第16話 世間話

「こういった問題にはコツがありまして」


「はあ」


「こんな風に考えて頂ければ、多少は解きやすくなると思います」


「はあ」


 都内は某所の図書館。

 その自習ルームにて、乙川先生による個別授業を受けていた俺は、視界のど真ん中に鎮座する巨大な双丘に、脳を焼かれかけていた。


「そしたら一度、実問をやってみましょうか」


「はあ」


「発田先生?」


 乙川先生らしい控えめな服装なのに、とある一部だけが全然控えめじゃない。今にも胸元がはち切れそうなほど、それには夢や希望が詰まっているようだった。


「発田先生? どうかされましたか?」


 何よりも気になるのは、その豊満な胸が机の上に乗っている理由だ。


 それはただの偶然なのか。

 それとも、机に乗せると楽なのか。

 真実が気になり過ぎて、ちっとも話が入って来やしない。


「発田先生? 大丈夫ですか?」


「全然大丈夫じゃないです」


「大丈夫じゃないんですか⁉」


 その声でハッと我に返る。

 すると視界の中の乙川先生は、困ったように目じりを下げていた。


「何かわかりにくいところがあったでしょうか……」


「え、あ、いや……そういう意味ではなく……」


 まずい……今完全に意識を持ってかれていた。

 俺は太ももをつねり、無理やり正気を取り戻す。


「凄くわかりやすかったですよ。そのおっぱ……じゃなくて、参考書も非常にためになりますし。本当助かります」


「そ、それならよかった」


 ふぅ、と胸を撫で下ろした乙川先生。

 こんなにも尊く目の保養になる安堵を俺は知らない。


「上手く説明できているかどうか不安で不安で……」


「そんなに緊張されなくても。いつも生徒に教えているようにしていただければ大丈夫ですから」


 乙川先生がこんなにも一生懸命教えてくれていたのに。

 まったく俺というやつは。


「それより実問ですよね」


「は、はい。それもこの教材を元に作っていますので、ここまでの振り返りだと思ってやってみてください」


 俺は早速ペンを取り、問題用紙と向き合う。

 こうして誰かの前で問題を解くのも、何だか不思議な感じがする。まるで学生時代に戻ったような気分だった。


 1問目、2問目と進んでいくうちに、ふと気づいた。

 この問題が今日のために用意された物であることに。


 というのも、ここまでの授業で取り扱った内容だけが問題になっているのだ。

 きっと今日の授業計画を立てた上で、これを用意してくれたのだろう。


「すみません、ここまで用意してもらっちゃって」


「せ、先生のためですから」


 俺のため、俺のため、俺のため……。

 乙川先生のその言葉は、心臓の奥深くまで響いた。


 突飛な相談だったのにも関わらず、ここまで親身になって対応してくれるとは。なんていい人なのだろう。今すぐにで恋人に……いや、頼むから結婚してほしい。


「本当に乙川先生には助けられてばかりです」


「そんなこと。私の方こそ発田先生に頼りっぱなしで」


 思えば乙川先生が副担任になってから、仕事に行くのが苦ではなくなった。

 想い人と関わる時間が増えたから、という理由もあるにはあるが。何よりも俺にとっての彼女の存在は、激務が渦巻く職場での精神的支柱だった。


「先生が副担任じゃなかったら、きっと今のクラスもなかったように思います」


「お、大げさですよ」


 両手をふりふりした乙川先生は、穏やかな笑みを浮かべる。


「今の2年6組があるのは、発田先生の教育の賜物たまものです。担任の先生をあだ名で呼ぶクラスなんて、他にありませんから」


「それは……単に私が舐められてるだけかと……」


「そうでしょうか。私には先生を信頼しての事のように思えますけど」


 信頼……果たしてそうなのだろうか。

 俺は生徒に信頼されるほど、傍により添えている自覚がない。それでこそ乙川先生の方が、よっぽど生徒から信頼され頼りにされていると思うのだが。


「隣の芝は青く見えるというやつですか」


「青……? す、すみません、聞き取れなくて」


「ああいえ。何でもないです」


 俺が乙川先生を尊敬しているように、乙川先生もまた、俺に対して何かしらのプラスイメージを持ってくれているのかもしれない。


 もしそうなら、俺は嬉しい。

 何にせよ、副担任が彼女で良かったと心から思う。


「そうだ。乙川先生」


「は、はい」


「この後、何かご予定はありますか?」


「予定ですか? 今のところは特にないですけど」


 今日はいい機会だ。

 日頃のお礼も兼ねて、先生に食事でもご馳走したい。


