(4)真夏の雫

         ***

 この日もいつもと同じように待ち合わせして華恋が好きな所に連れて行ってくれた。

 今日は猛暑日といってもいいほど暑かった。さらに空には雲がまばらにあるだけでもろに直射日光が僕たちを照り付けていた。

 最初は街中で賑やかだったのだけどだんだんと街から離れていって人気がなくなっていった。

 そしてそのまま走っていくとどこから見ても人工物が全くないいかにも純・自然といえるほどの小さな山の前まで来ていた。

「ここなの?」

 少し不安気に聞いた。

「うん、そうだよ。ここだよ。まぁ、山の中に入らないとダメだけどね」

 と彼女はさも当然かのように言う。そして、ごく薄く、秘密めいた笑みを浮かべ手を静かにするっと抜き、山の方を指さした。

「えっ……大丈夫なの?」

 何度かまばたきをする。

「何が? まさか、虫が恐いの?」

 とからかうような声で聞いてきた。

「い、いや、べ、別に違うし。ほ、ほら早く行くよ」

 彼女になりふり構わず大股で歩いていく。

「待ってよ。なんでそんなに急ぐの。まさか図星なんでしょ。そうならそうと素直に言えばいいのに。面白いなーもう、冬は」

 手を押さえて微笑する彼女を尻目に、山の中にズカズカと入って行った。

 やっぱり人の手が加えられていないのだろう。そこら中に雑草は生い茂り蔓や蔦は伸び放題。それに蜘蛛やら蚊やらアブやらわけの分からない虫やらたくさんいすぎる。そんな奴らにびくびくしながら、今はもう使われずうっすらと道の形だけを残して雑草の楽園と化した獣道を通っていく。

 はあ。意地なんか張らずに素直に大人しく彼女についていったらよかったのに。なにやってるんだよ、僕は。

 ため息を吐いたそばからブンブンブンブン耳元で騒がしい。それが蜂じゃないでと祈りながら進もうとした時だった。

「――違う。そっちじゃないってば。どこ行こうとしてるのよ。こっちっ」

 絶望の淵から救い出してくれる女神のような心強くも可憐な声だった。いや、お告げか?(お告げの意味、全く違うか)

「華恋!」

 嬉しすぎて少し声がうわずってしまった。振り返ると目を細めて睨む彼女。

「なんで一人で行っちゃうの?」

 とタコみたいに口を突き出して言う。

「……ご、ごめん」

 さっきまでの感情の昂ぶりはどこへやら、今の僕はきっと情けない顔をしているのだろう。

 だから、そんな僕を見かねてか、

「もう。冬には冗談が通じないの?」

 と囁くように言い、そっと僕の手を取る。彼女は歩き出す前に動きをとめ、振り返り僕の目を見つめると、

「ごめんね」

 と、いたずらっぽい笑みを僕に向けてきた。

 それがどうしようもないくらいに僕の胸をかき乱した。だから何も言えずわざと薄く笑みを返した。

 生い茂る草や木の葉を潜り抜けながら進んでいく。獣道とはいえ道を通らないなんてどこに連れて行こうとしているのだろう。疑問に思っても目的地は教えないと彼女に口すっぱく言われているから訊けなかった。

「ほら、ここだよ」

 数分の後、夏の日差しが視界一面に広がったと思ったら眼下に広がっていたのは、透き通って静かに流れる小川だった。その光景に目を丸くしていると、

「すごいでしょ。きれいだよね」

 と意味ありげに目を細めた。

「まさか、こんな所にこんな綺麗な川があるなんて……」

「あー、それね。昔、私のおじいちゃんが散歩がてらにここを教えてくれたんだよ」

「おじいちゃん⁉」

 また、目を剥く。

「そうだよ。前にも言ったでしょ? 私のおじいちゃんは軽い緑内障で一日に散歩するだけでも少しは違くなるからって言われて。それで散歩をしている内にそれが趣味になって。で、そんな趣味の一環でここを教えてもらったの」

