当主との出会い





 幼い頃から見る夢がある。


 頻繁にその夢を見る時もあれば、数ヶ月間が開くこともあった。最初にその夢を見たのがいつかもう覚えていない。おそらくまだ物心も付いていない頃であっただろう。



 夢の中で翼妃つばきはいつもある部屋に居た。


 その部屋には水面のような透明な床があり、常に水の音がしていた。壁は一面金色で、美しい着物を着た女性たちが十数人ほどいた。その女性たちは翼妃の知る日本語ではない、不思議な言語を喋っていた。品のある彼女たちは夢の中で翼妃に和楽器を演奏してくれたり、お茶やお菓子を振る舞ってくれたり、手毬を用いて遊んでくれたりした。翼妃はその夢が好きだった。言葉は通じなかったが、彼女らが自分のことをとても大事にしてくれているのは分かっていたから。


 そして、その部屋の御簾の向こうにはいつも、薄っすらと大きな影が見えていた。


 ――――龍の影。


 明らかに人ではないその大きな影は、御簾の向こうでいつも翼妃を見守っていた。





「あなたは龍神さまに守られているのよ」



 幼い翼妃に母は度々そう言っていた。



「龍神さま?」

「水を司る神様なの。まだ分からないかもしれないけれど、翼妃にはこれからきっと沢山不思議なことが起こる。……だから名に翼と付けたの」



 母は自分の膝の上に座る翼妃の柔らかな黒髪を撫で、ぽつりと言った。



 「龍神さまから、逃げ切れるように」――と。




 ◆



 翼妃たちの住む田舎では近所付き合いは必須であり、親同士が商売の話をしている間、翼妃は隣の家の女児と遊ばされることが増えた。



「翼妃ちゃんって、おどおどしてて、あたし嫌い」



 翼妃はその女児にいじめられた。彼女は親の目を盗んで翼妃に虫を投げつけたり、髪を引っ張ったりして遊んだ。



 そんな日々が続いたある日、彼女が近くの川で溺死したという知らせが届いた。



 まもなくして、翼妃の母親が死んだ。残された翼妃は祖母、兄、弟と住んでいた。数ヶ月ほど経つと、兄は死に、弟も死んだ。


 その後、限界集落の一角にある古い家屋には似つかわしくないほど沢山の大人が翼妃たちの家を訪れた。その大人たちは家を出たり入ったりした。誰もが幼い翼妃を見つめてひそひそと何かを話し、翼妃の祖母と別室で何か長く話し込み始めた。翼妃は襖の隙間からその様子をそっと眺めていた。そこには翼妃の母が生きていた頃よりもずっと細く、丸くなった祖母の背中があった。



「村の人間が立て続けに亡くなっています。これ以上被害を増やすおつもりですか」

「やめてくんねえか……翼妃はあの子が命をかけてここまで連れてきた子なんだよ」

「あなた方は神のお怒りに触れたのですよ。放置すればまた災いが起こります」

「あの子は……あの子だけは……」



 その時、祖母の背中が揺れ、椅子がぐらりと動き、祖母は大きな音を立てて床に倒れた。血が飛び散り、祖母はぴくりとも動かなくなった。



「逝ってしまわれたようですね」

「あの忌み子の傍にいたにしては、長く持った方でしょう」



 目の前で人が死んだというのに冷静な着物姿の大人たちは、倒れた祖母に駆け寄る翼妃を見て手を差し伸べてきた。



「帰りましょう、翼妃様。貴女は神の贄となるのです」



 祖母に泣き縋る翼妃は、言われたことを理解することができないままに無理矢理手を引っ張られ、引き摺られるようにして高級車に乗せられ、山を一つ越えることになる。




 ◆




 奈良時代から続く、龍神を祀るので有名な、古き都の山奥に位置する大きな神社――龍神信仰の総本宮、玉龍大社。そこが翼妃がこれから連れて行かれる場所らしかった。


 玉龍大社は翼妃の父方の親族、廻神えがみ家という一族が管理している。


 不思議なことに、一族の中で女児が生まれるのは三百年に一度。そしてその女児が生まれると災いが起こるという。女児を神に捧げると災いは止まり、その後また女児が産まれるまでの三百年間起きなくなる。そのため廻神家は千年以上前から一族の中に生まれてくる女児を忌み子として扱い、龍神の怒りを鎮めるために二十歳の誕生日に神に捧げることを習わしとしていた。



 車から降りた翼妃は手を引かれるままに大きな赤い鳥居を潜り、坂道を登っていく。玉龍大社は、本宮と奥宮に分かれており、昔はそのそれぞれに龍神が祀られていたそうだが、奥宮の方は今はいない、と大人たちは言った。これから翼妃が住む屋敷は玉龍大社の奥宮の更に奥に位置するらしく、そこへ向かうまでの道のりはまだ六歳の翼妃には厳しい坂であり、途中、翼妃は転けてしまった。



