはずだった。こんなところで翼妃に構っている暇はないはずである。――しかし、柊水は毎日のように翼妃に声を掛けてくる。



「“鍛錬”しようか」



 翼妃が屋敷の者たちに受けていた鍛錬という名の酷い虐待は、いつの間にか柊水が引き受けるようになっていた。それまでの命をかけるような鍛錬とは違い、柊水は翼妃に直接武道を覚えさせた。火にあぶられたことすらある翼妃にとっては生温いものだったが、他所から見れば容赦なく幼い翼妃を蹴り飛ばしたり腹を殴ったりする柊水の姿は残忍なものに見えているだろう。


 柊水は幼い頃から武術を習っている分、翼妃を負かすことなど容易いようだった。来る日も来る日も、翼妃の腹を蹴り上げた柊水は、床に崩れ落ち蹲った翼妃の後頭部を土足のまま踏みつけてこう言うのだった。



「“ありがとうございます”は?」

「……ありがとう、ございます……」



 自分に暴力を振るう相手へ礼を言う屈辱。頭を踏みつけられるたび、翼妃の心は死んでいく。



「翼妃ちゃん、こんなに教えてあげてるのに一向にうまくならないね。何年もやってる剣術だってろくな腕じゃないじゃない?」



 翼妃はどの武術でも、柊水の足元にも及ばない。それは事実だった。だからこんなにも痛く、屈辱的な目に遇う。



(――駄目だ。まだ駄目だ。今の私では、この人に刃が立たない)



 翼妃がぎゅっと拳を握った時、柊水がようやく翼妃の頭の上から足を下ろした。翼妃は痛みに耐えながら起き上がり、髪の毛に付いた土を手で払う。



「痛かった?」



 柊水が翼妃の擦り傷のできた頬に手で触れて問いかけてきた。これだけ酷いことをしてくるのに、鍛錬が終わった後の声だけは優しいのだから居心地が悪い。



「……はい」

「治してあげる」



 柊水の手の平から水が生まれ、翼妃の頬を包み込む。この屋敷の敷地内を流れる川や池でも怪我は治るが、最近は柊水が神鎮の力を使って生み出す水でも治るようになっていた。柊水は着実に、神の力をうまく扱えるようになっている。



「翼妃ちゃん、また負けたね」

「……はい」

「負けたから、今夜は僕の部屋に来てね」



 そう言って片側の口角を上げる柊水の笑い方が不気味に見えた。それは柊水が鍛錬後必ず言うことだった。




 ◆



 柊水に呼ばれた日の夜には、身を清めて柊水のいる広い部屋へ行かなければならなかった。体を洗い、髪を洗い、櫛でといてから、お香の匂いがするその部屋――月明かりしか入らない暗い畳の間へと向かう。



「今日は遅かったね」



 真夜中だというのにまだ僅かな明かりを使って勉学に励んでいたらしい柊水は、教科書を閉じて翼妃を手招きしてきた。柊水が布団に寝転がるので、翼妃はその隣の畳の上に寝転がるが、そうすれば強引に手を引かれる。いつもの流れだった。



「いつも言ってるでしょ? 翼妃ちゃんはこっちだって。本当に物覚えが悪いね」



 暖かい布団の中、柊水の腕の中に抱かれて、翼妃はひたすらに心を殺した。――鍛錬をした日、柊水は翼妃に添い寝を求める。まだ小さな翼妃の体は柊水にとって抱き心地が良いのだろう。あと何年かすれば自分の体も大きくなって、柊水がこのようなことをすることもなくなる――そう思って耐えていた。



「翼妃ちゃん、僕、来年からこの屋敷にはいないんだよ。知ってた?」



 言われずとも知っている。柊水は高等學校進学と共に帝都にある玉龍大社の分祠を管理する親戚の屋敷で預かられることになったため、翼妃のいる総本宮の屋敷には一年に二度ある長期の休みの間のみしか帰ってくることができなくなる。そのため翼妃は柊水が十六歳になる年を内心心待ちにしていたが、そんな気持ちを表に出せば柊水が機嫌を損ねるため、できるだけ悲しそうな声を出した。



