第4話 ずるい大人
俺はときどき不安になることがある。
今自分が話している内容が、正しく生徒に届いているだろうかと。ちょっとした言葉選びのミスから、大きな誤解が生まれているんじゃないかと。
「何かわからないことがあったら、遠慮せず聞きに来いよー」
だから俺は、授業の最後に決まってこの台詞を呟く。
一見すれば、生徒想いのいい言葉のようにも捉えられるが。俺が使うこれはそんな褒められたものじゃない。
これは一種の逃げだ。
生まれた誤解の責任を、生徒に押し付けているだけの狡猾な手段だ。
俺の担当は選択科目の生物だからまだいいが、これが仮に大学入試に大きく関わる教科だったらと思うと、教師を続けるのは無理だろうと思う。
それくらい俺には、知識を漏れなく正確に伝えられるだけの能力がない。
だからこうして、自ら逃げ道を作っている。
上手く行かなかったその時に、なるべく自分が苦しまなくていいように。
「ずるい大人だよ、まったく」
自らに言い聞かせるように呟いて、俺は教室を出た。
昼休みなだけあって、廊下はやけに騒々しい。
きっとみんな、購買戦争に向かうのだろう。
「こらこらー、廊下を走るなー」
「ほーい」
俺も出来れば飯を食いたいが、5時間目は生物の実験だ。
昼休みのうちに、いろいろ準備をしておかなくては。
「あら?
生物準備室に向かう途中、背中から聞き覚えのある声が。
「授業、お疲れ様でした」
「お、
振り返るとそこには、教材を抱える乙川先生がいた。
先生は穏やかな笑みを浮かべると、迷わず俺の隣へと歩み寄ってくる。今日も一段とエロ……じゃなくて、綺麗である。
「どうですか。3、4組の調子は」
「ぼちぼちです。でもやっぱり彼らは優秀ですね。ほとんどの生徒が授業を真面目に聞いているだけあって、うちのクラスよりも授業がやりやすいですよ」
「うふふ、5、6組……特に6組の皆さんは元気がいいですからね。私も6組で授業をする時は、よく話が脱線してしまいます」
「元気なのは大変結構なんですが、やはり担任としては、もう少し落ち着いた生活を心がけてほしくもあります。まあ、あれはあれで、彼らの長所でもありますが」
「発田先生らしいですね」
そう言って微笑む乙川先生は、抱えている教材ごと体勢を直した。
よいしょと、大きく弾んだ上半身。それによって、そのたわわな胸元もぷるりんと揺れ、俺の意識は強力な引力によって吸い寄せられる。
何だこの爆乳は——そんなシンプルな感想が脳裏に浮かび、やがてそれは神への感謝に変わった。こんな合法ロリ巨乳と同じ職場にしてくれてありがとうと。
「そういえば、5時間目は5、6組の選択授業ですよね?」
「え、あ、は、はい。そうです。今日は生物の実験をと」
「実験ですか、いいですね。ちなみに何をされるんですか?」
「細胞の観察ですね。一応植物と動物の両方をやる予定です」
「それは凄く楽しそうですね。何だか羨ましいです。私も混ざりたいくらい」
ぜひ、と言いたいところだが、先生にも先生の仕事がある。
「乙川先生は、次は1年生の授業でしたっけ」
「そうですそうです。ようやく三人称単数に入るところで」
「へ、へぇー」
なんて納得して見せたが、三人称単数が何なのか、正直よくわかっていない。
このように、教師にも得意不得意がある。
俺は理系で、乙川先生が文系なように、全ての知識を所有しているわけじゃない。もちろん、何でも知ってるウィキペディアみたいな人もいるっちゃいるが。
それでも俺たちは生徒に対して、幅広い知識の定着を求める。
国語、数学、英語、理科、社会、その他専門科目まで。全ての科目の総合が個人の成績となり、その先の進学や就職に影響するのだ。
一教科が著しくよくても、他の教科がダメなら不合格の札を張られる。
俺のような大人がのうのうと専門分野のことだけを考えている裏で、生徒たちは必死になって膨大な知識の海を泳いでいる。
