第32話 不審者 *柚木視点*
「ありがとうございました。またお越しくださいませ」
私が頭を下げると、そのお客さまは無言のままお店から出ていった。
少し不愛想だなと思ったりもした。
会計している間もずっと俯いていて、声は出さずに頷くだけ。グレーのパーカーを深く被っている上にマスクをしていたから、何歳くらいの人なのかもわからない。
「しかも、まだ部屋の時間残ってるし」
どうやら1時間パックで入室したみたいだけど、実際に滞在したのは僅か10分ほど。何をしていたのか気になって、急いで部屋の掃除に向かったけど、中はまるで掃除後のように綺麗だった。
お店のサービスを利用した痕跡は一切ない。
あのお客さまは一体何がしたかったのだろう。
「あ、姫川さん。そのまま休憩しちゃっていいよ」
確認だけして受付に戻ると、厨房から出て来た黒羽さんにそう言われた。
私は「わかりました」と返して、スタッフルームに向かう。
「はぁ、暇」
パイプ椅子に腰かけると同時に、つい本音が漏れた。
休日のはずなのに、やけにお客さまが少ない。最初は暇な時間も楽しく感じられていたけど、ある程度仕事に慣れた今は、何か身体を動かしたくてうずうずする。
「黒羽さんがああなるのも納得だ」
最初は受付でぐでぇーってしている理由がわからなかったけど、今なら少し共感できる。まあ、だからって自分があの体勢になろうとは思わないけど。
そんなどうでもいいことを考えながら、私はスマホを立ち上げた。
するとロック画面には、一通のメッセージが。
『今日の花火大会楽しみにしてますね』
そらっちからだった。
これにはつい笑顔がこぼれる。
『私も楽しみにしてるよ(^^♪』
高揚した気分のまま返信すると、すぐに既読が付いた。
もしかしたらそらっちも、ちょっぴり浮かれているのかもしれない。なんて妄想を膨らませながら、私はバイト中であることを忘れてメッセージに勤しむ。
今日のシフトが終われば待ちに待った花火大会。
おとちゃんに借りる予定の浴衣、そらっちはどんな反応をしてくれるだろう。彼はシャイだから、恥ずかしがって何も言ってくれないかもな。
「その時はいじわるしてやろっ」
冗談半分に呟いて、私は一度スマホを閉じた。
ぐぐぐーっと上に伸びをする。
まだ休憩時間は残ってるし、今のうちに次のシフト希望を書いておこう。そう思って机の上を見ると、そこにはコミックが一冊置かれていた。
ワン〇ースの第27巻。
状況からして、犯人は誰かすぐにわかった。
「もぉ~、絶対に黒羽さんだよぉ」
あの人、最近になってワン〇ースを読み返してるって言ってたし。きっと休憩中に読んで、片付けるのを忘れたんだと思う。
もし読みたいお客さまがいたら困るし、仕方ないから私が片付けよう。
コミックを持って、スタッフルームを出る。相変わらず受付に突っ伏している黒羽さんに一言文句を垂れて、本棚の方に向かうと。
「あれ? あの人って……」
客室前通路に記憶に新しい人がいた。
グレーのパーカーを纏っている例の不愛想な人。相変わらずフードを深く被っているので、その素性は掴めない。というか、さっき退店したはずなんだけどな。
「黒羽さん。あのお客さまってまた入られたんですか?」
コミックを片し、私は受付に戻る。
黒羽さんに声を掛けると、突っ伏した身体をむくりと起こした。
「んんー、どのお客さまのこと?」
「あの人です。グレーのパーカー着てる」
そう言って振り返ったけど、そこにはもう誰もいなかった。
「グレーのパーカーって。もしかしてあの不愛想な人?」
「そうですそうです。さっき会計して退店されたはずなんですけど」
「え、それはおかしいよ。だってあの人、1時間パックで入ったし」
「なのに10分くらいで帰られたんですよ。黒羽さんが居ない時に」
そんなことないでしょ、と言って客室管理画面を確認した黒羽さん。例のお客さまが利用していた部屋が、空き部屋表示になっているのを見て。
「え、マジだわ。どゆこと?」
珍しく驚いた顔をしていた。
「会計済んでるのに、どうしてその人はまだいるの?」
「ウチもそう思って黒羽さんに確認してみたんですけど……再来店されたわけじゃないんですか?」
「してないしてない。姫川さんが休憩行ってからだーれも来てないし」
あ、でも。と黒羽さんは続ける。
「オレがトイレ行ってる間に来てたらわかんないわ」
「だとしても受付しないで中に入るっておかしいですよね」
「それはそうだ」
短い利用時間で退店し、黒羽さんが居ない隙に再度お店に戻って来た。
考えれば考えるほど、怪しい匂いがぷんぷんする。
「ちょっと見てきます」
私はそう言って、客室の方へと急いだ。
客室前通路には誰もいない。ならばと本棚の方を見に行ってみたけど、やっぱり誰もいない。なら、サービスコーナーだろうか。
そう思って覗いてみたけど、居たのはドリンクのおかわりを取りに来ていた男性のお客さまだけだった。
あの人は一体どこに行ってしまったのだろう……。
「気のせいだったのかな……」
ぽつりと独り言を溢し、踵を返す。
花火大会のことを考えていたせいで、今日はあまり眠れてないし。もしかしたら見間違いだったのかもしれない。うん、多分そうだ。
そうやって、自分の中で納得したその時だった。
「えっ……」
ちらりと客室前を見た私の視界に、信じがたい光景が飛び込んできた。というのも、例のあの人が客室から出て来たのだ。まるで人の目を盗むようにして。
この瞬間、脳裏を過ったのは、過去にあった窃盗被害のこと。
「お、お客さま……? そこで何をされて――」
そこで何をされているのですか。
恐る恐る声を掛けた。でも、私が言い切るよりも先に、こちらの存在に気づいたらしいその人は、一瞬たじろいだようにバランスを崩した。
と思った次の瞬間。
「きゃっ……!」
私に向かって思いっきり体当たりしてきたのだ。押し飛ばされた私は、勢いよく本棚に背中をぶつけた。鈍い痛みが全身を覆う。
「ちょ、何今、凄い音したけど——」
受付からこちらを覗いた黒羽さんの目の前を、凄いスピードで駆け抜けていくパーカーの人。明らかに普通じゃない。あの人を見逃しちゃダメだ……。
「く、黒羽さん……! その人……! 逃がさないでください……!」
自分のことは二の次で私が叫ぶと、黒羽さんの目の色が変わった。
まるで別人のような身のこなしで、店を飛び出した黒羽さん。辺りが静けさを取り戻したのと同じくして、忘れていた身体の痛みが蘇った。
「だ、大丈夫かい?」
「す、すみません。お騒がせしました……」
心配してくれた男性客に謝罪を入れ、私はおもむろに立ち上がる。
あの人は無断で客室に侵入していた。その上それを見た私を躊躇なく突き飛ばしての逃走……状況からしても、噂になっている窃盗犯に違いない。
「黒羽さん、大丈夫かな……」
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