第29話 乙川溜
「にゃるほどー、そういうことだったんだにゃー」
納得したような声をあげた乙川先生の妹は、差し入れのサラダ煎餅をバリバリと貪る。椅子の上に小さく丸まっている姿は、その語尾も相まって猫のようだった。
「浴衣を着たいにゃんて、柚木ピは変わってるにゃ」
「そ、そうなの? JKならみんな着たいもんなんじゃないの?」
「
へぇぇ……と、戸惑いに似た声を漏らす柚木。
未だ距離感を掴めていないであろう彼女に対して、先生の妹は妙に堂々としていた。まあ、ここが自宅なのだから当たり前ではあるが。
茶色掛かった短髪に、牙のような二本の八重歯が特徴的な少女。乙川先生とは実の姉妹であるはずだが、外見や雰囲気にそれらしい共通点は感じられない。
乙川先生が小柄で巨乳なのに対して、溜の方は背が高くスレンダー。性格もかなり社交的で、知り合って間もないはずの柚木を、すでにあだ名で呼んでいる。
何よりも気になるのは、その『にゃ』という語尾だ。
これには既視感を覚えたが……明確に何なのかは思い出せなかった。
「にしてもビックリだにゃぁ。雫ねぇが人を招くなんて。しかも溜に内緒で」
「きゅ、急に決まった予定だったから言いそびれて……」
「その割にはしっかりとお掃除とか済ませるんだにゃぁ」
「……っ!」
「溜が家を出た時は、凄く散らかってたはずにゃのに」
溜の口から驚くべき事実が飛び出した。
こんなにも綺麗な家が散らかっていた?
「た、溜……! それ以上はダメです……!」
「にゃにゃぁっ⁉」
饒舌だった溜の口を、乙川先生は慌てた様子で塞いだ。
このやり取りを見るに、家が散らかっていたのは本当らしい。
てっきり日頃から整理整頓をしているものだと思っていたのだが……もしや乙川先生って意外とズボラなんだろうか。それはそれでギャップがあっていい。
「今綺麗なんだしウチは良いと思うけど。ね、ほっちゃん」
「え、あ、うん。その通りだ」
さすがは柚木。ナイスフォローだ。
俺が全力で頷けば、乙川先生はホッとした様子で溜から身を引いた。
「お煎餅たべてるところを邪魔しないでほしいにゃ」
「た、溜がわるいんですよ……! もぉ……」
「むぅ~、それは聞き捨てならないのにゃぁ」
これが家族と関わる時の乙川先生か。
何というか……普通の女の子じゃないか。
普段とのギャップもあって、とてつもなく可愛い。
「それで柚木ピたちは、浴衣を借りに来たって話にゃけど」
姉と対峙していた溜の意識は、不意に俺たちに向いた。
「二人はどんな関係なのにゃ?」
「えっ、関係?」
「見たところ兄妹って感じじゃにゃさそうだけど」
唐突な話題変更につい息が詰まる。
やがて柚木から助けを求める視線が飛んできた。
「俺と柚木は昔馴染みで、今もよく顔を合わせる仲ってだけだよ」
「そうなのにゃ? 溜はてっきり親子なのかと思ったんにゃけど」
平静を装い答えた俺の顔を、じーっと見つめてくる溜。
「ホッピーは、今おいくつにゃ?」
何だよそのあだ名は。お酒じゃねぇか。
「27だけど」
「27⁉ 雫ねぇの一つ上なのにゃ?」
「んん……」
どうやら俺の顔が老けていると言いたいらしい。
向けられた細い視線が、疑念の色に満ちている。
「ダメですよ、溜。いきなり年齢を聞くなんて失礼じゃないですか」
「にゃぁ……それはごめんだにゃぁ……」
「俺は別に、気にしてませんから」
姉に叱られしゅんとなる溜。
ようやく落ち着けるかと思いきや、今度は思い立ったような顔で言う。
「でもただの昔馴染みが、どうして一緒に浴衣を借りに来たのにゃ?」
「ぐっ……」
「そういうのは親が同伴するものだと思うんにゃけど」
そこに関して突っ込まれると、返す言葉に困る。
「ゆ、柚木の親に頼まれたんだ。うちには浴衣がないから、宛を探してほしいって」
「それにゃら別にレンタルすればいいだけな気もするけどにゃ」
「き、金銭的に余裕が無い家なんだよ。だからレンタルは無理なんだ」
「にゃぁー、それはちょっぴり可哀そうな気もするにゃぁ」
レンタルくらい許してあげればいいのにー、と柚木への同情を溢す溜。鋭い上にグイグイ来る厄介な子ではあるが、実際は心優しい良い子なのだろう。
「いろいろと事情があるんですよ。その点うちは恵まれてるんです」
「そうかにゃぁ、溜はもっと贅沢したいけどにゃぁ」
「贅沢かそうじゃないかは、人それぞれだからな。そういう観点で言えば、柚木は浴衣を着れるってだけで、十分幸せなんじゃないかと思うが」
「うん、ただでさえ浴衣着れないと思ってたのに。まさかこんな可愛い浴衣を貸してもらえることになるなんて、ホントみんなには感謝だよ」
「柚木ピは欲がない良い子なんだにゃぁ」
「溜とは大違いですね」
「むぅ、酷いにゃ雫ねぇ」
姉妹同士の砕けたやり取りに、俺と柚木からはつい笑いが零れた。
場の緊張が一気に和らぎ、これでようやく落ち着けるかと思いきや……だ。
「ところで柚木ピはどこの高校に通ってるのにゃ?」
「うぐっ……それは……」
際どいラインの質問がまたしても飛んできた。
これには柚木も言葉に詰まり、再びヘルプの視線が。
「今はとある事情で休学中なんだ。な、柚木」
「ふんふんふん」
「にゃるほど。それは失礼したにゃぁ」
俺が代わりに説明すれば、納得してくれた様子の溜。
