第12話 予兆

 身体がぐらぐらと揺れている。

 ついさっきまで野原の木陰で横になっていたはずなのに。これは一体どういうことだろう。いつの間にか俺は、大海原のど真ん中で波に揺られていた。


 日陰だったはずの視界は、雲一つない満点の青空へと変わり、太陽の光が燦燦さんさんと降り注いでいる。いくら目を閉じても、この眩しさからは逃れられなかった。


「……っちゃん……っちゃん……きて」


 しまいには幻聴まで聞こえ始めた。

 ああ、ついに俺は死ぬのか。なんて、ぼんやりと考えながら波に揺られていると、お腹の辺りが何者かによって圧迫されたではないか。


「……っちゃん、ほっちゃん起きて」


 海の中にどんどん沈んでいく。息が苦しい。そんな感覚に苛まれていると、やがてその幻聴はハッキリとした音声へと変わった。


 何やら、俺の名前を呼んでいるようだ。

 俺はそれに導かれるようにして、重い瞼を上げた。


「やっと起きた。もぉ~、お寝坊さんだなぁ」


 視界に現れたそのギャルは、呆れたようにそう言った。


「朝ごはん出来てるよー」


 パチパチと、数回瞬きしてみる。

 そうか……今のは夢だったのか。


「おはよう、柚木」


「おはよ」


「ところで、なんで俺の上に乗っかってんだ」


 起こしてくれるのはありがたい。

 だが、なぜか柚木は、仰向けだった俺の身体に馬乗りになっていた。


「なんでって。ほっちゃんが起きないからだよ」


「だからって乗る必要あったのか……苦しいんだけど」


「JKが乗ったら起きるかなって。それとも抱きしめた方がよかった?」


「頼むから普通に起こしてくれ……朝っぱらから刺激が強すぎる」


 ジャージならまだしも、今の柚木は制服だし。

 スカートでの馬乗りはこう……色々と来るものがある。


「ウチはただ、ほっちゃんに元気を分け与えているだけなのですよ」


「十分もらってるから。だから早く降りてくれ」


「ほーい」


 間の抜けた返事をして、柚木は馬乗りをやめた。

 降りる際にパンチラしたが、いちいち気にしない。


 あいにくと部屋着のジャージは、昨夜に汚したため洗濯中だ。

 故に今は制服。こうした不測の事態に備えるためにも、早急に替えの部屋着を買いに行かせた方がいいな。


「ほらほら、起きたなら早くベッドから出る」


「いやその、1分……いや30秒待ってくれ」


「うん?」


 今起き上がるのは色々とまずい。

 俺は即座に心を無にし、朝一特有の高ぶった息子を抑え込む。

 何とか静まったところで、俺は何食わぬ顔でベッドから出た。


「で、今日の朝ごはんは?」


「ワカメとお豆腐の味噌汁と、卵焼き」


「おっ、美味そうだな」


 毎度のごとく、充実した朝である。

 このように柚木は、俺が起きるよりもずっと早くに目覚めて、朝ごはんの用意をしてくれている。おかげで最近の俺は、三食しっかり飯を食らう健康おじさんだ。


「いただきます」


 充実した環境に感謝して、早速味噌汁に手を付ける。


「美味い」


「それはよかった」


 感想を呟けば、柚木は穏やかな笑みを浮かべた。

 本当なら一緒に食べたいところだが、それもまだ叶わない。

 その代わりだ。


「今日は18時頃には帰ってこれると思う」


「わかった。そしたら外出の準備しておくね」


 例の柚木の体質に関して、一つ明らかになったことがある。

 それは、家の中でさえなければ、一緒にご飯を食べられるということ。


 先日買い物に出かけた際に、同年代の子と柚木が同席したらしいのだ。

 それで問題なく食事が出来たという。


「晩御飯、何か食べたいものとかあるか?」


「うーん、そうだなぁ。ほっちゃんと一緒なら、何でも嬉しいかな」


 この事実が明らかになってから、俺たちは定期的に外食をするようになった。


 さすがに毎日とまではいかないが。それでも食事が別々だった今までとは違って、より一層柚木が身近な存在になった気がしている。


「そしたら駅前の食堂でも行くか」


「えっ! あそこ前から気になってた!」


「そうなのか?」


「うん! だってね、近く通ると凄く良い匂いするの!」


「へぇー、それは楽しみだな」


 こうして共通の飯の話を出来るのは悪くない。

 俺はずずっと味噌汁を啜って、机に置いていたプリントを指さした。


「じゃあ今日の宿題は、より一層捗りそうだな」


「うぐっ……今日もあんなにプリントあるんだ……」


「そりゃあ高校に通わない分、しっかり勉強してもらわんとだからな」


 こなすべき家事があるとはいえ、柚木にはたっぷりの時間がある。

 自由にさせてもいいのだが、せっかくならその時間を有意義に使ってほしい。


「ちなみに今日から、数学の宿題もあるからな」


「数学かぁ、ウチ一番苦手かも」


「ひとまず高校1年の内容ではあるが、わからないところは自分で調べて、それでもわからないようなら俺に聞いてくれ。夕飯の後、一緒に答え合わせをしよう」


「うん、わかった。ありがとね、ほっちゃん」


「おう」


 柚木は精一杯に頑張っている。

 この子が少しでも早く独り立ちできるように、俺も知識の幅を広げなければ。


 今日学校に行ったら、乙川先生に英語について相談してみよう。

 そんなことを考えながら、俺は残りの白米をかき込んだ。


 *

 

