第30話 ファン

「あそこがババババビュ! って感じでッ!」


「ふんふん」


「胸にギュッと熱いものを受け取ったのにゃぁ!」


「なるほどなるほど」


 溜の身振り手振りを交えた熱い語りを聞いていた九条さんは、まるで重鎮のように腕を組みながらうんうんと頷いた。


「いい。いいよ溜ちゃん! 君は最高のファンガールだ!」


「えへへへぇ」


 九条さんに褒められると、露骨にだらしない顔になる。

 どうやら溜の九条さん好きは、相当なものらしい。


「して、溜ちゃん。今日は突然の面会だったが」


 注いだばかりの麦茶を飲み、九条さんは続ける。


「興味の向こう側を見た感想はどうかな?」


「にゃにゃ?」


「君は小説家である九条くじょう彩夢あやめのファンだと言ってくれた。だが今の君が顔を合わせているのは、文字を介さない素の九条彩夢だ。果たして君が憧れた人物は、君の期待通りの存在だっただろうか」


 随分と回りくどい言い回しだと思った。

 でも、実に小説家らしい。

 それを感じ取ったのか、溜は頬を赤くして興奮したように言う。


「期待以上の凄い人だったにゃぁ!」


「そっかぁ! それはよかったぁ!」


 あはははっ! という二人の浮かれた笑いが部屋中に響く。

 このアパートの壁はそんなに厚いわけじゃないから、もう少し静かにしてほしいのだが……。


「柚木ちゃん! 麦茶おかわりぃ!」


「溜もおかわりにゃぁ!」


「は、はいはい」


 完全に熱を帯びている彼女らには、配慮の『は』の字もないらしい。それに気圧されてか、俺の隣で置物のようになっていた柚木は、肩を弾ませて立ち上がる。


 そして、冷蔵庫から作り置きの麦茶を取り出し空いたコップに注いだ。


「柚木ちゃんありがとう!」


「ありがとにゃぁ」


 素直にお礼を言えるのは良いことである。


「ん? そういえばなんで柚木ピが麦茶を注いでくれたのにゃ?」


「……っ!」


「ここはホッピーの家なんだよにゃ?」


 冷蔵庫に麦茶をしまう柚木の背中に、溜はそんな当然の疑問を投げた。

 これにより柚木の動きはピタリと止まり、俺の背筋には嫌な寒気が走る。


「それは二人が一緒に暮らしてるから――」


「ああぁ‼ いつも俺の代わりにありがとなぁぁ‼ 柚木ぃぃ‼」


 九条さんの言葉を、俺は咄嗟の大声でかき消した。

 談笑していた二人の、冷ややかな視線が飛んでくる。


「急にうるさいよ発田さん。近所迷惑じゃないか」


「うぅぅ、耳が痛いにゃぁ」


「んん……」


 散々騒いでいた君らがそれを言うか。


「まあ、何というか。柚木はだらしない俺に代わって、いつも家のことを手伝ってくれてるんだよ。な、柚木」


「う、うん。そうそう」


「にゃるほどにゃぁ。だから九条先生も柚木ピにお願いしたのにゃぁ」


「おじさんに注いでもらうよりも、美少女に注いでもらった方が10倍美味しく感じられるからね」


「ぶっ飛ばしますよ?」


 俺が目を細めると、九条さんは「冗談だよぉ~」とふざけたように笑う。

 ファンの前だからって、調子に乗ってやがるなこの人。


 と、その時だった。

 ブーブーっと、テーブルに置かれていた九条さんのスマホが鳴った。

 その画面には『魔王』という一瞬目を疑うような表記が。


「ゔっっ……」


 それを見た九条さんは、余裕に満ちていた表情を引きつらせる。

 間違いなく気づいているはずなのに、一向に電話を取ろうとしないその理由は。


「出ないんですか」


「ああいや……」


 何やら焦っているようだが。

 さては都合の悪い電話なのだろうか。


 そんなこんなしているうちに、電話が鳴りやんでしまった。

 九条さんはホッとしたような顔で呟く。


「ふぅ、どうやら悪は去ったようだね」


「誰からの電話だったんだにゃぁ?」


「魔王だよ。魔王」


「みゃおう?」


 全く回答になっていない。

 俺たちが静かに視線を送り続けると、バツが悪そうに言った。


「ボクの担当編集さ……おそらく原稿を催促する電話だろう」


「もしかして、原稿の締め切りが近いんですか」


「近いと言えば近いし、遠いと言えば遠い」


 どっちだよ……。


「そんなことより!」


 現実から目を背けるように、九条さんは声を張った。


「今日は随分と部屋がこぢんまりとしているようだが」


「……っ」


「空き巣被害にあったことで、何か心境の変化でもあったのかい?」


「にゃぁっ⁉ この家空き巣被害にあったのにゃぁ⁉」


 九条さんから出た言葉に、驚愕している様子の溜。

 まさか逃げ道に空き巣の話題を使うとは……。

 これにはつい息が詰まった。


「こ、この間な」


「何を盗まれたのにゃ? 宝石? 高級時計?」


「んなもんはうちにない……現金が数千円だけだ」


「でもよかったよ。それだけの被害で済んだようで」


 九条さんはそう言うと、急に難しい顔を浮かべる。


「もし下着泥棒だったら気分が悪いだろうからね」


「にゃにゃ⁉ ホッピーの下着って需要があるにゃ⁉」


「え?」


「にゃ?」