にしてもこのやり取り、前にもあったような気がする。
「それにしてもホッピーは、柚木ピのこと何でも知ってるのにゃぁ」
「ま、まあな。昔馴染みだからな」
「にゃぁーん」
何やら訝し気な視線を向けられている。
てっきり俺たちの関係性への疑いは、晴れたものかと思っていたのだが……。
「昔馴染みって、そんなに万能なのかにゃぁ」
「んん……」
「まだ何か秘密があったりするんじゃにゃいか?」
「ひ、秘密?」
「例えばそうだにゃぁ……昔馴染みと見せかけて、実は親子だったーとか。生き別れの兄妹だったーとか」
「いやいや、そんな秘密ないよ」
「となると逆も考えられるかにゃぁ」
「逆?」
溜はやけに険しい顔のまま続ける。
「そもそも二人は、昔馴染みじゃにゃいとか」
「……っ」
「それどころか、よからぬ関係だったりにゃとか」
「はっ……!」
隣で柚木が小さく反応したその時だった。
「そこっ! 身体がピクッと動いたにゃ。これは怪しいにゃぁ」
ビシッと、溜の人差し指が柚木に向いた。
「これは溜の執念の取り調べが、星をあげた可能性があるにゃ」
「い、いやいや待ってくれ。俺たちは本当にそんなんじゃ……」
「いっぱしの刑事たる者、犯人の言葉には耳を傾けちゃいかんのにゃ。己の信念に従い、真実を追い求める。全ては興味の向こう側を見るために。だにゃ」
この子が何を言っているのか、全くもって理解できない。
だが聞き間違えじゃなければ、話の最後の一言に思い当たる節があった。
興味の向こう側を見る。
こんな印象的なフレーズ、忘れられるわけがない。
間違いなくこれは、九条さんが使っていた表現だ。
確かあの時は、110番が本当に警察に繋がるのか云々で大騒ぎし、真実を確かめたいという理由だけで、本当に110番をしたんだった。
やって来た警官が佐久間だったからまだよかったが、あの時は九条さんの奇行のせいで散々な目に遭った。
そして今、どういうわけか溜からも、同じ類の匂いを感じている。
「こらっ溜。発田先生を困らせたらいけません」
「むぅ~、別に困らせるつもりはないにゃ。ただ推しキャラの真似をする絶好のチャンスだったにゃけで」
「真似をするのはいいですが、ほどほどにしなさいっていつも言ってるでしょう。そもそもニャンコロ刑事は、作中のマスコットキャラですよ?」
「それでも好きにゃんだから仕方がないにゃぁ」
押しキャラの真似……ニャンコロ刑事……。
今の話を元に推理すれば、導き出される答えは一つ。
「もしかして溜、九条さんのファンだったりする?」
「にゃにゃ? ホッピーも九条先生を知っているのかにゃ?」
「まあ、一応は」
知っているも何も、あの人は俺の隣人である。
「奇遇だにゃぁ! まさかこんなにも近くに同志がいるにゃんて!」
「いや、別に同志ってほど好きでもないんだが」
むしろあの人の書く小説は、色々とぶっ飛んでいるから理解に欠ける。それでも最新の刑事恋愛モノは、読者に寄り添う意思を感じられたからよかったが。
「でもそうか。その口調はニャンコロ刑事を真似してたのか」
「そうにゃぁ」
抱いていた既視感の正体がようやくわかった。
にしても、口調を真似するほど好きなんてな。
「高校生であの人のファンってのも珍しいな」
「大大大ファンなのにゃ! それよりもホッピーは、九条先生とお知り合いだったりするのにゃ?」
「知り合いってほどでもないが、面識はあるよ」
「それは凄いにゃ! やっぱり雫ねぇが連れ込んだだけあって、ホッピーはただ者じゃにゃいんだにゃぁ!」
「た、溜……! 言い方……!」
戸惑う乙川先生を気にもせず、溜は前のめりになって俺との距離を詰める。
その時、大きく開いた襟元をつい覗き見てしまったが、幸いあったのは平らな面を覆うスポブラだけで、視界に入れてまずいものは何一つなかった。
「サイン! サイン貰ってきてほしいにゃ!」
「別に構わんが」
「ホントかにゃ?」
「ああ、お願いはしてみるよ」
「やったにゃぁ!」
元の位置に体勢を戻した溜は、椅子の上でそれはもう嬉しそうにぴょんぴょこ飛び跳ねていた。乙川先生は満面の苦笑いで、そんな妹の姿を眺めている。
「すみません。妹が無理なお願いを……」
「別に構いませんよ。あの人なら気軽に頼みやすいですし」
まさかサインを断るなんてことはしないだろう。
代わりに何かを求められる可能性はあるが……まあ、そこは上手くやり過ごそう。
「でもビックリしました。発田先生が、小説家の九条先生とお知り合いだったなんて」
「アパートの隣人なんですよ。本当、あの人は困った人でして」
「隣人ッ⁉」
隣人という言葉に過剰な反応を見せた溜。
まずった……なんて、自分のミスを自覚したところで時すでに遅し。
「ホッピーと九条先生は隣人なのにゃ⁉」
「あ、ああいや……」
再び前のめりになって距離を詰めて来た溜は、キラキラとその瞳を輝かせる。相変わらずぺったんこな胸元を晒しながら、何を言うかと身構えれば。
「そうとわかれば行くしかないにゃっ!」
「ど、どこに」
「ホッピーのおうちにっ!」
考えうる中で最悪の提案を言い放ったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます