勇気を出して

 部室の前まで来てゆっくりと深呼吸をする。勇気を出して告白すると決意したけど、やはり緊張はするものだ。今まで出来なかったことを、今ならできると確信できるような強い心は持っていない。そもそも心が強ければこんなことで悩んでない。でも、やろうと思わなきゃ永遠にできないままだ。


 意を決して扉を開ける。放課後の夕焼けが部室に差し込み、静かで薄暗い橙色の景色の中に心彩は一人で座っていた。心彩はじっと一点を見つめていて、その視線の先には私がプレゼントしたピンクの手袋があった。登校して教室に入ってきた時はつけてなかったけど、使ってくれたんだ。風が冷たくなってきて秋が顔を出し始めた今日この頃、夏休みが始まってすぐあげたプレゼントはようやく出番をもらえたようだ。


「み、みぁ」


 消え入りそうな声で名前を呼ぶ。好きになってから呼べなくなった彼女の名前。久しぶり過ぎたせいか口が思ったように動いてくれなかった。のどを通る空気も勢いが弱く、お腹に力が入らない。でも、静寂に包まれたこの場所ではよく響いた。心彩は私に気が付くとすぐさま手袋を隠した。


「ど、どうしたのツンちゃん」

「えっと……すこし話したいことがあるの」


 部室が静かなことに頼って、離れたまま会話を続ける。友達同士だというのに、初対面の人間同士よりよっぽど遠い距離間。お互い好き合っていて、もっと近くで話したいはずなのに、足は前に進んでくれない心と体の矛盾。ただ名前を読んだだけで苦しいくらいドキドキして、風邪をひいた時みたいに体が熱くなって頭がくらくらして、なんでこういう不都合な部分は正直なんだろう。


「い、今じゃなきゃダメかな」

「……え?」


 予想外の答えに体の温度が下がる。今までこんなことはなかった。初めて会った時も、出会ってすぐにご飯に誘った時も、私が心彩への恋を自覚した後も、心彩は私の要求を断ったことなんてなかった。少し危なっかしいところもあるけど、私を受け入れてくれているようで嬉しかった。断られるなんて初めてで、足元が不安定になっていく感覚が徐々に広がって来た。


「今はダメなの……?」

「ダメ、絶対にダメなの」

「なんで……」


 はっきりとした拒絶。高まっていた体温は一気に下がり、心臓が直接握られたみたいに苦しくなる。なにか、どこかで間違えてしまったのだろうか。心彩は私の言葉の裏を分かってくれるって甘えて、どこかで彼女を傷付けるようなことを言ってしまったのだろうか。


『あんたはダメダメなんだから』


 見てて不安になる彼女の世話を焼くたびに言っていたこの言葉。思い当たる節はこれ以外にもたくさんある。普通なら傷付けてしまうような言葉を、彼女の優しさに甘えて何度も吐いてしまった。照れ隠しなんて可愛い言葉で誤魔化しても、本当はただの暴言だ。告白するって決めたのに、委員長が背中を押してくれたのに、何もかも遅かったんだ。でも、傷付けてしまったのならせめて謝らないと。嫌われてしまったって、心彩が好きなことには変わりないんだから。後悔で泣きそうになるのを耐えて顔を上げる。


 その視線の先にあったのは、夕暮れの橙色なんか簡単に塗りつぶしてしまうほど真っ赤に染まった心彩の顔だった。


 もじもじと指先を遊ばせて、私を見たと思ったらすぐに逸らしてしまう不安定な視線。私より一回り身長が高いのにちっぽけに見えてしまうほど縮こまり、小刻みに肩を震わせる。そして何かを抑えるようにきゅっと唇を噛んでいた。


「い、いまの私、変なの。勉強してる時も、ご飯食べてる時も、寝る前も、ずっとツンちゃんの事ばっかり考えてて、なんにも手が付かなくて。でも、ツンちゃんの近くに居たら苦しくて……でも、幸せだって感じて、ツンちゃんが近くに居ないと寂しくて、ツンちゃんに触れたくなるの。今だってそう、ツンちゃんを抱きしめたい、ツンちゃんをもっと近くで感じたくてたまらない。でも、体が言うこと聞いてくれなくなりそうで、ツンちゃんを傷付けちゃいそうで……怖い。この感情が何なのか分からなくて、だから、分かるまで待って欲しいの。ごめんなさい」


 それを言いきった心彩は逃げるように私の背後にある扉に向かって走り出した。ずっと、真剣に向き合ってくれてたんだ。少し前まで感情の伝え方も分からなかった彼女にとって、人類が永遠に悩み続けるこの感情を処理することがどんなに難しかったか、どんなに苦しかったか。私が長年向き合うことをあきらめて逃げ続けたこの感情と心彩はずっと戦ってたんだ。


 苦しくて、でも幸せで。友達や家族とは一線を画す独占欲と、自分じゃ制御できないほどにあふれてくる情欲。複雑怪奇で制御不能なこの感情と、心彩にとって正体不明なこの感情と、私のことを想って向き合ってくれたんだ。その事実だけでもう十分だった。心彩はよく頑張ってくれた。今度は私の番だ。


「待って!」


 走る心彩の前に立ちふさがる。急に飛び出してきた私を前に止まることができず、激突して体勢を崩した。そのまま床に転び、勢いに乗っていた心彩が私を押し倒したような体勢になる。今までの付き合いの中で一番顔と顔が接近し、お互いの息遣いすら聞こえた。心彩がすぐに体を起こして私から距離を取ろうとしたので、腕を乱暴につかんで逃げられないようにする。