 というのは単なる建前で。

 本当は乙川先生と、出来るだけ長く居たいだけである。


「こうしてお時間を取って頂いたお礼に、せめて夕食でもご馳走させてもらおうかと思ったのですが。どうでしょう」


「ゆ、夕食ですか⁉ 発田先生と⁉」


「え、ええ。やっぱり私と二人ではダメですかね」


「ダメなんてそんな……! ただビックリしてしまって」


「ビックリ?」


「早瀬先生のおっしゃる通りだったので——」


 そこまで言って、ハッとした乙川先生。

 慌てた様子で口元を両手で覆うと、バツが悪そうに明後日の方を向いた。

 俺の聞き間違えでなければ、乙川先生の口からあの憎たらしいイケメン教師の名前が出たような……。


「あの、つかぬ事をお伺いしますが」


 掘るなら今。

 そう思った俺は、意を決して一歩踏み込んだ問いを口にする。


「乙川先生って恋人とかいらっしゃったりします?」


「こ、恋人⁉」


「そう、恋人」


 まじまじと見やれば、乙川先生の顔はみるみるうちに赤くなる。

 この反応は……一体どっちだ……⁉


「ど、どうされたんですか。急にそんな……」


「あ、ああいえ。少し気になったものですから」


「き、気になるッ⁉」


 ピクリと肩を弾ませた乙川先生。あわわわわ……というアニメでしか聞いたことがないような声を出しては、目線を四方八方に泳がせていた。


 面白いくらいに動揺している。

 好機とはいえ、さすがにこれは踏み込み過ぎだったか。


「先生、一度落ち着きましょう」


「ふぁ? ふぁ、ふぁい……!」


 ぷしゅー、と顔から湯気が出ているのが目に見える。

 どうやら彼女は、この手の話題が苦手らしい。

 長らくお世話になっているが、初めてそれを知った。


「すみません、変なこと聞いてしまって」


「い、いえ……私の方こそ取り乱してしまって……」


 胸に手を置いた乙川先生は、一つ深呼吸をして続ける。


「なにぶん私には恋愛経験がなくて。こういった話題が出ると、過剰に反応してしまう癖があるんです」


「なるほど、そういうことでし……ん? 今なんと?」


「で、ですから。こういった話題が出ると過剰に……」


「その前です。その前」


「前? 私には恋愛経験がなくて。の方でしょうか?」


 活発だったはずの思考が、物の見事に停止した。

 なぜなら先生が口にしたそれは、今まで抱いていた不安や焦燥をぶち壊す、驚くべき事実だったのだから。


「この歳にもなってお恥ずかしい話です。恋愛一つしたことないだなんて」


「つまり乙川先生には、恋人がいらっしゃらないと?」


「え、ええ。そうなります」


 なるほど……なるほどなるほどなるほど。


「発田先生? どうされました?」


「え、あ、その。何でもないです、何でも」


 まずい、顔のにやけが止まらない。

 こんなにも優しくて包容力のある合法ロリ巨乳のべっぴんさんが、まさかの俺と同じ側の人間だったなんて。もはや運命だろう、これは。


「や、やっぱりおかしいですよね……」


「えっ?」


「この歳で恋人がいたことないだなんて……」


 何やらしゅんとしてる様子の乙川先生。

 今のにやけは嬉しすぎる故のことだったのだが……もしやよからぬ誤解をさせてしまったのか?


「そんなそんな! おかしいなんてことないですよ!」


「本当に……?」


「本当です本当! それで言ったら私だって恋人いたことないですし。今どきの学生みたいにホイホイ付き合える方が稀ですって!」


「発田先生には、恋人がいらっしゃらないのですか?」


「え、ええ。それはもちろん」


「今まで一度もいたことがないんですか?」


「はい。障害孤独になる覚悟をし始めたところですよ」


「そ、そうですか。何だか意外ですね」


 そう呟いた乙川先生は、なぜか嬉しいそうに微笑んでいた。


 もしやバカにされてる……? のは乙川先生だから無いとして。意外ですね、はこっちのセリフなのだが。


「私たちは、似た者同士なのかもしれませんね」


「そう……なりますね。私的には恐れ多いですが」


「私も同じ気持ちです。まさか発田先生みたいな素敵な方と似た境遇だったなんて」


 素敵……素敵ね。

 乙川先生は俺のことをそう思ってくれていたのか。

 これまた意外である。

 あまりにも意外が連続しすぎて、喜びを感じ損ねた。


「お、お話はこのあたりにして。問題の続きをしましょうか!」


「え、あ、はい。それもそうですね」

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