「す、すごい」

 ただただ感心するばかりだった。確かに彼女の祖父は散歩好きっていうのは聞いてたけど……。まさかこんな辺鄙な所まで来ているとは。それにこんな危なっかしい山に。

「――で、今日は暑いから、ここがいいかなと思って。いいでしょ」

 陽の光を浴びてキラキラと輝く瞳で訊かれると心臓がやけに大きく跳ね上がってしまう。

「う、うん」

「えっ、そんな嬉しそうじゃないの……?」

「い、いや、そういうわけじゃなくて……」

 どう説明したらいいものかと逡巡していると、彼女は、ふふん、と鼻を鳴らした。

「もしかして、変なこと、想像しちゃった?」

 全てを見透かしたような澄んだ瞳に、逃げ場のない小動物を狩る大型の獣みたいな意地悪く姑息な笑みを張り付けて僕を見下ろす。

「ち、ち、ちがう!」

 慌ててキッと睨む。けれど、追い詰められた小動物の僕は大型の獣の彼女には敵わないわけで。

「ほんとうかな?」

 そう言って僕の全身をなめ回すように凝視する。

 その視線が痛すぎて、少しでも話題を変えようと試みる。

「ね、ねえ、どうするの?」

「えっ? どうするって……?」

 急に言われて突き刺すような視線から丸く害のないものへと緩めていた。

「だ、だから、川。どうするの?」

 緊張して要領を得ない僕の言葉をなんとかかみ砕いて、優しく微笑んだ。

「どうするって……もちろん、こうするでしょ!」

 そう言って驚くべき速さでサンダルを脱ぎ小川に入ろうとした。が、

「え? ちょ、ちょっと待って! 川には寄生虫とかたくさんいるから危ないって!」

 僕は慌てて彼女の手をつかむ。

「ふふ。だいじょーぶ。山の中だから人の手が入っていないし自然のままだから綺麗で安心安全だよ」

「なんだ。よかったー」

 少しほっとして手を緩め僕もサンダルを脱いだ。

 彼女が小川に足をそっと入れる。それにつられ僕も足を少し入れる。ぬるいどころか逆にキンキンに冷たかった。小川の流れはさほど速くなく、ゆっくりと流れていた。

「冷たっ!」

「ね。冷たい。気持ちいいね」

 彼女は優しく揺れる瞳で口角を上げる。僕も自然に唇が緩んでいた。

 この猛暑日に川遊びほど楽しいものはない。しかも二人っきりで。

「――ひゃ! 冷った!」

 いきなり刺すような冷たさが走り驚いて振り返ると、そこには手のひらに水を少し貯めて無邪気に笑う彼女がいた。彼女が川の水をすくい後ろからそっと僕の背中にかけたのだと一瞬で理解できた。

「ふふ。良いリアクション」

 口許を手で押さえてからかうような口調で呟く。僕はため息を吐き、

「やったな!」

「きゃぁ! 冷たい!」

 それからは水の掛け合いだった。

 照り付ける太陽の中、空中を水が煌めき雫が飛び、心地の良い音が響く。

 しばらく掛け合ったら彼女はちょっと待っててと言って近くに置いたバッグを手にした。そして僕の方に戻って来た。どこか子どものようにキラキラとした表情をしていた。気がした。

 彼女の手には何かが握られていた。

「はい。これあげる」

 そう言ってその何かを僕めがけて投げた。

「え? なに?」

 それは宙を舞い太陽の光を浴び煌めいていた。僕の胸あたりにぽさっと当たりなんとかキャッチする。かろうじて黒くて細長い棒が目の端に映っていた。眉をひそめながら凝視すると、半径一センチ程度の小さくて黒い変な物体だった。

