夏の日のマラソン

増田朋美

夏の日のマラソン

その日も暑い日で、日本国外からきたひとがびっくりするほど暑い日だった。日本の暑さは砂漠よりも危険と言われるほど、日本は暑い国家に変わってしまったようだ。

その日、何気なしに朝刊を開いた蘭は、目の玉が飛び出すほど驚いた。

「女性歌手、福山景子さん、遺体で発見される。」

見出しにはそう書いてあった。ちなみに福山景子といえば、富士市でクラシック音楽をやっていれば、必ず一度や二度はその声を聞きたくなってしまう、と言われるほど、有名なソプラノ歌手であった。その記事によると、死因は鋭利な刃物で刺されたことによるものであるが、凶器は見つかっていないらしい。

驚いたことに、彼女を殺害した犯人の女性は、蘭が以前刺青の施術で関わったことがある、伊丹さと子さんという女性であった。すでに犯人が捕まっているので単純な事件であったのだろうが、伊丹さと子さんは、取り調べにも何も応じていないということも載っていた。蘭は、おかしいなと思った。伊丹さと子さんが、あんな有名人と接点は無いはずである。気になって蘭は、華岡のスマートフォンに電話してみた。

「もしもし、華岡?今うちに来た新聞に、伊丹さと子さんが、捕まったと書いてあったのだが。」

電話の奥で華岡は、ええ、もう新聞に載っているのか、マスコミは早いなあと間延びした声で言っていた。

「もし、それが本当なら動機は何だよ。伊丹さと子さんが、なぜ福山景子さんと関わりがあったんだろうか?少なくとも僕のところへ来たときは、その様な事は、一切言っていなかったぞ。音楽からはもう身を引いたとか言って。」

「まあお前のところに来たときは、そうだったのかもしれないが、以前彼女は、音楽大学を目指している時期があったそうだ。そのときに、福山景子と接点があったと、俺たちは睨んでる。」

華岡は、蘭に間延びして言った。

「それもそうだけど、なんでただの一般人であった伊丹さと子さんが、福山景子さんを殺害したのだろうか?そのあたり新聞には一切書かれてなかったぞ。ちゃんとそこら編、詳しく教えてよ。」

「それは俺のほうが聞きたいよ。福山景子さんの遺体は、自宅で発見されたんだけど、その近くに、伊丹さと子の毛髪が落ちていたんだ。指紋は一切出てこなかったので、伊丹さと子が、拭き取ったものだと思うんだがね。でも彼女は、何も話してない。もちろん、殺害した理由も、その日の行動もだ。俺たちにだって話してないんだから、変な推測で報道されてしまうのはやめてもらいたいなあ。」

ということは、伊丹さと子さんは、何も喋らないで取調室の中で黙ったままだと言うことか。

「とにかくな、伊丹さと子さんは、確かに激しやすい一面はあったけど、人を簡単に殺害してしまうような女性ではないよ。それはなにかの間違いでは?本人が自供しないんじゃ、なおさらのことだ。それに彼女は、僕のところに来たときは、一生懸命頑張ろうとしていてくれたんだし、世の中に絶望していたとも思えない。だから、そんな彼女が、福山景子さんを殺害するとは思えないんだ。」

蘭が自分の思っていることを話すと、

「わかったわかった。お前がそう思いたくなる理由もあるんだろうけどさ。事実、福山景子さんを恨んでいるような人物は全くいないんだよ。ただ、その、彼女の遺体のそばにあった毛髪が、伊丹さと子のものだったんで、彼女に話を聞いているっていうだけの話だ。彼女が何も答えを出さないので、困っているのは俺達の方だ。早く事件を解決できると思ったのにさ。全く、事件が多くて困るんだよ。警察はいくつあってもたりないよ。」

華岡は嫌そうに言った。蘭はこれ以上話しても、進展は得られないと思って、電話を切った。

「それにしても、伊丹さと子さんが捕まってしまうとは、世の中は一体何処まで悪くなったんだろう。」

蘭は大きくため息を付いた。確かに彼のところにやってくるお客さんは、前科者と言われる女性もいないわけではない。だけど、彼女たちは、二度と同じ過ちを繰り返さないように、一生懸命生きようとしていることが殆どである。

