第2話 興味の向こう側

「にゃるほどねー。それで柚木ちゃんを家にあげたと」


 九条くじょうさんはそう言うと、アサリの味噌汁をずずずっと啜った。お椀を一度テーブルに置いたかと思えば、「ぷはぁ」と幸せそうな吐息を漏らす。


「信じてもらえましたか」


「まあ、本人たちがそう言うなら、信じるしかないよねぇ」


 またしてもずずずっと味噌汁を啜る。


「柚木ちゃん、おかわりー」


「え、あ、は、はい」


 どうやらお気に召したようだ。

 遠慮もクソも無い。


「てか、なんであなたは自然な顔で居座ってんすか……」


「えぇー、いいじゃないかぁ。お隣のよしみなんだし」


 親し気にそう語る九条さんだが、彼女と会話するのはこれで2度目だ。


 九条くじょう彩夢あやめさん。

 隣人であることは把握していたが、その素性は何一つとして不明だった。下の名前だって、さっき本人から聞くまで知らなかったわけだし。


 にしても、これまた美人が現れた。ウェーブ掛かったグレーの長髪。明らかに成人はしているが、女子高生の柚木よりも背格好は一回り小さい。


 綺麗と可愛いのちょうど中間に位置するその顔立ちは、化粧が無くとも十分に魅力的だと言える。顔が小さいので、その丸眼鏡がより一層大きく見えた。


 何よりも特徴的なのは、その格好だ。

 桃色のパーカーを羽織っているが、下は何も履いていないように見える。確認できるのは、色白で華奢な生脚だけだ。まあ、パーカーに隠れているだけだろうが。


「履いてないよ」


「えっ」


「下、何も履いてないよ」


 味噌汁を啜りながら、平然とそう語る九条さん。


「は、履いてないって……えっ……?」


「このパーカーの裏は、正真正銘の裸体だよ。ちなみにブラも付けてない」


 この人は一体何を言っているんだ……?

 パーカーの裏が裸体……? 

