第5話 多様性と可能性

「人生なんてクソ食らえだッ!」


 俺はそう言って、届いたばかりの生中を一気飲みした。


 ドンッ! と空いたグラスをテーブルに置けば、向かいの高橋先生の肩が大きく跳ねた。続いて冷ややかな視線が飛んでくる。


「びっくりするなぁ、もう。割れたら弁償ですよ、それ」


「加減はしてるよ。それより、高橋先生もそう思うだろ?」


「まあ、同情はできますけど」


 心底呆れたようにそう言って、タコわさを摘まむ高橋先生。


「本当に予定があるのかもしれないでしょ?」


「いいや、ない! 絶対にない!」


「どうしてそう言い切れるんです」


「この前もその前も同じ理由で断られた」


「その日も予定があったのかもしれないでしょ」


「んな都合よく予定があってたまるか! くそっ」


 毒を吐いた俺は、怒り任せに手を上げる。

 近くにいたねーちゃんに、生中のおかわりを頼んで、まだまだ込み上げてくる愚痴を好き放題に吐き出した。


 そうしているうちに、一つの結論に辿り着いた。


「絶対男だ。それ以外にあり得ない」


「まあ、乙川おとかわ先生カワイイですしね。彼氏くらいいるでしょ」


「え、乙川先生って彼氏いるの……?」


「いや、知りませんけど」


 そんな適当を吐いた高橋先生は、未だ一杯目の生中をちょびびっと口に含んだ。


「とにかく、一度冷静になってください。生徒が今の発田ほった先生を見たら失望しますよ?」


「元々そこまで期待されてるわけでもないし、今さらだよ」


「また屁理屈言って。だから乙川先生にも相手にされないんですよ」


 くそっ……ぐうの音も出ない。


「まあ、僕的には都合がいいですけど」


「都合がいい?」


 俺が繰り返したその言葉は、どうやら彼には届かなかったらしい。またしてもちょびびっと、啜るようにビールを飲んでいた。


「にしても、今日も断られるとは……」


 そう呟いては、虚しさを誤魔化すように生中を呷る。


「俺みたいな凡人は眼中にないってか」


「普通に考えたらないでしょうねー」


 高橋先生は平然とそう呟いた。

 この遠慮のない感じには慣れたけど、でもやっぱりムカつく。


「じゃあ、先生的にあの人に彼氏がいるとしたら誰だと思う」


「うーん、早瀬はやせ先生あたりじゃないですかね」


 それは……完全に同意見である。


「二人とも担当は英語ですし。よく話してるところ見かけますし」


「ちなみになんだけど。仮に早瀬先生が相手だとして、俺に勝ち目があると思う?」


「それ、わざわざ僕が応える必要あります?」


 高橋先生はそう言って、フライドポテトをパクリ。

 遠回しに言われる方がダメージがデカい。どうせならハッキリ勝ち目がないと言ってほしい。まあ、それはそれでムカつくのだけど。


「結局は見た目かよ。やっぱり人生クソ食らえだ……」


「そう言う発田先生こそ、乙川先生の身体しか見てないでしょ」


「当たり前だろ」


「恥ずかしげもなくそう言えるあたり、流石は発田先生です」


 何だろう。全然褒められてる気がしない。


「高橋先生こそ好きでしょ、ああいう合法ロリな感じ」


「別に、僕の好みじゃないですね」


「え、じゃあどういうのがタイプなの?」


「それ、言わないとわからないですかね」


 何やら意味ありげな細い目を向けられた。

 え、ちょっと待って。この人ってそういう感じ……?


