神鎮の権利と、失われた雀の翼
◆
雀の声がして目が覚めた。翼妃は温かな布団の中にいた。縁側に目をやると、いつもの雀が首を動かしながら翼妃のことをじっと見ていた。餌をやらなければ、と起き上がった翼妃の元に使用人が現れ、雀はどこかへ飛んでいってしまった。
「ああ、起きられたのですか、翼妃様」
同じ部屋にいた廻神家の使用人が、興味なさげに掃除をしながら翼妃に声をかけてきた。
「三日間姿を消していたのですよ、貴女は」
「……三日……?」
そんなはずはない。翼妃の感覚では数時間だった。
「昨日、翼妃様が本殿の前で倒れているのを一般客が発見しました。神隠しでしょうね。神社ではたまにある現象です」
なんということはない、とでも言うように無表情で言った使用人は、掃除をした後の雑巾を搾り、水桶を持って出ていってしまった。それとほぼ同時に、とたとたと音を立てて何者かがこちらへ走ってくる気配がした。
「翼妃ちゃん!」
勢いよく襖を開けたのは自分を数時間前に閉じ込めたはずの柊水だった。柊水は自分の行いなど忘れたかのように焦った顔で布団の上の翼妃を抱きしめると、声を震わせながら言う。
「翼妃ちゃん、翼妃ちゃん……もう、戻ってこないかと思った」
まるで心配していたかのような発言に、翼妃は乾いた笑いを漏らす。
(貴方が私を閉じ込めたのに)
暗い倉の中でどれほど怖い思いをしたか、柊水は分かっていないのだろう、翼妃は思う。そして、やはりあれは夢だったのだと絶望した。白龍との楽しい時間は、ただの夢。目覚めればまたこの日常に戻ってくる。
「――ねぇ、どうしていなくなったの?」
翼妃の頬を押さえて顔をこちらへ向けさせた柊水の目の奥が、どろりとした良からぬ色を孕んでいるように見えた。
「約束して。これからはずっと僕の傍にいるって」
柊水はこれ以降、それまで以上に翼妃にべったりとなり、稽古の時間以外はすぐ翼妃のいる離れの部屋に入り浸るようになった。
◆
「翼妃ちゃん、見てよ。これが神鎮の権利だよ」
ある日、柊水は嬉しそうに翼妃を屋敷の中庭へ連れ出し、そこを流れる川の水に手を浸した。すると、こぽこぽと水の中から気泡が生まれ、次の瞬間水面が持ち上がったかと思うと、水が浮かび上がり龍を形作った。
「神鎮は代々神の力を借りることができるんだ」
廻神家の神鎮は水を操ることができるとは聞いていたが、これほど精細な操作ができるとは思っておらず、翼妃は目を丸くする。翼妃が反応を示したことで機嫌がよくなった柊水は、「もっと見せてあげるね」と言って龍だけでなく蛇や兎を形作って遊んだ。
翼妃は神鎮の力が本物であることを感じ、ふとあることを思いついた。幼い頃から見るあの夢は、もしかしたらただの夢ではなく、私だけが龍神の世に迷い込んでいるのではないか――神と対話できる柊水であれば、その答え合わせができるのではないかと考えたのだ。
「柊水様は……本当に龍神さまの声が聞こえるの? 龍神さまにお会いしたこと、ある?」
あの夢の中にいた龍は、とても自分に害を加えようとしているようには思えなかった。本来であれば自分をこんな目に遭わせている元凶、恨むべき相手であるというのに、優しく翼妃を見つめるその目からは、悪意など一つもないように感じられるのだ。
「翼妃ちゃんは、龍神のことが気になるの?」
――途端に、先程まで上機嫌だった柊水の纏う雰囲気が一変した。ぴりっと空気が張り詰め、翼妃は緊張で身を固くする。
「どうして? 龍神は、翼妃ちゃんを殺そうとしているのに」
柊水の冷たい目を見て、翼妃は内心焦りながらも表には出さずに誤魔化した。柊水との付き合いも長くなりつつあり、柊水の地雷を踏んでしまった時の空気感には敏感に気付くようになっていた。
「……ううん。龍神さまのお力を借りられるなんてすごいなって思っただけ。きっと話したこともあるんだろうなって。私、柊水様のお仕事のことは、何も知らないから……」
柊水の機嫌を損なえばまた酷い目に遭わされてしまう。どうにか柊水を良い気持ちにさせなければ、とできるだけ自然に柊水を称賛する流れに持っていこうとした。
柊水はじっと翼妃を見つめた後、
「そうだね。翼妃ちゃんに僕の話をしたことはあまりないね」
と納得したように薄く笑った。どうやら、何とか怒らせずには済んだようだ。内心ほっとする翼妃だが、柊水の方はすぐに無表情になり、水面から手を出し立ち上がった。
「でも、翼妃ちゃんは知らなくていいことだよ。廻神家のことも、僕のことも、龍神のことも、知らなくていい」
柊水はそう言いながら翼妃を置いてどこかへ行ってしまう。
「龍神は、悪い神様だから」
最後にそんな言葉を残して。
(……“知らなくていい”のは、私がどうせ死ぬから?)