 そんな馬鹿な話があってたまるか。


「なんなら今ここで証明してあげようか?」


 俺が困惑している最中、お椀を置いた九条さん。意味深な一言を呟いたかと思えば、おもむろに立ち上がる。

 そしてパーカーの袖の部分に向けて、両手をクロスさせた。


 ゆっくりと捲られるパーカーの裏から、露になるのは色白の太もも。俺は息を殺して、その動向を見守る。だが、いつまで経っても洋服らしき布が見えてこない。


 このままだと本当に下着が見えてしまうんじゃないか。

 そんな不安と少しの期待に囚われかけていた俺は、ふと思った。彼女の話が本当なのだとしたら、目の当たりにするのは下着なんかではないと——。


「そんなにボクの裸体が気になるかぁ」


「えっ……」


 その声でハッと我に返る。

 慌てて視線を上げると、そこにはしたり顔の九条さんが。


「ちなみにパンツは履いてるよ。上は……わお、本当にノーブラだった」


 大きく開いた襟元を覗き込むと、それはそれでヤバい事実を口にした。


「そんなことより。どう? 今の気持ち。興奮した?」


「あの……」


「やっぱり男性って、最後まで見せない方が興奮するのかな⁉」


 どうやら俺はまんまとしてやられたらしい。

 パタパタと駆け寄って来た彼女は、息を荒くして問いを連ねる。顔が近い。人の気持ちをもてあそんでおいて、自分の方が興奮しているじゃないか。


 まったく……この人は何者なんだ。


「ああ、すまないすまない。実はボクこういう者でね」


 すると九条さんは、パーカーのポケットに手を突っ込んだ。

 取り出したのは一枚の名刺。


「小説家?」


「そう、こう見えてもボク、結構な売れっ子なんだよ」


 九条彩夢……九条彩夢……ああ! あの九条彩夢か! 俺も一冊だけ、読んだことがある。正直、ぶっ飛びすぎて内容はよくわからかったが。


「で、今の行動と小説家に何の繋がりが?」


「む、意外とドライなんだね。発田さんは」


 まあいいや、と言って、九条さんは元の場所に腰を下ろす。


「実は今、恋愛モノを書いていてね。男性のリアルな反応が知りたかったんだよ」


「それで俺を素材にしたと」


「そゆこと」


 得意げに人差し指を立てる九条さん。

 その掴みどころのない感じが、生意気な後輩を想起させてムカつく。


「いやぁ、実にいい反応を見せてくれて助かる。より一層キャラも立つよ」


「ちなみにそのキャラの設定ってどんな感じです」


「え、それ聞いちゃう?」


 もったいぶらないで早く教えてほしい。

 どうせ読まないから。


「学生時代にろくな恋愛をしなかった結果、見事に性癖を拗らせた27歳童貞教師」


 俺である。それは紛れもなく俺である。


「まあ、あくまでフィクションの話だから。あまり気にしないでよ」


 無理である。俺すぎて気にしないのは無理である。

 これは発売したらすぐにでも買いに行こう。


「それにしても、今日のボクはついてる」


 床に手を付いて、天井を仰いだ九条さん。


「いい反応も見れたし、美味しい味噌汁も味わえた」


 そう言って、最後の一口をずずず。

 せめて片付けくらいして行け。なんて、内心思っていたら、すぐさま柚木がお椀を台所に運んだ。そして、何を言うでもなく洗い物を始める。


「わるいね、片付けまでさせちゃって」


「い、いえ」


 柚木の反応がやけにしおらしい。

 思えば、今のやり取りの最中、柚木はずっと部屋の端に座っていた。ただの一言すらも発することなく。カーペットの無い、固い床の上に。


「あれかい? 柚木ちゃんは普段、ホテルで生活しているのかい?」


「は、はい。凄く安いところですけど」


 ちなみに柚木の事情は、あらかた彼女に伝えている。

 ただ一つ、『パパ活をしている』という点を除いて。


「大変だね。バイトしながらホテル暮らしとは」


 九条さんのその言葉には、何か裏があるような気がした。

 もしかするとこの人は、すでに柚木の真実に気づいているのかもしれない。全てが嘘ではないとはいえ、かなり苦しい言いわけではあったから。


「で、発田さんは高校の先生なんだよね?」


「まあ、一応」


「てことはだよ。この状況って結構まずくないかな?」


「ぐっ……」


 そう言って、ポケットからスマホを取り出した九条さん。反論したいが、そこに関しては概ね彼女の言う通りである。


 何もないとはいえ、未成年を家にあげてしまったのは事実なわけで。それを第三者に見られてしまっている以上、俺に無実を立証させるだけの力はない。


「ボクの行動一つで、発田さんの人生が終わる可能性があるってわけだ」


「通報……するんですか」


「いやいや、単に興味があるだけだよ。こんな状況、なかなかお目に掛かれるもんでもないからさぁ。小説の素材にもなるし」


「素材って……そこまでするんですか、小説家って」


「そこに関しては人によりけりだけど。ボクはほら、狂ってるから」


 ニヤリと不吉な笑みを浮かべ、自分を指差す九条さん。相変わらずパーカーの裾からは、色白の生脚がかなり危険なラインまで露になっている。


「興味の向こう側を見たいんだよね、ボクは」


 そう言って、スマホを操作する。

 やがてこちらに向けられた画面には、『110』という打ち込みがされていた。心臓の鼓動が一気に加速する。


「このボタンを押すか押さないかで、発田さんの人生が180度変わることになる。どうだい? 凄くハラハラしないかい?」


 この人は……本当にどうかしている。

 一度は納得してくれたはずなのに、意味不明な理由で俺を脅して。あろうことか、この状況を楽しんでいると来た。


 その人を小ばかにしたようなニヤケ面……くそっ、女じゃなかったら力づくでどうにか出来るのに。無理に触ってセクハラだなんだって騒がれても困る。


 何か、この狂った小説家を黙らせる方法はないのか——。


「なーんちゃって。ウソウソ、冗談だよ」


 そう言うと、九条さんはスマホをテーブルに置いた。


 どうやら本気で通報する気はないらしい。

 ふぅ……と、安堵の息が漏れる。


「あ、でも。110番って本当に警察に繋がるのかな」


「は」


「ちょっと押してみよーっと」


 ぽちっ。


 九条さんがスマホに向かって指を突き立てた瞬間、プルルルというコール音が鳴り始め——やがてその画面には、通話時間が表示された。


「おお、本当に繋がった」


 そんな九条さんの声に遅れて、電話の向こうから男性の声が聞こえてくる。


「警察です。事件ですか? 事故ですか?」


 その瞬間、なぜか九条さんは興奮した様子で、両手をパタパタ羽ばたかせた。


「二人とも見てよ! 本当に繋がった!」


 本当に繋がったじゃない……。


「何やってんだあんたはッ‼」

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