「ぐずぐずしないでもらえますか」



 しかし、それを見た大人たちは翼妃に優しく声をかけるというよりも、むしろ忌々しげに舌打ちをして泣いて痛がる翼妃の腕を引っ張り続けた。


 ――その時、翼妃の頭に激痛が走る。転んで擦りむけた膝の痛みよりも倍は辛い痛みが翼妃を苦しめた。



「痛い、痛い……」



 蹲る翼妃にいよいよ苛立ったのか、手を引っ張っていた大人が翼妃の頬を叩いた。地面に倒れ込んだ翼妃は、頭を抱えて縮こまる。



「頭が痛い……っ」



 その言葉を聞き、大人たちはハッとして目を合わせた。彼らが立っているその場所は、奥宮に向かう階段の前だったのだ。



「奥宮の影響でしょうか」

「まさか……奥宮の龍神は千年以上前から不在のはずです」



 その時、戸惑う大人たち、そして翼妃の前に、袴姿の少年が現れた。隣には御付きの者が二人立っている。



「――何をしているの」



 美しく、凛とした声。大人たちはざざっと身を低くし頭を下げた。


 あまりの頭痛に泣き喚いていた翼妃だが、次の瞬間ふっと頭痛が引いて泣き止んだ。



「三百年に一度の女児を連れて参ったところでございます」

「ああ……その子が“忌み子”?」



 少年が翼妃に視線を移す。泣き腫らした赤い目、先程の頭痛で地面でのたうち回ったためにぼろぼろの髪、引き摺って連れてこられたために土で汚れた衣服――少年とは正反対の小汚い身なりをしているためか、少年は翼妃を見て少し顔を歪めた。


 子供にしては大人びているその少年は、誰もを見惚れさせるほど端正な顔立ちをしていた。これほど和装の似合う子もいないだろう。色白で、綺麗で、どの角度から切り出しても絵になるような男の子だった。



「頭を下げなさい」



 隣の大人に叱咤され、翼妃は少年が誰かも分からないまま慌てて頭を下げる。



「あちらは次期当主様です。柊水しゅうすい様といいます」



 あれが……と、翼妃はぼんやりと車の中でされた説明を思い出していた。


 神の声が聞こえる人間の家系は日本で五つしかなく、それぞれ地・水・火・風・空の属性を持った神を鎮めており、そのような職業は“神鎮かみしずめ”と呼ばれている。廻神家は水の属性を持つ神を鎮める家系であり、当主となる人間は全国の水属性の神社から呼び出される貴重な人材だ。そんな廻神家に生まれた柊水という子供は、神々の言葉が聞こえる才能を持って生まれたらしく、次期当主となることは確実だった。



「いいよ。顔を上げて」



 いつのまにか翼妃の目の前まで近付いてきていたらしい柊水が翼妃に言う。翼妃は恐る恐る顔を上げた。



「何歳?」

「六歳……です」

「五つ下か、嬉しいな。こんなに年が近い子、これまで屋敷にはいなかったから」



 優しく微笑んだ柊水を見て、翼妃は張り詰めていた糸が緩んだかのように心の底から安堵し力が抜けた。家族が全員死んでいき、知らない大人たちに知らない場所へ急に連れてこられ、ずっと不安で怖くて仕方なかったのだ。ようやく人の優しさに触れてほっとした。


 ――しかし、次の瞬間、翼妃は柊水に突き飛ばされていた。ばしゃん、と音を立てて隣を流れる浅い川に落ちる。翼妃は何が起こったのか分からず、川に腹まで浸かったままぱちぱちと瞬きを繰り返す。



「あはは、言い伝え通りだ。ほんとに化け物じゃん」



 翼妃を見下ろしながら柊水が高らかに笑う。翼妃は、冷たい水の中で体が冷えていくのを感じた。



「もう下がっていいよ。この子僕が屋敷まで連れて行くから」



 柊水がそう命令すると、大人たちは直ちに去っていく。その後、柊水は翼妃に手を差し伸べ川から引き上げると、翼妃のびしょびしょに濡れた衣類を見て更に笑った。それが良い笑いではないことを、邪悪な意味を孕んだ笑顔であることを翼妃は確信する。同時に突き落とされたことへの怒りを覚え、寒さに手を震わせながら柊水を睨んだ。



「私は化け物じゃない……」

「そう? そう思うのなら、膝を見てごらんよ」



 自分の膝を見下げると、先程まであった怪我が綺麗に治っていた。



「この神社の周辺には沢山の川や滝がある。そこを流れる水に触れると、君はどんな怪我も治ってしまうんだ。とはいえ、最後に君みたいなのが生まれたのは三百年も前だから、僕も古い書物で記録を見た程度だけどね」

「どうして……」

「え? っはは、聞いてないの? あいつら適当だなぁ。君が神への生贄だからだよ。二十歳になったら神に捧げられ殺されるんだ。生贄は、それまで生きていないと駄目でしょう? 贄となるその日まで」



 動揺でふらふらと覚束ない足取りをする翼妃の手を引いて、柊水は屋敷の方へと歩いていく。



「“可哀想”な翼妃ちゃん。どうして生まれてきちゃったんだろうね? 母親のお腹の中で、死んでおけばよかったのに」



 自分を見つめる蔑むようなその目付きを見た時、翼妃はようやく車の中で大人たちに言われたことを実感し、未来への希望を失った。






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