そう考えると、やっぱり大人ってずるい生き物だなって思う。
まあ、かくいう大人も、学生の頃は同じように苦労したのだが。
「ときどき迷ってしまうことがあるんです。このやり方で本当に良いのかなって」
隣を歩く乙川先生は、不意にそんなことを呟いた。
「他の先生なら、もっと上手に教えられるかもしれない。それによって生徒の苦手が、苦手じゃなくなるのかもしれない。そう思うと、教壇に立つのが不安で」
「わかります。私もちょうど同じようなことを考えてました」
「発田先生も? そうですか。やはり皆さん、同じ悩みを抱えているのですね」
「教師も万能じゃないですからね。人間と人間のやり取りである以上は、そのような不安はどうしても生まれるんだと思います。機械とかなら別ですけど」
教える相手が機械なら、それはそれで楽なんだろうなって思う。
まあ、そこにやりがいがあるとは思えないが。
「うちのクラスの子らが言ってましたよ。乙川先生の授業は凄くわかりやすいって」
「ほ、ほんとうですか?」
「ええ。難しい部分はゆっくり丁寧に教えてくれるから、学びもらしが少ないんだそうです。おかげでテスト勉強もしやすいって、みんな先生に感謝してましたよ」
「そ、そんな、感謝だなんて……」
ポッと赤く染めたその顔を、教材に埋める乙川先生。
必死にこらえているようだが、喜びが全身から溢れている。
可愛い……あまりにも可愛すぎる。
「うぅぅ」と僅かに聞こえるその唸り声は、まるで小動物のよう。というか、小柄な見た目も相まって、もはや今の先生は超絶可愛い小動物そのものだった。
うっかりギュッと抱きしめてしまいそうだ。
「う、嬉しいものですね。生徒に褒められると」
「そ、そうですね。これが教師のやりがいというか、何というか」
ダメだ。可愛すぎて目が離せない。
こういうふとした瞬間に見せる純情っぷりが、俺の中でドストライクなのだ。
どうにか、彼女とお近づきになりたい。
そうだ。明日は祝日で休みだから、今日こそは食事に誘おう。
「あの、乙川先生」
迷わず一歩踏みだそうとした、その時だった。
「あれ? 乙川先生、それに発田先生も」
三階から降りて来たイケメンに声を掛けられる。
「授業、お疲れ様でした」
そう言って笑顔を浮かべるのは、高い身長と爽やかな雰囲気が特徴的な
歳は俺よりも二つ下の25歳で、担当は英語。
俺と乙川先生の関係を邪魔する強敵が、満を持して現れやがった。
「は、早瀬先生。お疲れ様でした」
「うぇっす」
つい不愛想な挨拶をしてしまった。
でも、良いところを邪魔されたのだから、これくらいは許せ。
「お二人は相変わらず仲がいいですね」
「お、同じクラスの担当ですから」
なーにが仲がいいですねだ。
嫌味か、ちくしょう。
「え、えっと。それじゃ僕はいきますね」
「あ、私も職員室に。それでは発田先生、また後ほど」
「え、あ、はい。また」
何やら苦笑いを浮かべた早瀬先生と共に、階段を下りていく乙川先生。
あの早瀬先生の焦りようからして……もしかして今、顔に何か出ていただろうか。
だとしたら、ちょっと申し訳なくもある。
まあ、良いところを邪魔されたわけだから、絶対に謝らんけど。
*
実験の準備は思ったよりも早く終わった。
昼休みはあと15分ある。
これなら何とか、昼飯を食べても大丈夫そうだ。
「ん」
職員室に戻ろうと、俺は生物準備室を出た。
するとすぐ近くの階段に、見知った男子生徒が座っていた。
「
「ほ、発田先生。これは、その……」
声を掛けると、彼はピクリと肩を弾ませる。
校則をキッチリと守った短い黒髪に、同年代と比べても少し幼く見える中性的な顔立ち。その落ち着いた雰囲気通り、性格も控えめで大人しい生徒だ。
「飯食ってたのか?」
「え、っとその……は、はい」
「どうしてこんなところで? 教室で食べればいいだろ」
「席、空いてなくて」
「席?」