「最後に質問タイムを取る。今日の内容で分からなかった部分があるやつは遠慮なく聞けよー」


 授業終了5分前。

 俺は生徒たちに向かって、そんな言葉を投げかけた。


「手上げにくい場合は、後から聞いてくれてもいいからなー」


「はい、先生。今日の最後のところについてなんですが——」


 そして、手を挙げてくれた子の質問に答える。

 これこそ俺が新たに取り入れた、授業最後の質問タイムである。


 正直これによって、何かが劇的に変わったわけではない。

 質問する子も限られているし、質問がない場合も当然ある。

 それでも俺がこれを取り入れたのには、大きな理由があった。


 わからないことは後で聞きに来い。

 聞きに来ないやつは知らん。

 そう言って授業を終わらせるのは簡単だ。


 定期テストで起こったミスは、すべて生徒の責任である。

 そう結論付けるのも可能なわけで。ただ教師という仕事をこなすという点においては、これほど簡単で手間の掛からない方法はないだろう。


 でも、それじゃダメだと俺は思う。

 教壇に立つものならば、起こったミスの責任を軽減させるのではなく、ミスが起こらないような努力をする必要があるはずなのだ。


 俺は今まで、分かっていながらもそうしてこなかった。

 この質問タイムを設けたからとはいえ、ミスが起こらなくなるわけでもない。何度も言うが、何かが劇的に変わったわけじゃないのだ。


 でも、これによって1つでも生徒のミスが減るのなら。それはこの質問タイムに確かな意味があるという証明に他ならない。


「じゃあ、今日の授業はここまで。期末も近いし、テスト勉強を怠るなよー」


 俺はそう言って、教室を出る。


 毎度のごとく廊下は騒がしい。

 今日も今日とて、学生たちは購買戦争に向かうようだ。


「こらこら、廊下を走るなー」


「ほいほーい」


 お決まりの叱り文句を呟いて、俺は生物準備室を目指す。

 すると背中から「発田先生」と、声を掛けられた。

 振り返るとそこには、教材を抱える乙川先生が。


「授業、お疲れさまでした」


「乙川先生もお疲れ様です。どうですか、調子は」


「実は今日、前回の復習を兼ねた小テストをしたのですが、皆さん凄くよく解けていて」


「それはそれは、教師としてはホッとしますね」


「はい。私の教えが少しでも役に立っていたようで、とても喜ばしいです」


 そう語る乙川先生には、素敵な笑みがあった。

 この人が喜んでいる姿を見ると、こっちまで嬉しくなってくる。


「発田先生はいかがですか?」


「そうですね。以前よりは順調だと思います。実は授業の終わりに質問タイムを取り入れてみまして」


「質問タイムですか。いいですね」


「それで何が変わったかは正直わかりませんが、少しでも生徒のためになればいいなと。まあ、質問してくれる子は、大体いつも一緒なんですがね」


「それでもきっと、生徒たちには大きなプラスになっていると思いますよ」


「ならいいんですが」


 そこまで話して、俺はふとあの事を思い出した。


「そういえば、乙川先生に一つご相談が」


「わ、私に?」


