廻神家での生活
柊水が言っていた通り、その屋敷へ迎えられてからの翼妃の生活は、どうして生まれてきたのだろうと感じるほどの生き地獄だった。
鍛錬だと言われ、屋敷の大人たちに死ぬまで水の中に沈められたり、木に縛り付けて燃やされたりした。それは翼妃が本当に生贄かどうかを確認するための儀式でもあった。実際、翼妃は死ななかった。水に沈められた時も、燃やされた時も、何故か目を覚ますと生きていた。大人たちはその度、龍神の強大な力を感じ喜んだ。
可哀想だから遊んであげる、と柊水は度々翼妃の居る離れに訪れた。大人たちは忌み子と次期当主が仲良くすることを好ましく思っていないようだったが、年の近い友達などこれまで居なかった柊水のことを考えたのか黙認していた。当主である柊水の父親は年中神鎮としての仕事で忙しく屋敷にいない。母親は柊水が幼い頃死んだ。柊水は親からの愛情など知らず、遊び相手もおらず育ったのだ。
ぼろぼろの衣類を着ていた翼妃に新しい着物を与えたのも柊水だった。「何だ、それなりの格好をすればそれなりに可愛く見えるね」と柊水は翼妃を着せ替え人形のようにして遊んだ。とはいえ楽しそうなのは柊水ばかりで、翼妃は日々の鍛錬に精神をすり減らし、段々と笑えなくなっていった。
柊水はその後も習い事の合間に翼妃を連れ回して遊んだ。神社周辺の食事処や川床で食事をしたり、紅葉を見に行こうと言ったり、境内でかくれんぼをしたりした。翼妃は柊水と一緒に居ると不思議と奥宮へ行っても頭痛がしなかったが、柊水の傍を離れるとすぐに激しい頭痛に襲われ、酷い時は体調不良がその後数日続いた。それを見た柊水は、奥宮で翼妃から離れようとはしなくなった。かくれんぼも本宮でのみ行うようになった。
翼妃は柊水が苦手だった。なんせ、鍛錬という名の拷問のような行為が行われた後でも構わず翼妃を連れ回し、翼妃の精神的な疲弊や意思は無視して遊ぼう遊ぼうと言ってくるのだ。翼妃が少しでも不満そうな表情を見せると「忌み子のくせに生意気だ」と言って蹴り、言うことを聞くまで体中を抓って泣かせる。そのような仕打ちを受けるため、翼妃に拒否権などないようなものだった。
ある日の夕暮れ、武道の稽古が終わった柊水は、いつものように翼妃を無理矢理連れ出して本宮でかくれんぼをした。翼妃は少しでも長く柊水から離れたいという思いから、本殿の裏側、できるだけ見つからないであろう物陰に縮こまって時が流れるのを待った。季節は秋、まだ少し肌寒い頃であった。
――――“それ”はどこからともなく翼妃の隣に現れた。
まるで気配がなかったため、翼妃はびっくりして横を見つめる。まるで演劇の中から抜け出してきたかのような、卯の花色の着物と月白の髪がよく似合う男性だった。彼は色素が薄く、どこか此の世の者とは思えない雰囲気を醸しており、その風貌から自分より八つ、九つは離れているように見えた。自分を虐める廻神家の者とも違う、見たことのない大人だった。
彼は翼妃に、「どうして泣かないのだ」と聞いた。翼妃はしばらく答えられなかった。
泣く理由はいくらでもある。家族が皆死んだこと、生まれ育った集落を離れて無理矢理知らない場所へ連れてこられたこと、屋敷の大人たちは口調は丁寧だが皆冷酷で自分を酷い目に遭わせること、柊水に心無い言葉をかけられたり虐められたりすること。けれどその中でも翼妃の一番苦しい記憶は――祖母が目の前で死んだことだった。
「どうしようもないから」
翼妃は、世の中にはどうしようもないことが溢れ返っていて、一度失われた命が戻ってこないことをきちんと理解していた。だからいつまでも泣いてはいられない。この状況に抗ったところで、疲れるだけだ。
「悲しいだろう」
「悲しくはないよ」
「どうして」
「私が悲しんだら、きっと天国のお母さんたちが悲しむから」
彼は無言で翼妃を見下ろした。翼妃たちの間を、秋に似つかわしくない暖かな風が吹き抜けた。彼は屈んで翼妃と目線を合わせると、「まだ幼いのに、偉いな」と翼妃を褒めた。
「……あなた、どこかで会ったことがある?」
翼妃は、何故か彼を知っているような気がしてそう聞いた。
「お前の夢の中で何度も」
彼は翼妃の頭を優しく撫でてそう肯定し、次に風が吹いた時には消えていた。翼妃は驚いてきょろきょろと辺りを見回したが、その人はもうどこにも見当たらなかった。
翼妃がぼうっと彼がいたはずの場所を眺めていると、
「――みぃつけた」
今本殿の裏側にやって来たらしい柊水が翼妃の着物の裾を掴んだ。柊水は突然背後から現れた彼に驚いてよろけた翼妃の腕を掴み、引き寄せて支える。
「ちょっと? 転けそうにならないでよ。相変わらず鈍くさいなぁ、翼妃ちゃんは」
抱き締められるような形になっているため、くすくすと笑う柊水の吐息を耳元で感じ、翼妃は何だか緊張した。
「は……離して」
「え?」
「近い」
身を固くしてそう訴える翼妃に一瞬きょとんとした柊水は、翼妃の様子を見て理解したのか、嘲るようにぷっと吹き出した。
「忌み子のくせに、一丁前に僕を意識しちゃったの? 可愛いね」
その“可愛い”には悪意しか含まれていないことを翼妃は知っていた。本来愛しいものにかけるはずであるその言葉も、柊水の口から馬鹿にしたような口調で出てくると嫌な気持ちになるものだ。
「翼妃ちゃんは男に抱き締められたことがない?」
「ない……そんなの」
「あの田舎でも? 仲の良い男の子はいなかったの?」
「お母さんが、女の子としか仲良くしちゃだめって」
「ふうん」
本当はいた。翼妃がこの屋敷に連れてこられるよりずっと前の話だが、同い年のやんちゃな坊主の男の子で、よく石ころを川に投げて遊んでいた子がいた。夏は一緒に虫取りをした。しかしある時、その男児は行方不明になり、後日水死体で発見された。翼妃の母親は顔色を変え、「だめよ。男の子と仲良くしたら」と何故か翼妃を酷く叱ったのだ。
その嫌な気持ちを思い出していた翼妃の唇に何か柔らかいものが触れた。――柊水の唇だった。それはほんの少しの間重なって離れた。
「じゃあ、接吻をするのも今のが初めてってわけだ」
疎い翼妃は、唇で触れ合う意味がよく分からなかった。
「せっぷん……」
「今のがそうだよ。仲の良い男女の挨拶のようなものだから、僕としかしちゃだめだよ」
翼妃は柊水が自分たちのことを“仲の良い男女”と表現することに違和感を覚えたが、文句を言ってはどうせ叩かれるので何も反論しなかった。その代わりに、先程から気になっていたことを質問した。
「柊水様、さっきここに誰かいたのを見た?」
「誰か? 僕がここへ来た時は翼妃ちゃん一人だったけど」
「そう……」
あれは幻だったのだろうか、と翼妃は考える。
「翼妃ちゃんはたまに変なことを言うね。頭がおかしな子だと思われるから、僕以外とは喋らない方がいいんじゃない」
酷なことを言う柊水の横で、あの卯の花色の着物の男性のことが、どうしても頭から離れなかった。
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