蘭はとりあえず、伊丹さと子さんと福山景子さんが、どういうところで繋がったのか、調べてみることにした。ちなみに、福山景子さんは、富士市内の県立高校を経て、東京藝術大学へ進学している。まあ確かに大学のほうが最終学歴になるから、高校は何処に行ったのかは、あまり重要視されない。それは当たり前と言えば当たり前だったけど、いろんなウェブサイトを見て蘭は、福山景子さんが、藝大藝大と派手に載せている割には、高校の名を一切出していないことに疑問を持った。しかし、伊丹さと子さんが、吉永高校に行った事は知っている。そこで変な教師が、彼女をいじめたせいで、彼女は大学へ進学できなかったということを本人から聞いていた。刺青をするときの言葉は、嘘は無いと蘭は信じている。というのはあまりに激痛で、嘘を繕っていられる余裕が無いからである。

蘭は思い切って吉永高校に行ってみることにした。そこでタクシーを呼んで吉永高校の校門前でおろしてもらった。確かに古い校舎で伝統のあるところだなと言うのはわかるのだが蘭がタクシーを降りたのと同時に、雷のような大声で、

「こら!ちんたら走るんじゃない!」

と怒鳴っているのが聞こえてきたのでびっくりする。どうやら体育の授業が行われているのかと思われた。眼の前を何人かの女子生徒が走っていった。なんだか学校の外苑を走らされているようであるが、こんな暑いのにマラソンなんかするのだろうか?中にはまともに走らないで、喋りながら歩いている生徒もいる。そうしているうちに蘭の前を一人の女子生徒が、

「頭が頭が痛い。」

と言って眼の前で座り込んでしまった。

「だ、大丈夫ですか?」

思わず蘭が言うと、

「大丈夫です。この生徒は、授業をしっかり聞かなかったせいで、そのバツとしてこうしてマラソンをしているのです。それをしなければ授業が成り立たない、吉永高校のためですから、外部の人は気にしないでください。」

と体育会系の教師が蘭に言った。

「しかし、こんな暑い中でマラソンをさせるのは危険だと思うのですが?」

蘭は思わずそう言うと、

「危険?そんな事ありません。むしろ甘やかされすぎて育った生徒ばかりですから、社会の厳しさをこういう形で教えているのですよ。悪いのは授業を聞かない生徒が悪いのです。そのために我々は指導をしているのですからな。」

と蘭に向かって、その教師は自慢そうに言った。

「しかし、その度にこうして走らされるというのは度を越しているのではありませんか?」

と、蘭が言うと、

「いえ大丈夫です。あたしが授業を聞かなかったのが悪いんです。これからも走ります。」

と女子生徒はノロノロと走り始めた。それを見た担任教師は、

「しっかり走れ!」

と、怒鳴りつける。まるで学校ではなくユダヤ人を強制的に閉じ込めた収容所の看守のような言い方だった。

「でもこれはひどすぎます。こんな暑い中でマラソンをするなんて、いくらなんでもすぐに熱中症に掛かってしまうのではないでしょうか?」

「いや、そうしなければ社会の決まり事を学ぶことはできません!口で言ってもわからないのだったら、そうやって教えるしかありません!」

蘭がそう言うと、体育教師ははっきりと言った。その間にも生徒はマラソンを大変そうに続けるのだった。先程の生徒は、少し離れたところでまた座ってしまった。

「こら!」

と体育教師は怒鳴るが、一人の女性教師が現れて、

「今日はもうやめにしてください。生徒の命にも関わる暑さです!」

と言った。多分養護の先生だろう。蘭はすぐに

「この生徒さんを病院に連れて行くなりしてやってください!」

先程の生徒を指さした。養護の先生は、すぐにその生徒に声をかけ、彼女を保健室まで連れて行った。蘭は心配になったので、思わず車椅子で彼女を追いかけてしまった。彼女はもう疲れ切っていたから、車椅子と同じスピードでしか歩くことができなかった。

養護の先生は、急いで彼女に水を飲ませ、保健室でしばらく休ませてくれた。そしてついてきてくれた蘭に、

「ありがとうございました。お陰で、生徒さんが倒れずに済みました。」

とお礼を言った。

「ええ、それは大丈夫なんですが、この学校では授業を聞かないとこうしてマラソンさせるんですか?すぐやめたほうが良いと思うんですが?」

と蘭は思わず養護の先生に言ってしまう。

「ええ。私も養護教諭の立場から、やめたほうが良いと何回も言い聞かせたんですけど、先生方は生徒が言うことを聞かせるためにはこうするしか無いという意見ばかりで。もうね、学級崩壊と思われるクラスが多いのです。生徒は話を聞かないし、先生は大声で怒鳴るばかりだし。最近は、国立大学にいかないと、人種差別させる先生も居るんですよ。そのせいで、精神がおかしくなって退学に追い込まれた生徒も、稀なことじゃないです。」