「ちなみに冗談じゃないですよ」


「よかったぁ……てっきりそっち系なのかと——今なんて?」


「冗談じゃないって言いました。僕、結構タイプなんですよね、発田先生」


 酔いに飲まれかけていた意識が覚醒する。

 改めて確認しておこう。今目の前にいる高橋先生は正真正銘の男である。職場では男性として扱われているし、今日俺の隣でトイレだってしていた。


「隙あらば理屈語りする勘違い野郎なところとか。笑っちゃうくらいお人好しなところとか。そのくせ人一倍撃たれ弱いところとか。上げたらキリがないです」


「あの、それって俺の良いところであってる?」


「はい、僕はそういうところが良いなって思いますね」


 それが本音なら随分と特殊な感性だ。

 てか、ただの悪口だよそれ。


「とにかく、内緒ですからね、これ」


「え、あ、うん」


 口の前で人差し指を立てる高橋先生。


 今は多様性の時代だ。

 この件に関して何か特別に言うことは無いけど。それにしても驚いた。


「言っときますけど、僕に何かしようなんて気はないですよ。これからも今まで通りでいきますし、誘ってくれたら飲みにだってついてきます」


 高橋先生はそう言うと、生中をちょびびっと啜った。


「女性目線からのアドバイスもできますし。発田先生的にも都合がいいでしょ?」


「確かに。これからも愚痴っていい?」


「ええ、いくらでも聞きますよ」


 こうして、生意気だった後輩教師が、最強の相談役に進化した。


「それはそうと。なんか元気ないですよね、今日の発田先生」


「えっ、そう?」


「はい。食事を断られただけで、そこまで落ち込むこともないでしょう」


「落ち込む? 俺が?」


「自覚ないんですか? 気が抜けた時、眉が下がってますよ」


 全くもって気づかなかった。

 それにしても、よく見てるなこの人は。


「何かあったんですか。僕でよければ話、聞いてあげなくもないですよ」


「なんでそんな上からなの……歳下だよね、君」


 はぁ、と呆れ混じりのため息が漏れる。

 しかしながら、高橋先生の言うことは概ね合っている。乙川先生に食事を断られた悔しさの裏側で、柚木のことを考えていたのだから。


「先生はさ、自分のことをずるい大人だなって思ったことはある?」


「はい?」


「いやね、教師やってるとさ、否が応でも子供の純粋さみたいなモノに触れるじゃない? それと今の自分を比べてさ、悲しくなったりはしないのかなって」


「ああ、なるほど。そういう」


 俺は乾きかけの口を生中で潤してから続ける。


「俺はこれまで、生徒のためと思って教師を続けて来たつもりだった。でも、最近よく思うんだよ。これは本当に生徒のための行動なのかって。自分でも気づかないうちに、『生徒のため』から『俺自身のため』に変わってるんじゃないかってさ」


 無難で穏やかな日常を——歳を重ねるにつれて、いつしかそんな当たり障りのないモノを求めるようになっていた。


 大きな変化を求めていた若い頃の自分とはまるで違う。

 今が今のまま変わらないことを望む27歳の発田新太は、十年前の自分よりも遥かにくたびれていて、無力でつまらない人間だった。


「人生を懸けてまで、JKを救う覚悟はできないんだよなぁ」


「人生を懸けてJKを救うつもりだったんですか?」


 ブブー、と吐き出しそうになったのを何とか堪える。


「ああいや、今のは単なる比喩というか」


「随分と空想染みた比喩を使うんですね、発田先生は」


「う、うん。最近そういうマンガ読んでね」


「ふーん」


 いかん。明らかに疑われている。

 もしこの人に先日の件がバレたら……想像しただけでも鳥肌が立つ。


「まあ、何というか。別に普通だと思いますよ、それが」


「普通って?」


「普通は普通です。そりゃ年齢を重ねるにつれて、誰しも安定を求めるでしょうし。教師だって人間なんですから、我が身を可愛く思うこともあるでしょう」


「でも、自分がそうしたことによって、誰かの人生が変わるとしたらどうよ。安定を求めて何も成し得なかったことに、後悔すると思わない?」


 俺がそう言うと、なぜか高橋先生はため息を吐いた。

「そういうところなんですよね」と半分呆れたように言うあたり、何かおかしなことでも言ったのだろうか。


 やがてちょびびっと生中を啜った先生は、


「だったら、行動してみたらいいじゃないですか」


「えっ」


 平然とした口調でそう言った。

 思わず生中を飲もうとしていた手を止める。


「さっきこう言いましたよね。『人生を懸けてまで、JKを救う覚悟はできない』と」


 比喩だけどね、それは比喩だけどね。


「つまり発田先生は、確信してるんですよ。人生を懸けた覚悟をすれば、JKを救うことが出来るって」


「……っ‼」


 それは……完全なる盲点だった。

 確かに俺が、柚木に関わることで発生するリスクを無視できれば、彼女の生活を手助けすることは容易だ。


 あの子にはまとまったお金がない。

 そして何よりも、帰る家がない。

 だからパパ活なんかに手を染めて、命からがら食いつなげているわけだ。


 柚木を救う=それら問題の解決なのだとすれば。非常にシンプルでお手軽な、ある意味で画期的な方法が一つだけ存在する。


 俺の家で一緒に暮らす——。


 これをすれば、大きく環境を変えることなく柚木を救える。


 もちろん、リスクは付き纏う。

 それはもう、とんでもないスケールのリスクだ。


 世間にバレれば間違いなく懲戒免職。きっとそれはニュースになって、近所からは冷たい目で見られ、同僚の先生方からは、失望の声をぶつけられる。


 乙川先生だって……きっと、俺のことを嫌いになるだろう。


「はぁ……考えるだけでも吐きそうだ……」


「えっ、吐くならトイレに行ってください」


 迷惑そうな顔でそう言っては、生中をちょびびっと啜る高橋先生。

 誰のせいでこうなったと思っているんだ! とは思ったが。全ては生意気な後輩の話を鵜吞みにした俺が悪いのだ。


 どうやらこの単純すぎる性格だけは、何年経っても変わらないらしい。


 *


 今日は酔いもそこそこに解散となった。

 柚木を居候いそうろうにする案を出したとはいえ、まだ100%そうすると決めたわけじゃない。何よりあの子の意思も重要なわけだから。


 それに俺とて、未だ覚悟できずにいる。

 自分の人生と柚木の人生。その二つが乗った天秤がゆらゆらと、まるで永久機関のように揺れ続けているのだ。


 次もし会うことがあれば、軽く提案してみよう。

 そんなふわっとした考えで、俺は近所のネカフェの近くまでやって来た。


「ん?」


 何やら、店の前に人がいる。

 よく目を凝らしてみると、片方は警察官のようだ。そしてもう片方は……。


「あ、ほっちゃん……」


「ん? ああ、発田か」


「お、お前ら……何してんの……?」


 俺を悩ませるJKと、昔馴染みの組み合わせに、俺の思考は停止した。

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