第26話 誘い

 茶番はあったが、今日の飲み会は楽しかった。

 年齢が近い者同士だったこともあって、気を遣う必要もなかったし。何よりも乙川先生と一緒にお酒を飲めたのは、俺にとってのご褒美だった。


 いつもならこの流れで二軒目に。

 と、行きたいところだが、そろそろ柚木がバイトから帰ってくる時間だ。空き巣被害にもあったばかりだし、できればあの子を一人にしたくはない。


「よろしかったんですか? 二軒目についていかなくて」


 駅に向かうまでの夜道。

 隣を歩く乙川先生は、不意にそう呟いた。


「ええ。もう十分飲みましたから」


「ビックリしました。発田先生は本当にお酒強いんですね」


「飲み慣れてますからね。乙川先生こそ、今日はかなり飲まれてたようで」


「つ、つい楽しくなってしまって……おかげで少し頭がぼんやりします」


 そう語る彼女の頬は、見るからに高揚している。

 おかげでその可愛さは三倍増し。お酒に酔った乙川先生……マジ天使。


「でも知らなかったです。飲み会がこんなにも楽しいだなんて」


「私も職場の飲み会の中だったら、今日が圧倒的に一番でした」


「発田先生も?」


「いつもは教頭たちと同席することが多いですからね。そういう意味でも、歳の近い先生方に囲まれた今日の飲み会は、仕事を忘れることが出来ましたよ」


 最初こそ暴走気味だった高橋先生も、途中からは聞くに徹していたし。新顔の早瀬先生がしてくれた話は、ある意味新鮮で非常に聞きごたえがあった。


「本当、今日のくじはラッキーでした」


 そう呟いた俺は、通りかかったコンビニに目をやる。

 偶然にも視界に飛び込んできたのは、花火大会のポスターだった。


「そういえば、これ。高橋先生から貰ったんでした」


 ふとあの事を思い出し、俺はポケットに手を入れる。


「花火大会のチケットですか?」


「ええ。どうせ自分は行けないし受け取ってくれって……本当に彼は自由奔放というか。後輩なのに食えない男ですよ」


 どうやら中身は女性らしいが。

 今取り上げるべきはそこじゃない。


「渡された俺が困ることくらいわかるだろうに……ったくあの人は」


「発田先生は、その……花火大会の日は何かご予定が?」


「ああいえ、特にそういうわけではないですが」


 だとしても男一人で行くというものおかしな話だ。

 一瞬柚木と行くことも考えたが、現地で知り合いに遭遇する可能性を考えたら、当然無理だし。かといって乙川先生を誘うというのも、ハードルが高いわけで。


「私には使いようが無いので、知り合いにでもあげることにします」


 佐久間あたりに渡したら、きっと喜んで受け取ってくれるだろう。

 高橋先生には悪いが、今日の俺は思いのほか冷静なのだ。


「今日はすみません。途中変な空気になって」


 俺は一言謝罪をして、チケットをしまおうとした。


 と、その時。

 がしっと、後ろから腕を掴まれる。


「えっ……」


 つい戸惑いの声を漏らして、おもむろに振り返ると。俺の顔を見上げるようにして腕を掴んでいたのは、乙川先生だった。


 よく見ると頬は赤らんでおり、艶のあるその唇も小刻みに震えている。

 力強い視線で何かを訴えかけてきている彼女を前にした俺の心臓は、ひゅんと、今までに経験したことのない跳ね方をした。


「お、乙川先生……? ど、どうされました……?」


「えっと、その……」


 彼女の唇の震えが増す。

 じっと見つめられればられるほど、顔に熱が溜まるのが自覚できた。


「花火大会、なんですけど」


 俺はごくりと唾を飲む。


「そ、その日、私も予定がなくて……」


「そ、そういえば、先ほどもそうおっしゃってましたね」


「で、ですのでその……もし宜しければその……」


 初めて、乙川先生が目線をそらした。

 足元辺りを見つめながら「うぅぅ……」と、小動物のような声を漏らした彼女は、やがて覚悟に満ちた面持ちで再び俺の顔を見上げる。


 そして——


「花火大会、ご一緒しませんか!」


 まるで恥じらいを一息で吐き出したかのように、そう言ったのだ。


 思考が停止する。

 あまりの急展開に、これが夢なのかとすら思った。


「ご、ご一緒にっていうのはその、私とですか……?」


「発田先生とです」


「早瀬先生とかではなく?」


「発田先生とです」


 力強く俺の名前を繰り返す乙川先生。

 酔っているからか、今日の彼女はやけに積極的だった。


「ダメ、でしょうか……」


「ダメなんてそんな……! むしろ私としては嬉しいくらいで」


 心臓の鼓動がうるさい。

 俺はそれを誤魔化すように言葉を続ける。


「でもどうして私なんです……?」


「それは……」


 俺の一歩踏み込んだ問いで、さらに顔を赤らめた乙川先生は、


「発田先生と花火が見たいから……」


 ぽつりと、意味深長な一言を口にした。

 その瞬間、まるでミュートボタンを押したかのように世界から音は消え。騒がしい心臓の鼓動だけが、一定のリズムで俺の脳裏に届いていた。


 ふと、乙川先生と目が合う。

 今彼女はどんな心境でいるのだろう。俺と同じように、この状況にドキドキしていたりするのだろうか……なんて、余計な思考ばかりが降って湧いた。


「私は……」


 ようやく絞り出せた返事を口にしようとしたその時。

 突然ハッとした乙川先生は、慌てた様子で俺から身を引いた。


「ご、ごめんなさい……どうやら私、酔ってるみたいで……!」


「い、いえ、その……」


「今日は本当にありがとうございました……!」


 まるで俺から逃げるようにして、走り去ってしまう乙川先生。その足取りは明らかに覚束ない感じで、遠ざかる後ろ姿はうねうねと曲線を描いていた。


 と、その時だった。


「ばびゅっ……!」


 視界の先で乙川先生が思いっきりこけた。

「大丈夫ですか……⁉」と、慌てて駆け寄ろうとした俺だったが。


「だ、大丈夫です……!」


 すぐさま立ち上がり、足早に横断歩道を渡る。

 そこから彼女が見えなくなるまで、あっという間の出来事だった。


「なんだったんだ、さっきの……」


 夜道に独り残された俺は、ただ立ち尽くすしかできない。


 発田先生と花火が見たいから——。

 脳裏で繰り返されるのは、乙川先生が口にしたその一言だった。


「俺と花火が見たい……」


 一体どういった意味合いで、彼女はこれを言ったのだろう。

 単に俺と花火が見たいだけなのか。

 あるいは違う理由を伴っての一言なのか。


 何にせよだ。

 まさか乙川先生のあんなレアな一面を見られるなんて。くじ引きと言い、今日の俺は間違いなくついている。一学期頑張って本当に良かった。


「帰ったらもう一杯やるか」


 自然とこぼれた笑みと共に、俺は独りそんなことを呟いた。

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