「実は今、とある事情で高校英語を学ぼうとしておりまして。もし何か良い教材があれば、教えて頂けると助かるのですが」


「高校英語ですか? 発田先生が?」


「はい」


 驚かれるのも無理はない。

 生物教師が英語を学ぼうと言うのだから。乙川先生からしたら、意図の読めない変な頼みに思えるだろう。


「教材ですか。ご紹介することはもちろん可能なのですが……」


 乙川先生は難しそうな顔で続ける。


「おそらく私が教材を紹介しただけでは、高校英語を全て把握するのは難しいかと思います。先生が優秀な方なのは存じているのですが……」


「なるほど、確かに乙川先生のおっしゃる通りですね」


「お気を悪くされたらすみません……」


「とんでもない。私は理系ですし、英語に関する知識は最低限どころか、忘れてることの方が多いですし」


 それでも、俺は英語を諦めたくはない。

 より専門的な生物とは違い、英語は世界共通語だ。

 きっと柚木の将来に、何かしらの形で役に立つだろう。


「せ、先生さえ宜しければ、私が直接お教えしましょうか?」


「えっ……?」


 どうするのが最善か。

 そんなことを考えていた最中、予想外な言葉が届いた。

 乙川先生を見れば、その横顔は明らかに高揚していた。


「いいんですか?」


「は、はい。勤務外の時間になってしまうと思いますが」


 勤務外に乙川先生が英語を教えてくれる?

 そんな最高なこと、本当にあってもいいのか?


「じ、実は私も高校英語の学びなおしをしたいと思っておりまして」


「な、なるほど」


「ちなみに今日、何かご予定はお有りですか?」


「今日……ですか……」


 今日は柚木と外食の約束がある。

 いくら乙川先生からの誘いとはいえ、約束をおろそかにするわけにはいかない。


「すみません、今日は予定がありまして」


「そ、そうですか……す、すみません。発田先生はお忙しいですし、そうですよね」


「いえ、元々は私が無茶なお願いをしましたから」


 まずい、乙川先生が委縮してしまった。

 これを機に誘いづらい空気ができたらどうしよう。

 何としても、それだけは避けなければ。それに今日が無理だからと言って、このチャンスを逃すつもりはさらさらない。


「また後日、予定を合わせられたらと思うんですが、どうですかね」


「えっ」


「食事でもしながら、相談に乗っていただけると助かるのですが」


 俺は意を決してそんな提案をした。

 すると乙川先生は、ポカンとした顔になる。


「だめ、でしょうか」


「い、いえ……! そんなことは……!」


 慌てた様子で両手を振り、小さく俯いた乙川先生。

 この何とも言えない空気感……凄くドキドキする。


「ぜ、ぜひ、行きましょう」


 やがて乙川先生はポツリとそう呟いた。

 俺を真っ直ぐに見た彼女は、にこりと穏やかに笑う。


「メッセージ、送りますね」


「は、はい。よろしくお願いします」


 ドキュン、と心臓の跳ねる音がした。

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