「あ、それ虫だった。多分ゴキブリ」

「え? えええええ!?」

 彼女の低い声が、少しずつ現実味を帯びてきて僕の手の中にある奴がカサカサと動き出した。

「うわあぁぁ!」

 咄嗟に肩が外れるのではないかというほどの勢いで手を離す。

「あはは。面白い」

 彼女はお腹を抱えながら吐息を漏らす。

「い、い、いや、な、なんで、ゴ、ゴキブリが」

 それとは真反対の僕は顔を真っ青にして、文字通り血相を変えて、必死に彼女に質問を投げかける。

 すると、彼女は笑いを堪えながら、今度は呆れたような口調で、

「それ、よく見てみてよ」

 と、僕の足許を指さす。

「え?」

 恐る恐る小川に落下したゴキブリを身構えながら見てみる。しかし動いてなかった。

「え? ……死んでる?」

「ふふ。そうじゃないよ」

 そう言って彼女は僕の方に来ていとも簡単にゴキブリを小川から持ち上げた。ちゃぷっと僕の心情には全く合わない可愛い音を立てて水を滴らせているゴキブリが姿を現す。

「ほら、おもちゃだよ」

 と触覚であろう場所を綺麗な細長い人差し指でつんと突く。

「え、ええええぇぇ!?」

「あはは。その反応良いね。傑作傑作」

 と、彼女はおどけたように笑う。まるで不気味な悪魔の笑い声のように。そして意地汚く嫌われ者の映画監督のような語尾まで……。

「お、おもちゃ?」

「そう。騙されてたの、冬は。やったー。ドッキリ大成功~!」

 きょとんとしている僕とは正反対に足をぴょんぴょんさせて跳ね上がる彼女。

 やられた。また、僕はからかわれたのだ。一気に肩の力が抜けて全身が脱力する。

「もうやめてよ」

 口を尖らせ、不機嫌さを精一杯表現させたしわを眉間につくる。

「やだね。可愛い冬が悪いんだもん」

 と、僕の威嚇を全く意に返していない。それどころか、

「騙される方が悪いって、知ってる?」

 と挑発してくる。少しずつ苛立ってきて、さらにキッと刺すように銃口を彼女に向ける。すると――

「ごめんね。騙しちゃって。その代わり、私が冬が言うこと、なんでもしてあげるから。ね、許して」

 威嚇する動物に敵意がないことを示すかのようにそっと言った。

 それでも、腹の虫がおさまらなかった。(一瞬、「なんでもしてあげる」という言葉にぐらついたのは気のせいだと思うことにする)

 何か僕も彼女に仕返しをして彼女にぎゃふんと言わせたかった。

「あ、じゃ、じゃあさ、後ろ向いてよ」

「なに急に。仕返ししようとしてるの? 虫が付いてるとかひっかからないよ」

「いいから、いいから」

 彼女を急かす。

「分かったよ。はい」

 意外にもあっさりと背中を向けた。抵抗されると思っていたから少し拍子抜けする。

 彼女は肩まで伸ばした艶やかで鮮やかな艶がある髪をとても大事にしていた。普段から気を遣っていてシャンプーなどにもこだわりがあるとのこと。掛け合った時も濡れないようにしていた。僕はニヤッと憎まれ役の敵役さながらに笑みを張り付けて――

「――きゃああ!」

 彼女の小さい悲鳴が静かな山中に響き渡る。

 少し悪い気はしたが、やられっぱなしは性に合わなかった。それに先に仕掛けてきたのは彼女だ。だからそれらが僕を咎めなぶる罪悪感を打ち消していた。

「どう? 髪が濡れるのは。嫌だろう? ん? ん?」

 僕はすっかり役に入って熱演してしまっていた。彼女の様子も知らないで――

「っつ。ひっ。ひ、ひどい。うっ。うう」

 彼女は切ない吐息を漏らしその場にうずくまって手で顔を覆ってしまった。その刹那、悲痛な嗚咽が僕の鼓膜の中へと侵食していった。

「えっ? え? え、嘘。ご、ごめん。そんなつもりじゃなかった。ごめん!」

 慌てて靄がかかった真っ白な頭で謝る。

 まさか泣くなんて……。一気に罪悪感と後悔と申し訳なさが最大限に肥大して襲ってくる。

「華恋ごめん。ごめんね。本当にごめん」

 半ば泣きそうになりながら彼女の前に行って謝る。

 何やってんだ、僕は。彼女を泣かせて。あんなにも大切に大事にしていた髪を……僕は……。何事にも限度っていうものがあるだろう! 何をやってるんだ! 彼女の大切な思い出を汚して、傷つけて……。もう自分で自分を――

