第5話:ご主人に甘えちゃってもいいかなって、思ったりするのじゃ

現代医学はすごい。数日飲んだだけの薬が効きまくっていて、ミケの花粉症も一日に何度か発症する程度には抑えられるようになった。


彼女が来てからおよそ一週間。俺の鼻は……特に大きな変化はない。あ、でも、夜の散歩中に、今まで分からなかった空気の匂いが分かるようになった。これは大きな収穫かもな。


風呂上がりの髪をタオルで吹いていると、先に上がっていたミケがトテトテと俺の傍らに経つ。洗面台の鏡と空気の流れに乗った甘い匂いがなければ気づかなかった。



「ご主人っ」


「ん?」


「わらわが耳かきしてあげるのじゃ」


「ほう」


「太ももを枕にして、洗いたての尻尾の匂いを嗅いで、そうすれば一石二鳥じゃねっ」


「乗った」



タオルを洗濯機にぶち込んで寝室に向かう。扇風機は回っているのに、熱のこもった匂いがした。外からの空気だろうか。


布団の上で足を崩したミケの太ももに、迷いなく頭を預け──あー……めっちゃ柔らかい……。最初の頃は細くて折れそうとか気にしてたのにいざ甘えだすとこれだから怖いよな……。



「はい、わらわの尻尾。優しく掴んでね」


「……神」


「えへ、神なのじゃ」



股下から太ももを通して、ミケの尻尾がご開通。相変わらずフワフワした毛並みのそれを優しく掴みながら、手触りを楽しむようにモフる。嗅ぎ慣れたいつもの甘い匂いがした。



「……じゃあ、始めるね」



梵天がついた耳かき棒をどこかから取り出しながら、慣れた手つきで動かしていく。



「ご主人は、最近、耳かきされたことある?」


「嫌味かよ……。あるわけないだろ。一人暮らしなんだし、彼女とかもいねぇし」


「じゃあ、わらわだと数に入らない?」


「……んなことない。貴重な一回だ」


「えへへ……良かったのじゃ」



でも、とミケが続ける。



「ご主人、今はわらわにベタベタじゃけど」


「うん」


「わらわが帰るとしたら、どうするのじゃ?」


「……考えないことにしてたんだけど、それ」



痛いところを突かれて、胸がキュッと締まる。現状、ミケと一緒にいるのは、めちゃくちゃ……とは言わないまでも、楽しいし、癒される。それを取り上げられるのはキツイな。



「ミケの前で言うのもあれだけど、所詮はビジネスの関係か……そう思うと悲しいよな」


「話の上だと、お互い無事に治ったらそれでおしまい、じゃからね。我ながら淡々としすぎてるなぁとは思うのじゃ……」



耳かき棒の感触だけが伝わってくる。気の持ちようだろうが、それもどこか単調に思えた。


緊張したせいか、胸どころか鼻が詰まったようで、息苦しい。



「ぶっちゃけ、今までの人たちは、みんな大人で──家族とかもいて、わらわがいても仕方なかった。逆に、使うだけ使って、あとはいいように追い出されたこともあったけど……」


「……俺は追い出さないぞ」


「ご主人ならそう言うと思ってたけど。でも、ここに定住しちゃうとなったら、それで本当にいいのかなって、少し、思ったりするのじゃ」



手は緩めずに、淡々とミケは語る。表情はここからじゃ見えない。ただ、触れている尻尾の感触が、少しだけ弱々しい気がした。



「わらわ、これでも神様じゃし。あまり長く神社を空けるのも、本当はたぶん、良くないし」


「あー……。お前はここにいたいけど、立場上、向こうにもいなきゃいけないってことか」


「うん。解決方法があればいいなって」



無意識だろうか、尻尾がふわりと揺れた。微かな溜息に混じるように、細い虫の声がする。



「ご主人は優しいよ。他の人間も同じくらい優しかった。でも、わらわが一緒にいられる環境じゃなくてね。……ちょっとだけなら甘えちゃってもいいかなって、思ったりするのじゃ」



それに、と続ける。



「次にお世話になる人間が、みんなご主人みたいに優しいとは限らないから……。なるべく嫌な思いはしたくないのじゃ。だったら、ワガママだけど、一つのところに厄介になろうかなって……。神社にいても、ずっと、暇じゃし」


「ミケがいるぶんなら、俺はまったく気にしない。居心地がいいなら、それでいいだろ」



ここ一週間近くで、彼女がいるのが当たり前の生活になった。今まで散々、一人暮らしを満喫していたような感じなのに、それでもどこか、やはり、手持ち無沙汰は拭えなくて。


治療という名目だった。それだけだと思っていたのに、人間、慣れというものは怖い。少なからず甘えてしまうと、離れられなくなる。だからミケの話は、渡りに船というわけで。



「……今までのご主人と別れる時、どんな想いだった? 寂しいとか、あったのか」


「良くしてもらったから、そりゃあ多少は、寂しいなとか思ったのじゃ。でもみんな、定期的に神社に挨拶しに来てくれる。そこでお喋りするんじゃけど、それは普通に楽しいよ」


「俺のところには都合よくいられるし、お互いに別れる理由もないからってことか……」


「言っちゃえば、そういう話、なのじゃ」



恥ずかしそうに笑う彼女の息が漏れた。


都合よく、都合よいままでいたい、と思うのは、ダメなのだろうか。別にいいだろそのくらい、と思うのは、俺がまだ自由な子供だから?



「……ん、反対側。向いて」



思考を止めて位置を変える。これまで触れていなかったほうの頬が太ももに触れて、温かいと柔らかいという感想がほぼ同時に出た。


目を動かせば、ギリギリだけど、ミケの顔が見える。視線が合って、小さく笑っていた。尻尾がぴょこんと揺れる。ふわりとした感触が、鼻に甘ったるい匂いを振り撒いていった。


また耳のなかに綿棒が入っていく。外耳道をコリコリと削っていくような感触。かゆいところに手が届くような気分……。良すぎる。



「神社にいなくてもいい方法、あるかな」


「勝手に神様不在はマズイしな」


「そう、な──っくしゅんっ! あ"ぁ……」


「い"っっってぇ!!!」


「あ"ーっ、ご主人ごめんね大丈夫なのじゃ……!? わらわのせいで、っ……!」



あまりの痛さに思わず起き上がる。綿棒が耳の奥にぶっ刺さった! めちゃくちゃ痛い! 鼓膜破れたんじゃないかこれ!? 痛い!


……という身体の危機に直面している時に限ってそこそこ有用なアイデアが浮かぶのやめてほしいんだが? 今めちゃくちゃ痛いが?



「あの……ミケって狐だろ? そこらへんの狐と話すこととか簡単にできるだろ?」


「えっ? えっ……そう、じゃけど」


「いってぇ……。で、『神様引っ越し』とか看板置いといて、その代わりに狐を神様の使いにして、守り番をしてもらって……マスコット」


「……うん」


「で、参拝客には短冊とか絵馬とかを奉納してもらうんだよ。それを野良狐がここまで持ってくる。そうすりゃ形式上は──」


「おーっ……! ご主人すごいのじゃっ」


「さらにさらに、だ。今までミケに世話になった人とか、直接ミケに会いたいって人のためにも、ここの住所を書いておく。俺は誰が来ても問題ないから、お前がすべて応対しろ」


「あいっ! 了解なのじゃっ……!」


「そうと決まれば実行だな。あー、いてぇ」


「えへへ、ごめんなのじゃ……油断してて」



ひとまず今後の計画をミケに話した。

……鋭い耳の痛みに耐えながらな。


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