養護の先生は悲しそうに言った。

「吉永高校は、伝統のあるいい学校だと言われましたけど、こんな状態ではとても、その様な事は言えません。もう、何人の生徒を精神科まで連れて行ったことか。」

「そうですか。あの、すみません。つかぬことをお聞きしますが、あの、伊丹さと子という生徒を先生はご存知ありませんか?」

蘭がそうきくと、先生は思わず、

「警察の方ですか?」

と聞いた。

「いや、そうじゃないんですけど、独自に事件を調べているんです。あの女性が、まさか、殺人を犯すとはどうしても思えなくて。」

蘭がそう言うと、養護の先生は、

「ええ。私もなにかの間違いであってほしいと思います。まさか伊丹さと子さんが、あれほど仲良くしていた親友の、福山景子さんを殺害してしまうとは、私もどうしても思うことができません。」

と言った。蘭は大いに驚いて思わず、

「ええ?伊丹さと子さんと、福山景子さんは、どちらも吉永高校に通っていらしたんですか?」

と、聞いてしまった。すると、養護の先生は、ええと頷いて、

「とっても仲良しでした。特進科で同じクラスだったんです。でも、景子さんが、東京藝術大学を志望して、さと子さんが、別の私立の音楽学校を志望してから、先生方の扱いがガラッと変わってしまって。」

と言った。

「それはどういうことですかね?」

と蘭が聞くと、

「はい。国立の大学を志望していると、こちらの学校では特権がついてくるのです。ですが、私立大学を志望すると、大量の補習を受けさせられたり、地球のゴミだとか、親殺しとか、そういう名前で日常的に呼ばれるようになります。景子さんは、藝大は安いけれど、先生につくとかそういう意味では同じだからと言って、さと子さんに話しかけたりしていたのですが、さと子さんの方は、担任の先生方から、何回も親殺しだとか、死んでしまえなどと怒鳴られて、結局精神がおかしくなって、退学させられてしまったんですよね。」

養護の先生はそう答えた。

「つまり、国立大学はお金がかからないが、私立大学はかかるということを強調して、国立大学に入らせる作戦だったわけですか?私立大学だって、早稲田大学など立派な大学はあるじゃないですか?」

と蘭は思わず言ったのであるが、

「ええ、でも、この学校に来る時点でもう家族にお金がなくて身分が低いんだから、お前たちは、親殺しだなど、よく怒鳴って居る声が聞こえてきました。そんな大学なんて、本人の意志で行かせればいいと思いますが、この学校の先生はそうは思えないようで。よく、国立大学に行けば、幸せになれるとか、そういう洗脳教育をしてました。」

と、養護の先生は言った。

「そうですか。まるでナチスみたいですね。それで、福山景子さんは、結局こちらから藝大に進学なされたのですね?」

蘭が最終確認のつもりでそうきくと、

「ええ。景子さんは、音楽学校ではあるのですが最終的に国立大学へ行ったので、先生方も折れてしまったようです。まだ三年生で無いときは、二人によく音楽学校へ行くやつは地球のゴミのようなやつしか行けないと怒鳴っていましたが。」

養護の先生はとても悲しそうに言った。

「そういう指導は、現在も行われているのでしょうか?」

蘭が聞くと、

「ええ。今でも国立大学受験者と、私立大学受験者では、相当な扱い方に差があるようです。本当はそれではいけませんよね。生徒が行きたい学校があったり、入りたい会社があったりして、それを擁護してあげるのが教師だと思うんですが。」

養護の先生は、申し訳無さそうに言った。そういうことか。まあ確かに進学率は大事なのかもしれないが、それしか価値を見いだせないことがより問題ですねと言って、蘭は、吉永高校をあとにした。その後で蘭は、伊丹さと子さんが、相談に訪れていたという、あるカウンセリング事務所を尋ねてみることにした。さと子さんは、自分の事を一番良くわかってくれている人物だと言っていたことがあった。蘭が僕も仲間に入れてくださいと冗談を言ったこともあった。

「刺青師さん?そんな方がどうして伊丹さんの事件を調べているのですか?」

事務所を訪れた蘭に、カウンセラーは不可解な顔をして言った。

「ええ、どうしても彼女が犯人と思えなくて。もちろん、彼女がなにかしたのかもしれないですけど、彼女は、簡単に人をどうのとする人では無いと思うんです。」

蘭はカウンセラーの女性に言った。

「僕に話をするときは、すごく明るくて、これからの人生を一生懸命生きようという姿勢でいてくれて、僕もとても嬉しかったんですが、なんでそれをひっくり返すような真似をしたのかと思って。」