「待って、心彩。話を聞いて」

「だ、ダメだよ。言ったでしょ。今の私、すごく変で、だから危ないって」


 目を瞑って顔を逸らし、私から離れようと懸命に抵抗する。でも、逃がさない。逃がしたくない。この手を離したらまた心彩が苦しんでしまう。これ以上、私の弱さのせいで大切な彼女を傷付けたくない。


「危なくなんかない。心彩の中にあるその感情は、幸せになるための感情なんだから」

「幸せに……ツンちゃんは知ってるの? この感情が何なのか」

「知ってるよ。教えてあげる。その感情の名前は……」


 答えを彼女に伝えること。それは同時に私も告白することを意味していた。今までの私ならここで緊張してしまって誤魔化しに走っていただろう。でも、今の私は妙に落ち着いていた。その理由は単純だ。恥ずかしいなんて勝手な感情よりも、愛しい彼女を思う心のほうが強くなっているから。それは、私が心彩に抱いた恋心が過去にないほど大きなものだって証明だった。


「恋心っていうの」


 そう告げた瞬間、自分の感情に名前が付いた心彩の中から恐怖心が消えた。その名前は彼女が恐れていた謎の感情にピタリと当てはまったようだ。


「こいごころ……それって……」

「大丈夫だよ」


 ただ、私の気持ちを知らない彼女は自分の恋心を一方的なものだと思ってしまったようだ。友達に抱いた恋心がバレて拒絶されるとでも思ったのだろうか、顔色が一気に悪くなる。そんな彼女を安心させるために両手でぎゅっと抱きしめて体を密着させた。


「聞こえる? 私も今すごくドキドキしてるの。ずっと隠してたけど、私も心彩と一緒の気持ち」


 密着した体からお互いの心臓の音がはっきりと聞こえる。恋で熱された体温は暑いくらいで、時折重なる二つの音が心地いい。ずっとこうしていたいくらいだけど、ずっと彼女を待たせるわけにもいかない。一時的に体を離して、心彩と真っすぐ目を合わせた。


「好きだよ、心彩」


 今までの苦労が嘘のように私の本心を簡単に言葉にできた。ちゃんと伝えることができて嬉しいを、やり切ったことへの達成感が上回り、胸の内側がすっきりしたような感じがした。そんな妙に冷静になった私が結果が分かりきっている返事を待って彼女の顔を見ていたら、不意に彼女の唇が近づいてきて頬に触れた。かすかなリップ音がしてまた彼女の顔が視界に映ると、不安そうだった面持ちから打って変わって吹っ切れたような笑顔を見せてくれた。


「私も大好きだよ」


 心彩には本当に敵わない。落ち着いていた心は彼女のキスによって燃え上がり、気持ちに歯止めが効かなくなる。


「……いきなり大胆ね」

「え……好きな人にはキスするんだよね? も、もしかして違った?」


 この前の傷の手当てもそうだけど、どうしてこの子は妙な知識の偏りがあるのか。でも、彼女の純粋な行動に背中を押されるというのも事実だ。彼女によって火をつけられた私は、今までの自分では考えられないほど大胆に動くことができるようになっていた。


「あってるよ。でも、恋人同士のキスっていうのは……こうするの」


 ゆっくりと顔を近付けて、優しく彼女の唇に触れる。唇同士が触れ合って柔らかな感触と暖かな温度、そして息遣いを共有する。夏休みに一緒にショッピングに行ったときに買った心彩のリップクリームの甘い匂いがする。華の香りがする私のリップクリームの匂いを心彩は感じているのかな。大好きな人にファーストキスを捧げて、幸せで胸が満たされる。キスをしている時の息の仕方を知らないのか、心彩が苦しそうな顔になる。でもキスをやめようとしないのは、幸せに身を任せているからだろう。でも、彼女が苦しむのは本意ではない。名残惜しいと感じながら唇を離し、息を荒くする彼女を労うように頭を撫でた。


「こ、恋人同士のキスってすごいんだね。頭がぽわぽわした……」

「ふふっ、私も初めてだからビックリしちゃった。大好きな人とするキスってこんなに気持ちいいんだって」


 初めての体験に見つめ合って笑い合う。告白してすぐにキス。なんとも各方面からお叱りを受けそうなスピード感だ。でも、好きって気持ちに素直な心彩とだからできたこと。彼女を前にすると自分の本心も引き出される。その大好きの形がたまたまキスだっただけ。


「それで……もう恋人同士ってことでいいよね」

「うん。えへへ、大好きなツンちゃんと恋人同士なんて夢みたい」


 いつもはクールな彼女の顔が幸せそうにとろける。この顔を見るために私の人生はあったのだと思えるほど、彼女の笑顔はキラキラと綺麗に輝いていた。


「夢じゃないよ。私が絶対に幸せにする」


 心彩の両手を私の両手で包み込む。サイズが違いすぎるせいで全く包めていないけど、大切なのはここで込める想いだ。人生の中で何度も恋をした。でも、今後一生彼女以上に愛せる人はいないと断言できるほど、心彩は私にとってかけがえのない大切な人だ。私の全てを捧げてでも、心彩と一緒に幸せになる。天の神様に向けてそう誓った。


「大好きだよ、心彩」

「私も大好き。これからはずっと一緒だよ」

「うん。約束する」


 ずっとずっと、人生のすべてをかけて彼女を愛する。初めて想いを通じ合った彼女と共に私は生きていく。幸せ過ぎてどうにかなってしまいそうなこの時間を続けるために、大好きな恋人と約束を交わした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る