 急に彼女は顔を隠していた手を横に動かしちらりと見やり、こちらを伺っていた。

「……えっ? ……なんで?」

 僕は再び頭の中が靄だらけになり混乱した。

 彼女は泣いているどころかけろっとして笑いをこらえていた。泣いてなどいなかった。

「あはは! ひっかかった。私が泣くわけないじゃない。これで二回目だよ。あはは」

 と、さっきまでの空気もろともぶち壊し、再び無邪気すぎるほどに笑う。

 僕は彼女の反応にぎょっとしたあと、呆気にとられ、目を点にしていた。

 やがて、彼女は僕の険しい表情に気づいたのか爆笑しかけたのを慌てて口を押さえてこらえ、身体を震わせた。

 僕は失笑したあと、苦笑いをした。そして彼女に怒りの目を向ける。

「――ごめんなさい」

 ふと真顔に戻った彼女は頭を下げる。

 不意を突かれ僕は目をまん丸くする。まさか、謝るなんて……。

「い、いや、そ、そんなに、怒ってないから」

 と言わざるを得なかった。彼女の謝る姿を見たいわけじゃなかった。もとはといえば僕が悪いのだから。それに彼女に謝らせたくない。

「そう言うと思った」

「――え」

 彼女はまたもやけろっとした表情をし、笑いすぎて涙が滲んだ目尻をこすりながら、またしてやったりといった笑みを浮かべる。

 もしかして、また?

 もう怒りや苛立ちを通り過ぎて、こんな自分に辟易し彼女の凄さに感心してしまう。

 僕は口をへの字にし頬を膨らませる。

「だ・か・ら・騙される冬が悪いんだってば」

 さらにむっと唇を引き結ぶ。けれど、彼女はため息を吐き、穏やかな表情になり、僕の頭上に腕を伸ばし、わしゃわしゃと頭を撫でられる。「ごめんね」と狂おしいほど愛しい声で囁かれる。すると、望んでいないのに、僕の唇がみるみる緩んでいく。

 それを見てか、ふっと安心しきった吐息を漏らす。

「ごめんね、冬。でも、私、演技上手いでしょ? 俳優並みでしょ?」

 といつもの明るい調子に戻って訊く。

「その演技力の上手さのせいで本気で心配したんだからね? それに騙されたし」

 まだ許していないから、口を尖らせる。

「ふふ。ありがとうね。騙して心が痛むよ」

 けれど、気づいていないのか、からかい、心臓あたりを手でとんとんと叩く。

「嘘っぽい」

 不審な目でぶっきらぼうに突き放す。

「嘘じゃないよ。でも泣くほど心配してくれたでしょ。嬉しいよ」

 ひどく優しい声で言われ太刀打ちができなくなってしまう。

「な、泣いてないし。泣きそうになっただけ」

「はいはい。言いわけはいいよ」

「言いわけじゃないってばっ」

 つい、むきになって大声を出してしまう。もう完全に彼女のペースに吞まれてしまっていた。

「ふふ。何むきになってるの」

 何がそんなにおかしいのか、またお腹を押さえ始めた。

 身体をくの字に曲げる彼女を見ていると、もう仕返しとかどうでもよくなっていた。

「ところで、私が今のところ全部勝ってるね」

 笑い終えた彼女はふと思い出したように言う。

 不服だけど、実際のところそうだ。一回も彼女を騙せたことはない。

「華恋が強すぎるんだよ」

 大げさにため息を吐いてみせる。

「ふふ。いつか私を騙せるといいね」

 目を細め意地悪気に微笑む。

「絶対に華恋を騙してみせる」

 今までにないくらい意気込む。

「ふふ。楽しみにしてるよ」

「うん。待っててよ」

 彼女は優し気な表情を浮かべこくりと頷く。

 ふと生温い風が吹き彼女の髪がサッと揺れた。

 夏の匂いが鼻を掠めた。

 まだ真上には太陽がさんさんと僕たちを照り付けていた。だからもう服は乾いて蒸し暑くなっていた。

 どこかで蝉の鳴き声が一つまた一つと聞こえてきていた――

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