「知ってる」

「寂しい?」

「……え?」



 言われていることが理解できず、聞き返してしまう。寂しいわけがなかった。むしろ楽になれるのだから。柊水は、自分たちの関係性を友達か何かだと勘違いしているのだろうか。疑問は覚えたが、早く返事しなければ気を悪くするかもしれないと思い口を開いた。



「分からない。この屋敷に来てからはずっと柊水様と一緒にいるから、居なくなって自分がどう感じるか想像できない」



 神隠しに遭ってからは特に、毎日柊水が会いに来た。酷いことも沢山されたため居なくなれば清々するだろうとも思うが、正直な気持ちを話すわけにはいかないので曖昧な答えを返す。すると、柊水がふっと笑う気配がした。おかしくて笑ったのか、苦笑いなのか分からない。



「僕は怖いよ」

「怖い?」

「僕が見ていない間に、翼妃ちゃんがまた龍神に連れて行かれるんじゃないかって」



 そう言った柊水の手が翼妃の前髪をかき分け、その柔らかい唇がゆっくりと額に触れてくる。柊水はよく、こんな風に翼妃の体に口付けをするのだった。



「翼妃ちゃんは僕の玩具なんだから、勝手にどこかへ行っちゃだめだよ。約束」



 雲に隠れていた月が空に出てきたのか、部屋の中が先程よりも明るくなった。月明かりに照らされる柊水はいつものような意地悪な表情をしていなくて、ゆるりと優しく微笑んでいるように見えた。



 柊水は来年この屋敷を出る。翼妃は死ぬまで出られない。その事実が、翼妃をより苦しくさせた。







    ――――――……おいで……

     ――――――――――こちらへおいで……



 その夜、夢を見た。見知らぬ誰かが自分を手招きする夢。その顔は霧がかかったようによく見えない。雰囲気が白龍に似ているようにも思ったが、身に纏う着物の色がまるで違った。翼妃の目から見る彼は、どす黒く不気味な存在だった。


 ざあざあ、ざあざあざあざあ……


 風で木々が揺れる音がやけに不快に耳に響く。翼妃は襖で閉ざされた静かな部屋で、柊水に抱かれて眠っているはずだった。こんなにも煩いはずがない。


 ざあざあ、ざあざあざあざあ……


 一面金色で、常に水の流れる音がしているあの美しい部屋の夢を見る時とは異なる居心地の悪さを感じる。


 ざあざあ、ざあざあざあざあ……


 幼い頃から、夢を見る時はあの部屋の夢ばかりだった。それ以外の夢を初めて見た翼妃は恐ろしく思った。


 ざあざあ、ざあざあざあざあ……


 手招きしてくる者の居る方向とは逆方向へと走る。



    ――――――……おいで……

     ――――――――――こちらへおいで……



 しかし、後方から聞こえてくる声はいつまでも翼妃を呼んでくる。走って距離を取っているはずなのに耳に聞こえるその声の大きさは変わらず、翼妃は怖くなり思わず蹲った。



「……りゅう……」



 耳を塞ぎながら、夢の中でいつも自分を見守ってくれたその名を呼ぶ。



「白龍……っ!」



 夢の中であれば、彼はいつでも自分の元に来てくれる気がして。




 ――――次の瞬間、ザアッと大きく枯れ葉が舞い上がる音がして、翼妃は目を覚ました。


 先程まで居たはずの柊水の布団の中には居なかった。目の前にあるのは、不気味で大きく赤い鳥居だ。いつの間にこんなところに来たのか、眠りながらここまで足を運んだと言うのか――しかも、ここは、本宮ではない。奥宮だ。


 柊水と一緒に来なければ激しい頭痛のする場所。奥宮の周りは樹木で囲まれており月も見えない。



(どうして私、無意識にここへ――)



 その暗さと不気味な雰囲気に飲み込まれそうになり、翼妃は足をもつれさせながら走って石段を下りた。こんな夜更け、一人で居る時にあの激しい頭痛に襲われてしまえば、そのまま倒れて誰にも見つけてもらえないかもしれない。


 必死に走り下りているうちに躓き、階段から転げ落ちそうになった翼妃の体を支えた者がいた。


 卯の花色の着物と月白の髪。――白龍だ。



「はく、りゅう……何でここに」

「お前が呼んだのだろう」



 翼妃ははあっ、はあっと大きく呼吸した。ようやくうまく息を吸えた気がした。気付けば体が汗でびっしょりになっていた。見れば、自分は柊水の部屋で眠った時の寝巻き姿のままだ。