 互いに何言ってんだみたいな顔で見つめ合う、九条さんと溜。


「ま、まあ何。おかげでアパート全体の防犯対策も強化されたようだし、独り暮らしの女としては、むしろ安心できる結末になった」


「それでもアパートの人たちには、少なからず不安を与えた一件だと思います。その点に関しては本当にすみませんでした」


「すみ――」


 俺に合わせて頭を下げようとして、途中で固まった柚木。

 恐る恐る溜の様子を伺っているからして……どうやら気を遣ってくれたらしい。


「いやいや、いいんだいいんだ。本当に気にしてないから」


「今後は十分に気を付けますので」


「むしろボク的には、空き巣に関する素材が集まって美味しいくらいだよ」


 身近で起きた事件すらも素材にするその生き方。

 さすがは小説家である。


「で、部屋がこぢんまりした理由だけど」


 その話まだ継続してたのか……。


「やはり防犯対策でも施したのだろうか」


「いえ。これは単に整理整頓しただけで、防犯とは関係ないですよ」


「ふーん」


 何やら疑うような目つきで部屋を見渡している九条さん。

 そうやって執拗に部屋を見られると、こちらとしては気が気でならない。


 というのも。締まっている扉の向こうには、普段表に出ている柚木の私物を隠してあるのだ。九条さんに見られる分にはいいが、なんたって今日は事情を知らない溜がいるわけで。


「あの、あんまりじろじろ見ないでもらえると——」


 見ないでもらえると助かります。

 そう言いかけた刹那、まるで助け舟が現れたように再び九条さんのスマホが鳴った。


 相手はもちろん『魔王』こと彼女の担当編集。

 しかも今回に関しては、電話だけではなかった。


 ドンドンドン、と外から扉を叩くような音が聞こえる。

 状況から見ても、おそらくは九条さんの家の玄関を叩いているのだろう。原稿をほっぽり出している張本人は、本物の魔王を前にしたかのように震えていた。


「九条先生ッ‼ いるのはわかってるんですよ九条先生ッ‼」


 かなり憤った女性の声だ。


「ごぉぉぉらぁぁぁ‼ 早くここを開けやがれぇぇぇ‼」


 というか、完全にキレているじゃないか……。


「あ、あの……近所迷惑なんでさっさと地獄に落ちてもらっていいですか?」


「つ、つれないこと言わないでくれよ発田さん……お隣のよしみじゃないかぁ……」


「九条先生は締め切りを守らない作家さんなのにゃ……?」


「ぐっ、溜ちゃん……今君にその顔をされると胸が……」


 ファンに向けられる失望の眼差しはさぞ痛いのだろう。

 下唇を噛んだ九条さんの丸眼鏡は、今にも落ちそうなほどにズレていた。


「はぁ、仕方ない……」


 やがて諦めたように息を吐いた九条さんは、


「……現実と向き合うとしよう」


 二日酔いで仕事に向かうサラリーマンのように、よろよろと立ち上がった。


「じゃあボクはこれで。今後ともよろしく頼むよ、溜ちゃん」


「はいにゃぁ」


 苦笑いでそう呟いては、玄関の方へと向かう。


「あ、麦茶ごちそうさまでした」


 そんな一言を残して、地獄へと消えていった。

 九条さんが外に出るなり、担当編集らしき女性の怒声が愚痴に変わる。


 あれだけの曲者の担当だ。

 普段からさぞ苦労させられているのだろう。


「九条先生が帰ったことだし、溜もそろそろお暇することにするにゃぁ」


「もう8時か。乙川先生は心配してないか?」


「連絡してあるから大丈夫だにゃ。それに雫ねぇは、ホッピーのこと凄く信頼してるからにゃぁ」


 それは……素直に嬉しいことだ。

 

「ホッピー、それに柚木ピ。今日は本当にありがとなんだにゃ」


「ウチの方こそ、浴衣ありがとね」


「どういたしましてなのにゃぁ」


 ニコッと笑い玄関に向かう溜の背中に言う。


「暗いし駅まで送る」


「そんな、溜は一人でも大丈夫なのにゃ」


「この辺りは治安もあまりよくないし、お前に万が一のことがあったら困るだろ? 乙川先生の信頼を預かってる以上、中途半端なことはできない」


 腹から出た俺の本音を聞いた溜は、驚いたように目を丸くした。


「ホッピーって真面目なんだにゃぁ。バカが付くくにゃいに」


「バッ……はぁ、まあいい。誉め言葉として受け取っておくよ」


 俺はそう言って、いつしか隣にいた柚木に伝える。


「ということだから。わるいけど留守番頼んでいいか」


「りょうかーい」


「にゃにゃ? 柚木ピは一緒に帰らないのにゃ?」


「……っ!」「……っ!」


 今のは……完全に気が抜けていた。

 俺たちが揃って言葉に詰まったことで、溜の顔に疑いの色が混じる。


「まあいいにゃ。ホッピーが一緒なら夜道も安心にゃし、これなら雫ねぇに怒られずにすみそうにゃし、一石二鳥だにゃぁ」


「怒られる? ちゃんと連絡はしてるんだよな?」


「にゃにゃ?」


 溜は露骨に明後日の方を向いた。

 答えは……聞くまでもない。


「はぁ、今からでもいいから連絡しろ」


「はいにゃ」

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