龍神の夢
◆
廻神家の屋敷での生活も半年以上が経ち、翼妃には友達ができた。それは、たまに屋敷を訪れる雀だった。
最初は部屋の縁側にやってくるその雀にこっそり餌をやっていただけだった。そのうち、雀は翼妃の肩に乗ったり手に乗ったりしてくれるようになった。翼妃にはその様子が愛おしくてたまらず、雀といる時間が、翼妃がこの屋敷へ来てからの唯一の安らぎとなっていた。
餌を食べ、翼妃とじゃれ合ってから青い空へ飛び立っていくその姿を見つめながら、ふと昔母親に言われた言葉を思い出す。「だから名に翼と付けたの」――と、頭を撫でてくれた母親はもういない。自分にもあのような翼があったら、と思う。
(私にはあの鳥のような羽はない。ここから逃げる術もない)
生まれ育った集落の人間は全員死んだと聞いた。翼妃は自分にかかった祟りの強力さを恐れた。廻神家から逃げたところで、自分は周囲に不幸をもたらしてしまう。であれば――生贄となるその日まで、この場にいるしかないのだ。そう思うと溜め息が出た。
◆
年末年始は多くの祭典が行われ、廻神家の人間のほとんどが屋敷からいなくなった。年末は大体的なお祓い、元旦は皇室の繁栄や国の発展、龍神の崇拝者と地域社会の平和を祈る儀式が新年のお祝いと共に行われた。神社は一般客で大混雑、廻神家の人間も総動員され、屋敷にはまだ子供の柊水と翼妃のみが残っていた。豊作を祈るため神前にお供えする七草粥の準備もあり、二人は数日間ほぼ屋敷に二人きりの状態となっていた。
「翼妃ちゃん、今日は何をして遊ぼうか」
柊水は二人きりの離れで翼妃にそう問いながら口付けをした。初めて接吻をしたあの日から、柊水は事あるごとに翼妃に口付けをするようになっていた。額や頬、首元にまで口を付け、翼妃がくすぐったがって抵抗すると露骨に不機嫌になるため、翼妃はいつしか抵抗をやめた。
誰もいない屋敷に静かな接吻の音だけが響く。不意に柊水が、「翼妃ちゃん、口を開けてよ」と言った。翼妃がわけも分からないまま口を薄く開くと、柊水の舌がその間を割って入ってくる。突然のことに驚き、翼妃の体がびくりと揺れた。
「や、いや……っ」
翼妃はぬるりとした感覚に耐えられず暴れ、柊水の舌を噛んだ。柊水の顔が痛みで歪み、翼妃から離れていく。そして、ちっと忌々しげな舌打ちの音がした。
――やってしまった、と青ざめる翼妃。次の瞬間、翼妃は頬を打たれていた。そして、恐怖で力が抜けたところをずるずると引き摺られ、神に捧げる米を置く倉庫まで連れて行かれた。
「次期当主の僕に歯向かうなら、この屋敷には必要ないね。付いておいで、折檻してあげる」
背中を突き飛ばされ、米俵にぶつかり倒れる。古い物置は外から施錠できる作りになっており、明かりも入らない。
「いや、柊水様、怖い」
「そこで僕の迎えを待っていなよ。いい子になれたら迎えに来てあげる」
翼妃は柊水に縋るように許しを乞うたが、柊水は外から戸を閉め施錠した。真っ暗な倉庫で、翼妃はどんどんと中から戸を叩いたが、柊水は無視してどこかへ行ってしまった。飲み水も食べ物のなく暗い倉庫で、もし二度と柊水が来なかったらどうしようという不安に苛まれ、翼妃は啜り泣いた。
――何時間そうしていただろう。冷たい床に蹲って泣いている翼妃は、そのまま眠ってしまった。
そして、久方ぶりに集落にいた頃よく見ていたあの夢を見ることになる。
水面のような透明な床、水の音、一面金色の壁のある部屋。不思議な言語を喋る着物姿の女性たちはいなかった。そして、御簾の向こうの影もない。夢の中でこの部屋へは何度も来ているが、誰もいないのは初めてだったため翼妃は不安に襲われ、立ち上がって外へ出ようとした。しかし、襖を開けるとそこにあったのは――水面。翼妃は地面と垂直に水面があることに驚いた。
目が覚めれば終わる世界だ、何があっても怖くない――そう思ってその水面に手を浸した翼妃は、向こう側から力強く引き寄せられた。体がとぷりと水面に呑まれ、翼妃は反射的にぎゅっと目を瞑ったが、水の中であるにも関わらず何故か呼吸ができるためゆっくりと目を開けた。
――翼妃は夜の空に浮いていた。否、空ではない。水の中で浮いている。下方に、きらきらと光る城があった。その城は真っ青な海に浮かぶ白い雲をイメージさせるような輝きを放ち、城門は大きく、装飾的な彫刻が施されており、門の上には躍動感あふれる龍の姿が刻まれている。城門の上には、鮮やかな色の美しい魚たちが夜の空に輝く美しい宝石のように泳いでおり、その周りには金色の雲のようなものが広がっているように見えた。門の中からは、明かりが灯され白い煙が上がっている。
(きれい)
