第4話:匂いふぇちのご主人は優しいから好きじゃ
「──おかえりなのじゃ、ご主人様っ」
「……どうしたいきなり。謎にときめいたが」
近所のコンビニに向かった深夜11時頃。ミケとの暮らしも数日が経って、ある程度は慣れてきた時分。新章、『突然のご主人様呼び』。
蒸した空気の玄関先に立つ半袖半パン姿を見下ろしながら、俺は袋を持って豆電球に照らされた四畳の寝室に戻る。しわくちゃな布団にミケは飛び込むと、そのまま俺を催促するように、一人ぶん隙間を開けた。
「え、マジでどうした。そんなに積極的だったかお前。残念ながら子供には興奮しないが」
「違うっ! すっとぼけても無駄じゃ。お主が癒しと匂いを求めてわらわを抱きしめたまま寝てること、忘れたとは言わせないが……!?」
「それは紛れもない事実だが、治療と癒し目的なら健全な行為だろ。ライン越えしてないし。で、何がいきなりご主人様だよ媚び狐」
「実はお主が買い物に行った時、ちょろっと、あのー……すまほで調べさせてもらったのじゃ。そしたら、わらわみたいな獣耳の子は、男をご主人と呼ぶ傾向にあるとかなんとか」
それはそう、と納得しながら、全開にした窓とフルパワー回転の扇風機を横目に、そしてミケが隣にいるのをペット感覚で眺めながら布団の上に寝転がる。またシャンプーのほのかに甘い匂いだ。風流な夏の夜の匂い……はそもそも分からない。
「……ご主人、わらわのこと、子供とかペットにしか思ってないじゃろ。反応が軽い」
「逆にお前にガチ恋したらマズイだろ……」
「そういう恋もあるよ。令和じゃし」
「見た目はいいからなー……。せめて親戚の子供だな。妹にしちゃ離れすぎてるか」
「にへへ……。それじゃ、今夜も、ほら」
俺が袋のなかのちょっとしたお菓子を取り出すのと同時に、ミケは腕を広げていつものポーズ。『わらわに抱きついて匂いを嗅いでもいいのじゃ』の合図だ。
「その前に薬を飲んどけ、薬を。夕飯食べたあとに飲むの忘れたろ、今日。治らないぞ」
「あっ……。……点鼻薬はダメ、なのじゃ?」
「あれ鼻詰まりとかだろ」
「うっ……わらわ、今ほへも鼻が詰まっへる」
「…………」
白々しい演技を無視して、そこらへんに置いてあるパッケージから錠剤を取り出した。そのまま口に放り込んで一気に水で流し込ませる。
悶えながらフリーズするミケの耳を、扇風機の風が揺らしていった。
「うっ、くっ、うぅ……ごくっ、〜〜っ……!」
涙目で睨んでくるが、しょうがない。花粉症を治せと言われたから従ってるだけで。その代わりに俺もミケを頼ってるから、お互い様だ。
ひとまず二人で狭い布団に寝転がりながら、蒸し暑いのは我慢して、さっき買ったばかりの氷アイスを頬張る。うん、控えめな甘さだ。たぶん鼻が利かないせいなんだろうけども。その割には蒸した空気の匂いって分かるんだよな。
「ご主人がいろいろ買ってくれるの、いっぱい食べられて嬉しいから、わらわは好きじゃな」
「人間には何度か世話になってるんだろ。みんながみんな優しいってわけじゃないのか?」
「だいたいみんな、わらわには良くしてくれる。たまに子供扱いされて、いいように使い倒されるだけで、まったく相手にされないことあるけど……。ご主人は子供扱いしてても、優しくしてくれるから好きじゃね。これは本音」
喉の奥から絞り出すような声が、どこか辛そうに聞こえた。笑っている顔も、無理やりなように見えて、こっちが辛くなってくる。
「……大丈夫だよ。俺は嫌がることとかしない。仮にも神様を怒らせたら怖いしな」
ミケは目を細めて笑うと、そのまま頷いた。ダボダボの服から腕を伸ばしながら、「んしょ」と声を漏らしつつ俺に抱きついてくる。
「……治療のためだよ」
「治療のためな」
「甘えてるわけじゃないからね」
「いやそこは甘えていいが」
毎回、お互いに確認する。やましいことは何もしていないとでも言うかのような。それさえ言えば、何をしても許されそうな気がして。
蒸し暑い。毛先が頬に触れる。吐息が顔にかかる。少しいい匂いがして、なんか違うんだよな、と思いつつも、それに身を委ね続けた。
「……っ、くしゃみ出そうなのじゃ」
「ちょっ、待て」
「〜〜っ、はぁ……」
咄嗟にミケの鼻をつまんだ。鼻をつまめばなんとかなる。身体に悪影響はないんだろうか?
