第14話 ハグ

「よしっ、こんなもんかなぁ」


 テーブルをはさんで向かい側。

 数学の問題を解いていた柚木は、不意にそんな声を漏らした。


「ほっちゃんおわったよー」


 そう言うと、卓上でプリントを滑らせる。

 スリスリという音と共に、それは俺の元へ。


「採点お願いしていい?」


「おう、ちょっと待ってな」


 俺は途中だった英文を最後まで書き切り、プリントを受け取った。


「おお、随分と丁寧に解いたんだな」


「そりゃあ、勉強の機会を与えてもらってるわけですから」


 ぱっと見ただけで、柚木の真面目さが伝わる。

 こんなにも余白が計算で埋まってるプリントは中々ない。


「今回かーなーりー自信あるんだよね」


「お、それは楽しみだな」


 俺は用意していた解答を取り出し、早速採点を始めた。


 自信があると言うだけあって、開始からずっと正解が続いている。間違いを誘発するためにあえて用意した問題すらも、柚木は難なく正解していた。


 やはりこの子は、頭がいい。

 生物の宿題を課していた時もそうだが、柚木は教えたことをすぐさま吸収し活用する能力がある。それこそ、クラスに一人いるかいないかの秀才タイプだ。


「どうどう? いい感じじゃない?」


「いい感じどころかミスがない。これ満点あるぞ」


「ホントに⁉ じゃあもし満点だったらご褒美ね!」


「満点だったらな」


「やった!」


 そんな会話を交わしながら採点を続ける。

 待っている柚木はというと、「ご褒美何にしようかなぁー」なんて、すっかり満点を確信しているようだった。


「あ」


「えっ、もしかしてミス?」


 採点が後半に差し掛かったその時。

 俺が声を漏らすと、柚木は慌てて近くに駆け寄ってくる。


「この問題、計算間違えてるな」


「え、どこどこ?」


「ほら、途中式で2ってなってるだろ」


「うわっ、ホントじゃん。もぉ~、なんでこんな凡ミスするかなぁウチ……」


 隣で落胆の声を漏らす柚木。

 最後まで採点してみたが、ミスはその一問のみだった。


「惜しかったな。満点」


「むぅ~、絶対いけたと思ったのにぃ~」


「次はちゃんと見直しするように」


「はぁーい」


 俺はそう言って、答案用紙を返却した。

 間の抜けたような返事をした柚木は、受け取ったそれと睨みあいを始めた。


「にしても、本当に柚木は優秀だな」


「そんなことないよ。こんな凡ミスしちゃうくらいだし」


 そして「はぁ……」とため息を吐いた柚木。

 この様子からして、相当悔しいのだろうな。


「見直しをしろと言った手前で何だが。凡ミスくらい誰だってする」


「でも、それで満点逃しちゃったんだよ?」


「途中式は合ってるんだから、もはや満点みたいなもんだろ」


「じゃあ、ご褒美もらえる?」


 それは……また別の問題だと思うのだが。

 まあ、頑張ったのは確かだ。

 あげるかあげないかは別として、聞くだけ聞いてみよう。


「ちなみに、何が欲しいんだ」


「えー、そう言われると悩んじゃうなぁ」


「何だよそれ……」


 顎に手を置いて「んー」と喉を鳴らす柚木。

 10秒ほど悩んだ末に、ポンと手を叩いた。


「じゃあさ、ハグしよ!」


「ハグ……?」


「そう! ハグ!」


 笑顔でそう言って、両手を広げて見せる柚木。

 俺はてっきり物をねだられると思っていたのだが……どうしてその結論に至ったのか。その思考が全くもってわからない。


「他の選択はないのかよ……」


「え、だってハグしたいし」


「一応俺、27のおっさんなんだけど」


「知ってる」


「しかも風呂がまだだから多分汗臭い」


「それも知ってる」


 だったらなんでハグを求めるんだよ……。

 ここはじゃあいいやってなるところだろ普通。


「ご褒美なんだから、ちゃんと要望に応えてもらわないと困るなぁ」


「んん……」


 柚木の意図は全くもってわからないが、冗談で言っているとも思えなかった。

 俺は両手を広げる柚木に細い目を向ける。


「訴えるなよ」


「訴えないよ」


 はぁ……と、大きなため息を吐いて、俺は柚木と向き合った。

 そして一回り小さなその身体をギュッと抱きしめる。


 ふわりと、シャンプーのいい香りが鼻腔に届いた。

 それに少し遅れて、柔らかな感触が腹の辺りを覆う。

 俺はすぐさまその正体に気づいたが、鬼の心で邪念を殺した。


 相手は女子高生。子供だ。

 いくら発育が良いからと言って、それ以上でもそれ以下でもない。教え子たちと同じように、俺はこの子を守らなければならない立場にある。


「どうだ、満足したか」


「もう少し……もう少しだけ」


 俺の胸に顔を埋める柚木は、消えそうな声音でそう言った。

 そこには先ほどまでの浮かれた雰囲気はない。

 まるで親の温もりに縋る、小さな子供のようにも映った。


「ねぇ、ほっちゃん。これからもハグしていい?」


 俺の中で妙な罪悪感が芽生えつつあった。

 そんな最中、柚木は俺の胸に向かってそう呟いた。

 彼女の吐息で、胸の一部が温かい。


「満点取ったらな」


「うん、わかった」


 しばらくして、「よしっ」と声を漏らした柚木。

 ようやく満足したのか、俺から身を引くとニッと無邪気に笑う。


「ありがと。凄く元気でた」


「おう」


 この子が笑顔でいてくれると、素直に嬉しい。

 俺も柚木から元気を受け取っていることを実感しながら、よいしょと立ち上がる。


「風呂入るわ」


「ウチが背中流してあげよっか?」


「いらんいらん。お前は寝る準備でもしとけ」


「はぁーい」

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