翼妃はこれほど美しい建物を見たことがなかった。幻想的な美しさだ。まるで異世界に迷い込んだような感覚を得た。
「水の中にお城があるなんて、まるで浦島太郎の竜宮城みたい……」
「その通りだ。あれは水晶宮といって、水にまつわる神々の故郷でもある」
突然隣から声がしたことに驚き、横を見るとそこには――卯の花色の着物の彼がいた。彼も翼妃と同じく、水の中に浮いていた。
「……あなた、神社で会った、」
「覚えていてくれるとは嬉しいことだ。すまない、正月はどの神も多忙なもので、俺たちが目を離した隙にお前はこちらの世界に迷い込んでしまったらしい」
彼は翼妃の手を引き、空、否、水中に浮かぶ箱に向かって進み始めた。彼がその箱に触れると、次に翼妃が瞬きした後には、翼妃たちはいつもの部屋の中にいた。変な夢だ、と翼妃は思うが、水の感触などあまりにも現実感があり、ただの夢とも思えず彼に聞いた。
「あなたは神様なの?」
「ああ。俺は玉龍大社の本宮に祀られている神だ。白龍と呼んでくれ」
「え……!?」
動揺して大きな声を上げる翼妃の前で、白龍はあぐらをかいて座り、少し困ったような顔で聞いた。
「すまない、先程言った通り正月は忙しくて使用人も出払っていてな……俺でもいいか? 俺は
この部屋には昔から、不思議な言語を話す着物を着た女性たちがおり、翼妃と遊んでくれていた。白龍はあの女性たちのことを使用人と言っているのだろう。
目の前にいるのがあの龍神だとはにわかに信じ難いが、白龍から得られる安心感は、御簾の向こうから自分を見守るあの視線から得られるものによく似ていた。そのため翼妃の恐怖心はあまり恐怖心を感じず、ゆっくりと白龍の前に正座をして座る。
「ごめんなさい、私、一応廻神家の屋敷にはいますが、教育を受けていなくて、神様の前で行うべき作法もよく理解しておりません。廻神家の遠い親戚とはいえ、私の育ちは全く関係のない田舎でございますので、もし何か失礼があった際には、どうかお許しいただけますようお願い申し上げます……」
幼いなりに精一杯丁寧な言葉を使った翼妃を白龍はきょとんとして見つめた後、
「敬語などいらぬ。神だからといって気を使わずともよい。そのようなしおらしい女ではなかっただろう、お前は」
と言った。
「俺は前のお前には何度か打たれたぞ」
白龍のことを打った覚えなどない翼妃は困惑した。
「何をして遊びたい。欲しいものでもいいぞ。お前の望みなら何でも叶えてやる」
少し考えた後、やはり先程の水晶宮の光景が忘れられず、
「さっきのお城へは行けない?」
と問うた。しかし、白龍は首を横に振る。
「あの場所は人間が入れる場所ではない」
「そっか……」
「もっとも、お前がこちら側へ来れば入れるが……それはまだ、先の話だ」
「何でも叶えるって言ったのに?」
少し拗ねたような声音で聞いてみた翼妃に、白龍はふっと破顔する。
「そうだな。俺は確かにそう言ったな。……しかし、人間が幼いうちから水晶宮へ近付くことは精神の破壊に繋がる。代わりに、再現して見せてやろう」
次の瞬間、翼妃たちが座っている床の水面に、先程の水晶宮が映った。
「幻影だ。実際の水晶宮ではない。これで許してはくれぬか」
翼妃はその幻影に見惚れ、「うん、いいよ!」と笑う。その笑顔を見た白龍は、満足気に翼妃の頭を撫でてくる。
いつも遊んでくれる美しい女性たちはいなかったが、翼妃は白龍との会話を楽しんだ。神の世界のこと、白龍が苦手な神のこと、神同士の揉め事のこと……おかしな作り話を聞いているようだった。翼妃はその話を娯楽として楽しんだ。廻神家の屋敷へ来てから、書物の閲覧は許されていなかった。遊び道具も与えられなかった。柊水に連れ回されるばかりだったので、純粋に人の話を楽しんだのは久しぶりだった。
「お前はどうなんだ」
「え?」
「お前は先刻から俺の話ばかり聞いてくる。俺はお前の話も聞きたいが?」
翼妃は一瞬黙り込んでしまった。自分のこれまでの人生の中に、白龍の話のような面白さはない。
「……私はずっと、屋敷の人たちに虐げられているだけの日々だよ」
小さな声でそう言った翼妃を、白龍は興味深そうに見つめてきた。
「そうすると、お前は連中が憎いわけか」
「憎い……?」
憎悪というものが分からぬまま育った翼妃に、其の言葉は新鮮に響いた。
「憎い相手は殺してしまえばいい、一人残らず」
笑いながら簡単に言い切った白龍のそれを冗談と捉えた翼妃は、ぷっと吹き出し「そうだね、そうかもしれないね」と笑った。
あっという間に時間が過ぎ、三時間ほどが経った頃、不意に翼妃は眠たくなり、白龍の膝の上でうとうとと眠ってしまった。
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