「へへ……薬のおかげで楽になってるのじゃ」
「そりゃ良かった」
「ご主人の鼻は、まだ戻らない?」
「一週間くらい試さないとかなぁ」
「だったら、まだまだわらわが必要じゃね」
楽しそうにはにかむミケの顔が、間近に映る。神様だけど、超自然的な力を使うわけでもなんでもなくて、人間一人に寄り添って、しっかり相手してくれる。それがとても嬉しい。
「ご主人は、好きな匂いとかってない?」
「香水でもつけようっていうんならやめとけ。そういう着飾ったものよりも、シャンプーとかそういう素朴な匂いのほうが俺は好き」
「おー……。匂いふぇち、ってやつじゃな」
「フェチ、ねぇ……」
それなら獣臭いのが好きな人もいるんだろうな。癖になる〜、とか言って。犬とか猫とかに顔を埋めまくってる人……いや、俺は違うが?
「んっ……」
抱き枕のようにミケを抱き寄せながら、ぴょこぴょこと動く獣耳の感触を肌で感じる。ここまで至近距離になると、もはや獣臭さ……は分からない。シャンプーの甘い匂いと、あと少しだけ、汗で湿っぽいような匂い?
「……わらわが汗臭いのも、ご主人は好き? こっちのほうがシャンプーの匂いよりも強いかもしれないのじゃ。日本人はえっちなものが好きともいうし、ご主人もそうだったりする?」
「そしたらお前もエロいことになるぞ」
「む……。今の話はなしじゃ」
「自分から言っといて恥ずかしがるのやめろ」
「……わらわ、臭い?」
袖のあたりをスンスンと嗅いでいる。ぶっちゃけ臭くはないんだけども。たぶんね。
「安心しろ、臭くないよ。きちんとシャンプーのいい匂いするって。毎日お風呂入ってるし」
「お風呂入らなかったら臭いみたいじゃん」
「そりゃそうだろ。獣臭かったし」
「……そのまま毎日嗅いでたほうが効きそう」
「やだよ。シャンプーの匂いのほうがいい」
「えへへ……ご主人わらわにデレデレじゃ」
締まりのない顔でミケが笑う。素直に可愛らしいな、と思いながら、俺も笑みを零した。
いい匂いがする。ここ数日で慣れてきた感じはあるけど、それでも、いい匂いというのは変わらない。甘ったるくて、甘えられそうで、落ち着く。親みたいだとは言わないけど、でも。
「ご主人はいま、夏休みじゃろ?」
「あぁ」
「やりたいこと、ないの?」
「外に出るのは暑くて面倒臭いしなぁ……。クーラーの効いた部屋で涼むのがいちばんだな」
「わらわと布団のなかで密着して?」
「……ありだな」
自堕落すぎる夏休みだ。こんな感じであと一週間くらい一緒にいるのだろうか。今のところ、ミケと一緒にいるのは、それこそペット感覚にすぎない。
すぎない、のだけど──いなくなったら、少し寂しくなりそうだなと思った。
「ま、適当に楽しむよ」
「んー……まぁ、それがいいのじゃ」
氷アイスをカップごと口のなかに流し込む。ミケもそれを真似する。歯に染みるほど冷たくて、思わず目をつぶった。ゴリゴリと砕ける氷の音。悶えるような、声にならない声。
「ふーってやると、息、冷たいのじゃ」
間近に彼女の顔が見える。冷ややかな吐息が鼻に吹きかかる。果実の爽やかな匂いがした。
穏やかな深夜の空気感。扇風機の音に掻き消されがちな虫の声。控えめなミケの笑い声を聞きながら、俺はそっと目をつぶる。
「ご主人、もう寝る?」
「うん」
「おやすみなのじゃ」
「おやすみ」
弾むような彼女の声と、涼やかな風と、少しだけ香る甘ったるい匂いに、意識を沈めた。
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