第26話 叶 安子 ①
「やすこ、こっちへこい」
「はい、監督」
「やすこは、みんなとは別メニューな。アップは十分できているか?」
「はい、出来てます」
「覚悟の方は、いいかな?」
「出来てます」
と、きっぱりと言い切った、やすこ。
「じゃぁ、この通り、走るか歩いて、ここへ帰っておいで」
と言って、1枚の紙を渡した。
(そこには、学校周辺の地図に赤ペンで、走る順番が記されていた。第一グラウンドは5周などと書かれている。)
「その通り回ってくると、約10kmある。日本記録は30分くらいっだったはずだが、やすこは、まず、4時間以内に、帰ってこい」
「はい、わかりました」
「水筒を忘れないように。持って走る訳にはいかないから、途中で、どっかに置いとくといい。
それと、タイムを毎日、測っていく。でな、次の日は、前の日より1秒以上、早く帰ってこい。」
「たった1秒でいいですか?」
「そう、前の日より、たったの1秒だけ早く帰ってくれば、合格。
時計は、これを使え。」
(と言って、一見、オモチャみたいな、女性用腕時計『ジャガー・ヤクルト』を、渡した)
「『前の日より早く』を意識して、走るんだ。だから、例えは、明日、今日よりも10分早く戻ってきてしまうと、明後日は、今日よりも、10分1秒以上、早く帰ってこなければならなくなる。これが、ずーと続く訳だ。
だから、最初は、超ゆっくりと走らないと、後が続かないぞ。なんなら、歩いて回ってきてもいいし、走ったり、歩いたりを繰り返してもいい。そこは、自分で考えて回ってこい。ちなみに、これは、3か月続けるから、3か月後の最終目標や、ペースを考えて、計画的にやらないと、大失敗するぞ」
「監督、失敗すると、どうなるんですか?」
「まだ初日なので、そこは何も考えてなかったが、今、やすこに聞かれて、いい事を思いついた」
(とぉ~っても嫌な予感がした。やすこが硬直する)
「あのね、1秒チャレンジを失敗する度に、孔明からの、交際が1か月づつ、延期されてしまうのです。12回失敗したら、お付き合いできるのは、1年半後ね。
30回失敗したら、卒業後になっちゃうなぁ~」
と、葉山が真顔で、他人事のように言った。・・・・・(他人事だけど)
(もちろん、こんなの葉山の冗談だが、やすこは、葉山と違い、純真無垢の、花のJKである。葉山の話を真に受けて、もう泣き出しそうになっている)
<こんくらい言っておかないと、オーバーペースでやり続けそうだからな。まずは、動ける体を作る事が、大事だからね。やすこ>
「ではと。水筒、タオル持ったっか」
「はい、大丈夫です」
「それでは、今日は、合宿所までは、歩いていけ。いいな、歩くんだぞ。
合宿所から先は、やすこに任せる。無理はするな。止まって休んでもいい。それは、自分に負けた事には、ならん。負けたというのは、1秒チャレンジを、やめてしまった時だ。いいな!」
「はい、わかりました」
・・・・・・・・・
「あの~、監督、1つお聞きしたい事があるのですが」
「何だ」
「私だけ、どうして、呼び方が、『やすこ』なんですか? 他のみんなは、素敵なあだ名を付けてもらったのに」
<今、素敵な・・って言ったな。俺の名付けセンスを、理解するとは・・いい子だ>
「一応、考えてはいたぞ。
・・・・・・・・
『ジャイ子』って。・・・(こんなもん、絶対に付けないけど)
・・・・・
これは、嫌だろ?」
「はい、絶対に嫌です!」
<多分、今まで、そう呼ばれていて、辛い思いをしていたんだろうな>
「おまえさんが、減量に成功して、皆と同じ練習が出来る状態になったら、そん時にみんなの前で、『あんこ』に昇格した事を発表してやる。楽しみに待っていろ。
とは言うものの、一人だけ、何も無しでは、かわいそうだから、『安子』の代わりに『やすこ』と、ひらがなで、呼んでやる」
「はい!ありがとうございます。って言いたいですけど、よくわかりません。ひらがな呼びっていうのが」
「考えるな!感じろ! Don’t think, feel アチョーーーーー」
と言って ブルース・レーの物まねをする、おちゃめな葉山。
(おちゃめと思っているのは、葉山だけで、周りには、変人としか、写っていない事は、葉山は、まだ知らないというか、こういうタイプの人間は、一生気づかないでいるのである)
「はい!」
(ブルース・レーなんか、当然知らない、やすこではあったが、なんとなく、葉山に乗せられて、返事をしてしまった)