翼妃は柊水が立ち去るのを見届けてから、柊水が水を操っていた川に手を浸けてみたが、何も起こらなかった。廻神家の遠い親戚だからと言って、自分に水を操る力は使えないらしい。
(本当に私には、神への生贄としての役割しかないんだ)
先程の柊水の言葉――お前には関係がない、どうせ二十歳になればこの屋敷からいなくなるだろう――遠回しにそう言われた気がして、翼妃は憂鬱な気持ちになった。
◆
家族がいないが故に帰る場所もなく、贄としての人生を受け入れただその時を待っていた翼妃の人生が一変したのは、屋敷に真っ白な雪が積もり、歩くとサクサクと音が鳴る二月のことだった。
庭に植えられた松や梅の木の枝にも雪が積もるようになったその日、翼妃はいつも通り柊水に連れ回された後、共に部屋へ戻った。
そして、そこで信じられない光景を見ることになる。
――雀が。雀の死体が縁側に落ちていた。それは翼妃が可愛がっていた雀だった。
死体に外傷はなく、周囲に飛び散った水の跡がある。飛ぶ動物を溺れさせるなどという力を使えるのは、廻神家の神鎮しかいない。
それを見て立ち竦む翼妃を見て、「ああ」と後ろから歩いてきた柊水が思い出したように呟いた。
「そいつ、ここで食い散らかして汚いから、今朝あいつらが面白がって殺してたよ。それは使用人が回収するだろうから、翼妃ちゃんは触らなくていいよ。よくないものが移ったら困るでしょ」
“あいつら”というのは、神鎮の権利が使える柊水の従兄弟たちのことだろう。
「見てたの」
「ああ、うん。つまんないことに時間を使う奴らだよね。鳥なんて少し脅せばどこかへ行くのに、わざわざ殺すなんて」
「見てたならどうして止めなかったの!?」
初めて柊水を大きな声で非難した翼妃に、柊水は目を見開いた。
「こんなのおかしいでしょう! 異常でしょう! “神様の力”を使ってやることじゃない!!」
泣きながら雀の死体を抱き寄せる。柊水に泣くところを見たのはこれで二回目だった。一度目は、奥宮の前で頭痛に苛まれていた時。そして二度目が――今だ。過酷な鍛錬を強いられても泣かなかった翼妃が珍しく泣いていることを、雀を思って泣いていることを、柊水は不快に思ったらしい。
「神鎮を否定するの? 君が? 神の贄となって死ぬことでしか役目を果たせない忌み子のくせに?」
柊水が指で空中に文字を書く素振りをすると、びしゃりと大量の水が翼妃の頭上から落ち、翼妃を濡らした。それは柊水が神鎮の力を利用して生み出した水だった。衣服も髪も体もびしょびしょになった翼妃は、冬の寒さに身を震わせた。
「何するの」
「鳥の死骸で汚れて汚いから洗ってあげたんだよ。嬉しい?」
妖しく笑って近付いてくる柊水に、翼妃は思わず後ずさった。そして、躓いて転んでしまった。ぽたぽたと翼妃の髪から滴る水で畳が濡れていく。
「泣くほど大事だった? その雀」
必死に雀の死体を守ろうとする翼妃の抵抗も虚しく、柊水は翼妃の腕を蹴って雀の死体を落とさせた。大きな声をあげて泣きながらそれを拾おうとする翼妃の髪を引っ張り引き戻した柊水は、大粒の涙を流す翼妃の顔前で囁く。
「翼妃ちゃんの大事なものは、一つ残らず奪ってあげるね」
――人よりも短い人生、二十歳までしか人の世で生きられない身であるというのに、この男は自分のそれまでの時間すら汚し苦しめるのだ。翼妃はそう思いまた涙が溢れ出てきた。
「脱げよ」
柊水が翼妃の濡れた衣類に手をかけ、無理矢理剥ぎ取ろうとする。翼妃は抵抗したが頬を叩かれ大人しくなった。
翼妃を一糸まとわぬ姿にした柊水は、其の肌を吸って紅い跡を付けていく。時に歯を立てられ痛がる翼妃だったが、徐々にその力も弱まっていった。
柊水に辱められ、翼妃の感情がなくなっていく。
畳に落ちたもう飛ぶことはない雀の、しおれた翼を見て、自分の運命もきっとこうなのだと思った。
同時に、翼妃は白龍の言っていたあの言葉を思い出してしまったのだ。
――――憎い相手は殺してしまえばいい、一人残らず――――
その時翼妃の心に生まれたのは、悲しみでも怒りでもなかった。
明確な殺意 復讐心が 翼妃の心を埋め尽くし、生まれて初めて他人の死を望んだ。
柊水に対し死ねばいいのに、と思う翼妃の後ろで、庭のししおどしがかこんと鳴る。
これが、
忌み子の復讐の始まりだった。
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