「お前こそ、丑三つ時だというのに何故一人でここに居る?」

「……夢を……見て」

「夢?」

「誰かに呼ばれる夢を見て……目が覚めたら、奥宮の鳥居の前に立ってた」



 ゆっくりとした口調で説明した翼妃を、白龍は何も言わずじっと見つめてきた。白龍が傍にいることで少しだけ落ち着いてきた翼妃はふらふらと階段を下りきり、できるだけ奥宮から離れようと坂を登り始める。白龍が安心させるように翼妃の手を握った。



「私、白龍の夢じゃない夢、初めて見た」



 この四年間も、幼い頃と変わらず白龍は時折翼妃の夢に出てきた。しかし、白龍の夢を見ない日は夢を見ず、頭の中は空っぽで、ただ眠りただ起きるだけだった。今日見た夢――あれを悪夢と言うのだろうか。



 初めて見る悪夢に動揺する翼妃の前に膝立ちし翼妃と目線を合わせてきた白龍は、



「怖かっただろう」



 と優しい声音で言い、翼妃を撫でてきた。翼妃はその優しい瞳にいくらか安心した。



「神の力にかなりやられている。一度奥宮から離れる必要があるな」



 白龍は翼妃の頬に触れてよく分からないことを言い、立ち上がった。



「翼妃、見たくはないか? 外の世界を」

「外の世界……?」

「この神社の外だ」



 翼妃の知る場所は生まれ育った集落と坂の上にある廻神家の屋敷と神社のみ。


 恐る恐る、こくりと翼妃が頷くと、白龍はふっと優しく笑った。


 ――次の瞬間、先程まで美しい人間の男性の姿であった白龍が、大きな龍の姿へ変貌していく。その体は、真っ白な雪のような鱗で覆われており、月明かりに照らされてまるで宝石のように輝いている。その眼は深い青色で、氷のように冷たく、夜の空気に浸透するような雰囲気を持っていた。頭には銀色の細長い角が生えている。



『乗れ』

「白龍……? 白龍なの?」

『ああ。空の上からにはなるが、夜の町の様子を見せてやる。お前は知らないだろうが、外には眠らぬ町が多くあるのだ』



 翼妃は白龍の背に手を伸ばし、ゆっくりとその大きな背に跨る。鱗はもっと冷たいものかと思っていたが、生き物の温もりを感じた。


 ――翼妃が跨った途端、『しっかり掴まっておけ』と言った白龍がぐんっと勢いよく空へと舞い上がる。大きな満月に向かって空を這い上がる白龍の姿は正しく翼妃の想像する“かみさま”だった。



(この体の大きさは、幼い頃夢の中の御簾の向こうに見えていた影と同じ――)



「……白龍は、ずっと昔から私のことを見守ってくれてたんだね」



 夜空には満天の星が広がっている。風が耳を刺激し、白龍の羽毛が風に舞う。自由自在に空を駆け抜ける其の背に乗っていると、まるで自分自身が龍になったかのような気分になった。


 下に見える夜景はとても美しい。上から見るとこの地はこんなに広いのか、と翼妃は感動を覚えた。力強く、かつ優雅に美しく飛行していく白龍に掴まっていれば、このまま月までだって行けるような気がした。



「ありがとう、白龍……。空から見る景色はすごく綺麗だね。私がこれまで見た景色の中で二番目に綺麗」

『そこは一番と言うところじゃないのか?』

「ううん。一番は譲れないよ。――四年前一度だけ見た水晶宮。あれには勝てない、この夜景も」



 目を閉じれば今でも鮮明に思い出せる。真っ青な海に浮かぶ白い雲。金と銀の輝き。美しい庭園、白い煙。



「――……あれが私の初恋だったから」



 翼妃は今も昔もこれからも、あの水晶宮を目にした時ほどの胸の高鳴りを何かに抱けるとは到底思えなかった。



『……妬けるな』

「ごめん白龍、何か言った?」



 上空の風は強くびゅうびゅうと音がしており、白龍の声がうまく聞き取れなかった翼妃が体を低くして白龍に耳を近づけるが、白龍は



『いや。独り言だ』



 と言って答えてはくれなかった。







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