<この数時間の内で、ノリまで良くなって、声の大きさも変わりやがった。ここは、素直に、如月 孔明に感謝しとくか。♬かならず、愛は勝つー(^^♪ってか>
「では、スタート」
「行ってきます」と言って、やすこが歩き始めた。
コーチ陣も、クラブ員も、葉山と、やすことのやり取りを気にしながら、練習していた。
だが、誰も、やすこに『頑張れ』とかの声掛けはしない。
へたな同情や、慰めは、かえって、やすこにプレッシャーをかけてしまうだけだから。
しかも、やすこ自身が頑張らなければ、どうしようもない問題である。
だから、誰も何も言わない。
でも、心の中では、《やすこ、頑張れ!》と、皆が思っている。
これから、一人で走りに行き、その先で起こるであろう、嫌な事が。
チームで走り、やすこを守ってやれば、起こりえない、嫌な事が。
入学してから、今までに、巨体であるが故に、どうしても目立ってしまう、やすこに対しては、同級生や、先輩が、様々な事を、勝手に言っているのを、聞いている。
だから、これからの事もある程度、予想が出来てしまう・・・・・・・
合宿所の手前まで、歩いて来た時、さっそく、《それ》は訪れた。
ソフト部が、ランニングをしてきて、やすことすれ違う。
「何、あれ、関取? 相撲部ってあったっけ?」
「テニス部ス ってか」
「今年のテニス部、180cm越えが3人も、いるらしいよ」
「うち、二人は、モデルみたいな子で、もう一人が、あれ」
「ああなったら、終わりやね」
「悲惨」
わざと、やすこに聞こえるように、言って、走り去って行く。
やすこは、聞こえない振りをしていたが、聞くまいと思えば思うほど、聞こえてしまう。
さきほど、監督から『覚悟はいいか』と聞かれ、深く考えずに、『出来ています』と答えてしまったが、『覚悟』とは、こういう事だったのかと、悟った、やすこ。
今までも、同じよな事は、何度も言われてきた。嫌な気持ちは、もちろんしていたが、反面、仕方がないという、諦めもしていた。
だが、今は、『くやしい』と思う気持ちで一杯だった。
それは、悪口を言った生徒にではない。今まで、だらしのない生活をしてきた自分に対してである。
だた、自分に怒りを感じていても、やはり、この状況はきつい。
思わず、涙があふれてくる。
「あのデブ、泣いてない」
「泣いてないよ、あれ、汗だってば」
「太ってる人は、汗かきって言うじゃない」
「だよね~」
すれ違った、先輩らしき女子生徒たちからも、からかいの言葉が浴びせられる。
合宿所を過ぎ、ゆっくりと走り出す、やすこ。
ドスン、ドスンと音が聞こえてきそうな、重い走り方である。
第一グラウンドにくると、野球部と、サッカー部が、練習をしていた。
それらの部の横を、通り過ぎる時、男子生徒から、
「おい、おい、あれが、噂の、新劇の巨人族じゃね?」
「でか、でぶ、でべそ の、リアル3D」
「女、捨てとるし」
「1年生のタイヤ引き、あいつ乗っけて引かせようか」
「フェンスオーバー、体重オーバーの、場外ホームラン」
「ゴールキーパーやったら、完璧やん。ゴールの隙間あらへんし」
「グラウンドに入るなよ、凹むし」
やはり、ここでも、わざと聞こえる様に言ってくる。
(もう高校生だから、ほとんどの者は、それらの言葉を浴びせる事が、良い事だとは、思っていない。しかし、明らかに自分よりも劣る者、見た目に難点がある者などは、いじめの対象になりやすい。辛辣な言葉を浴びせる事により、『自分は違う』『自分は、まとも』 という優越感に浸れ、自分よりも下に思える者がいる事により、自分の存在を、より高い位置に持っていける満足感も得られる。
中には、相手の事など全く考えず、ただ単に、面白半分で、言っている者も、多くいるが)
第一グラウンドには、朝礼台が置いてあり、やすこは、その上に、水筒を置いて、走り出した。
<ここなら、目立つし、帰りも必ず通るから、忘れないだろうし>
1週だけでも、走ってみようと頑張ったが、やはり、無理だった。途中で歩き出すと・・・・・
「もう、歩いてやんの」
「目障りだから、もうくるな」
「150Kgのやつが、腹減って、今まで以上に食って、200㎏超えるパターンやな」
「みんな息苦しくないか。あいつに、周りの空気全部吸い取られるんやないか?」
「頼む。俺の視界から、消えてくれ」
これらの言葉は、やすこには、聞こえていないが、やすこネタで、各クラブは、仲間内で盛り上がっていた。
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