第2話 多岐商業高等学校

 多岐商業高等学校は、1950年創立の、伝統ある学校である。

学校は、山の中腹にあり、敷地面積はかなり広い。なんと東京ドーム10個分以上と恵まれた環境下にある。県内に実業高校が少なかった事などにより、この地域内にあった 大小3つの学校が統廃合されるかたちで、新しい土地に出来た学校であった。

 商業高校とはあるが、普通科も充実しており、平均して商業科生徒6、進学科生徒4という割合で、学校運営がなされていた。


 各運動クラブには、それぞれの練習場・コートがあり、その他に3つの体育館と、柔道場・剣道場もあり、室内スポーツにも充実した練習場が確保されていた。

 国鉄の駅や、3つの高速道路網に囲まれている事もあり、交通網が充実していたため、人口は毎年、順調に増えていった。特に2000年代に入り、学校近くに、大規模な新興住宅地の建設や、アウトレットパークが出来、更には全国展開している、超大型複合マーケットが出来ると、人口増加は更に加速していった。

このような開発が進んでいる地域にあったため、毎年、生徒獲得に苦慮する事はなかった。


 企業への就職率は県内でもトップであり、東大生も排出していた。クラブ活動も盛んである。

特に野球部は、3度の甲子園出場を果たしており、プロ野球選手も排出している。

 その他、ウエイトリフティング部・陸上部も長年、全国レベルで活躍し、バレー部、弓道部、バスケット部、卓球部、バトミントン部、柔道部、剣道部も、5~10年周期でインターハイ出場を果たしている。


 文科系では、吹奏楽部、軽音楽部、美術部が有名であった。

 (余談ではあるが、女子の制服は、長めのジャンパースカートと、白のスクールシャツで、他行と比較すると、古臭い感じが否めない。しかし、これが企業のトップには受けている。採用面接時、面接官には好印象を与えており、長年に渡り制服の変更がされていないのである。生徒からは不評?ではあるが)


 そして、女子ソフトテニスクラブはと言うと・・・・・


 1990年代は、インターハイの常連校であった。県内では11連覇を達成し、無敵状態。(学校の方針として)特待生制度は無く、他県からのスポーツ留学生受け入れなども行っていない。

 しかし、ジュニア選手や中学生にとって、多岐商女子テニス(このころは、部活動で、クラブ化は、まだされていなかった)への入部は、夢であり、目標であったので、地元の優秀な中学生選手が、自然と入部してくるという良い流れを作りだしていたのである。

 インターハイでは、1992年の準優勝が最高成績で、次年度以降3年連続で、準決勝進出を果たし、多岐商女子テニスクラブの黄金期を作った。

 クラブの強みは、男女合わせて16面もあるテニスコートと、長年在籍されていたテニス顧問の優れた指導力、更にボランティアで、ほぼ毎日、技術指導に来られていた、2名の男性コーチの力によるところが大きい。

 コーチは、二人とも国体選手として、長年活躍をされており、活動拠点が違っていたのでペアを組んだ事はなかったが、たまたま前衛と後衛であったため、バランスの良い、指導がされる事となったのである。


 しかし、永遠の快進撃など有り得ない。

顧問の先生が、他校へ異動し、後に、コーチ2名も高齢を理由に引退されると、徐々にチーム力は落ちていった。


 更に、2015年、隣の市に、私立の白鳳学園が出来ると、ソフトテニス部の部員数が減少の一途をたどるようになった。


【私立 白鳳学園 】 

 全国規模の総合商社、藤堂グループが運営する 白鳳学園の岐東校である。

文武両道を目指し、特待生制度はもとより、他県からの優秀な生徒の受け入れも積極的に行い、充実した教育体制を整えていたのである。


(財務力を武器に、政治家と密接な関係を築いており、強引な手法で、事業の拡大を図っていたため、世間からの評判は決して良くはなかったが、こと教育事業に限っては、利益追求主義ではなく、日本の教育水準を上げ、国際的に活躍できる人材育成を目的とし、熱意ある学校づくりを目指していた。)


 豊富な資金力により建設された近未来的な校舎と、ハイレベルな教育設備を有し、その面でも他の追従を許さなかった。

 教育面でも、過去の負の教育をバッサリと切り捨て、今後必要となるIT関連学科を設立するなど先進的で、特にAI特科は人気がある。

 過去には、普通高校(進学校)、実業高校等の区分があったが、教育制度の改正があり、現在は、国際的な教育レベルを向上させるため、悪しき垣根の撤廃、新学科の自由な創設等、学校により、より特色を出せる教育環境・制度となっている。


 制服は、有名デザイナーによる、JK受けするデザインで、スカート短めの、誰が見てもいいなと思える、人目を引く、今ドキッ(今時)制服であった。

(それに引かれて入学する生徒も少なからずいた)


<藤堂グループトップ 藤堂 風磨は、小学校を卒業するまで、この地で暮らしていた。野山を駆け回り、川や小池で遊び、楽しい思い出ばかりがある小学校生活を過ごしていた経緯があり、そんな故郷へ恩返しがしたいとの思いと、人口増加による事業拡大も見越しての学校設立となったが、その事を知る者は少ない>


 そのような、魅力的な学校が出来てしまうと、やはり多岐商にも影響が出てしまった。

 過去には、目指せ多岐商! であったジュニア選手や中学生選手が、こぞって、目指せ白鳳!となってしまい、多岐商ソフトテニスクラブは、戦績の低迷とも相まって、男女とも、部員の確保すらむづかしくなり、とうとう、2020年、廃部となってしまったのである。




 


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