「そうですね、たしかに、伊丹さと子さんは、音楽の道に進むことはできなくて、別の道を見つけようと努力されていましたよ。ですが、一度、酷く半狂乱になられたことがありましてね。」

と、カウンセラーは、感慨深く言った。

「それはどんなことでしょうか?」

蘭が聞くと、

「はい。なんでも高校時代の同級生が、自分を尋ねてきたというのですよ。名前も話してくれました。その人物は、福山景子さんだったそうです。伊丹さんは二度と会いたくないと言って会うのを断ったようですが、景子さんはどうしても会いたいと言っていたそうで。」

とカウンセラーは答えた。

「その時に、福山景子さんが伊丹さと子さんになにか話したとか、そういう事はいいませんでしたか?」

と蘭が聞くと、

「ええ。私もそれが気になって、つぎのカウンセリングのときに伊丹さんに聞いてみようかと思っていたんです。ですが、その矢先にこの事件ですから。」

カウンセラーはとても残念そうに言った。ということは、伊丹さと子さんと、福山景子さんが、直接あって話をしたということになる。二人は何を話したのだろう?蘭は、そこさえ分かれば事件のカギはつかめるのではないかと思った。

蘭はカウンセラーの下を離れ、そのまま富士警察署にタクシーを回してもらった。そのタクシーの中では、ラジオ番組が報道されていたが、そのラジオのアナウンサーが、間延びした声でこんな発言をしていたのが聞こえてきた。

「臨時ニュースを申し上げます。25日に遺体で発見された、福山景子さんが、肝臓の悪性腫瘍のため、長期入院していたことが、関係者への取材でわかりました、、、。」

「お客さん着きましたよ!」

運転手に言われて蘭は、はっとわれに帰り、急いでタクシーにお金を払った。そして、富士警察署に突進し、伊丹さと子さんと話をさせてもらえないかと言った。そこへ華岡がやってきて、

「おう蘭。よく来てくれたな。お前だったら伊丹さと子も話してくれるのではないかと思って、今電話しようと思っていたところだった。ちょっと来てくれ。」

と蘭を連れて、接見室へ連れて行った。蘭は、汗を拭きながら、

「伊丹さと子さんですね。刺青師の伊能蘭です。あなたの左肩に、花の絵を入れた、彫たつです。」

とさと子さんに言った。

「あなたはもしかして、福山景子さんから謝罪を受けたのではありませんか?」

蘭は単刀直入に言った。

「もちろん、何を今更とあなたは思ったのかもしれませんが、もしかしたら、福山景子さんが、肝臓がんで余命僅かであることも聞かされたのでは?」

蘭がそう優しく言うと、伊丹さと子さんは、小さな声で、

「ええ、聞かされました。」

とだけ言った。

「その時、福山景子さんは、あなたに何をいったのでしょうか?教えてください。僕らは、あなたを変な事に利用したりはしませんよ。それよりも、二度とこんな事件を起こさないように、あなたと同じ様な目にあっている人が、同じことを繰り返さないように呼びかけていくだけです。僕らがすることは、そのことだと思っています。」

蘭が、心を込めて伊丹さと子さんにそう話すと、

「ええ。福山景子さんは、もう自分の人生は終わってしまったのだと泣いていました。私は、私の事を裏切ったのだから当然のことだと思いましたけど。」

さと子さんはとても小さな声でそういうのである。華岡が声が小さいと言おうとしたが、蘭はそれを止めた。

「でも、もうオペラ歌手としての人生も終わりにしたい、最後に罪滅ぼしをさせてくれといったとき、私も、彼女は決して幸せではなかったんだろうなということを知ったんです。だから、彼女が自殺するのを手伝いました。凶器は、彼女が持っていたのを、私が抜き取り、指紋をすべて拭いて、近くにあった用水路に流しました。そして、私自身も人生を終わりにしたいと思ったから、自分の髪の毛を抜いて、彼女の遺体のそばに置きました。」

そういうさと子さんに、蘭は、

「でも、本当は福山景子さんが死にたいとあなたに持ちかけたとき、それではだめだ、ちゃんと生きろというべきだったのではないでしょうか?そんな、自殺を手伝うのなんて、まだまだあなた方は若いのだし、まだまだ可能性はあるんではないですか?」

と、言ったのであるが、彼女は、薄笑いを浮かべてこういうのだった。

「いえ、吉永高校に行ったのが間違いだったんです。あそこは地獄の館ですよ。夏にマラソンさせるような学校だったんですから。」

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夏の日のマラソン 増田朋美 @masubuchi4996

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