俺が繰り返すと、吉見は困ったように目線を伏せた。
「ぼ、僕が悪いんです。昼休みが始まってすぐ、お腹壊しちゃって。教室に戻った時にはもう、僕の席は他の人が使ってて。なので仕方なくここに」
「空けてもらうように言わなかったのか?」
「話が盛り上がってたみたいだったので」
なるほど。確かに吉見の性格なら、盛り上がっているグループに割って入るようなことはしないのだろう。
「それで、ちゃんと飯は食えたのか?」
「は、はい。あとは、これを飲んだら戻ろうかなって」
そう言って掲げたのは、購買の牛乳だった。
そんな吉見のすぐ横には、昼飯のゴミを詰めたであろうコンビニの袋が置かれている。どうやら、今日も弁当を買って来たらしい。
彼の家はシングルマザーだ。
それでいて母親は、毎日残業続きで大変だと聞く。
とはいえ、この子は成長期真っ盛りの高校生。本当なら、手作りの弁当を食べるのが一番なのだろうが、これに関しては事情が事情である。
「隣、座ってもいいか?」
「は、はい」
俺は一言断りを入れて、吉見の隣に腰を下ろす。
「どうだ、学校。楽しいか?」
「た、楽しいですよ。木村くんとか、林くんとか、凄く面白いですし。こんな内気な僕にも、みんな優しく接してくれるし。6組で良かったなって思います」
「そうか。吉見がそう思ってるなら、俺も安心だな」
この子は周りに気を遣えるのと同時に、嘘を吐くのが苦手だ。
だからきっと、これも本心からの言葉なんだと思う。
「先生はどうですか。学校、楽しいですか?」
「俺か? 俺は……そうだな」
まさか、聞き返されるとは思わなかった。
今まで余裕をこいていた思考を巡らせる。
果たして俺は、学校を楽しいと思えているのだろうか。
「わからない……でも、これだけはハッキリと言える」
俺は脳裏に浮かんだ言葉をそのまま口にする。
「吉見が楽しいと思っているなら、俺はそれで満足なんだと思う」
「えっ」
「これは吉見に限った話じゃなく、生徒全般に言えることなんだが。やっぱり学生が今を楽しんでいる姿は、教師にとってこれ以上にない喜びなんだよな」
これは単なるお世辞でも、建前でもない。
5年間の教員生活で導き出した、一つの答えだ。
「こう見えて俺は、あまり自分自身に興味関心がない人間だから。自分の利益よりも、どうしても他人の利益を優先しちゃうというか」
思い出されるのは、先ほどの吉見の話。
話が盛り上がっていたから、何も言わずに席を譲りここへ来た。それをさも当たり前のように語ったこの子も、実は俺と似たタイプの人間なんじゃないかと思う。
「とにかく、何が言いたいのかというと」
俺はそう前置きして、随分と懐かしいこんな言葉を口にする。
「高校生は、人生で最初で最後のボーナスタイムということだ」
「ボーナスタイム?」
「そうだ。だから後のことは気にせず、自分の好きなようにやってみればいい。もしお前たちが進む道を間違えたその時は、俺が何とかしてやる」
吉見の頭にポンと手を乗せて、俺は立ち上がる。
「話は以上。5時間目に遅れないようにな」
「は、はい」
ぼちぼち俺も歳なのだろうか。
また勢いで臭い台詞を吐いてしまった。
そんな反省をしながら階段を下りたその時——ふと脳裏をよぎったのは、他でもない柚木の顔だった。
「俺が何とかしてやる、か」
考えれば考えるほど、臭い台詞だなと思う。
学校ではこれだけ偉そうなことを言うくせに、実際の俺は、ただ一人の女子高生すらも救えない無力な人間。それこそ、他人の利益を優先するに矛盾している。
きっと俺が思う『他人』に、柚木は含まれていないのだろう。
こうした我が身可愛さから生まれた取捨選択が、あの子の未来を奪うかもしれないと思うと、心が軋むような思いだった。
「本当ずるい大人だよ……俺は……」
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