第2話:お風呂上がりの彼シャツ、わらわの匂いを想像するのじゃ

「あ"ぁー……気持ちいいのじゃ……」


「もう少し抑えろよ。ここ壁薄いんだからな」


「ん"ぁー……」



せっまい浴槽にお似合いなちんまいロリ狐を風呂に入れさせたところで、直前に入浴を済ませた俺はそそくさと脱衣場を後にする。 あいにくポンポン脱ぎ散らかした着物だの下着だのを見る趣味はないのでね! ちなみにクソダサ下着は黄色だった。


去り際に鼻を香った空気の匂いは、どうやら湯気のこもったそれと獣臭さが少しだけ混じって、なんだか蒸すようなよく分からない匂いになっているらしい。



「あっつ……。夕飯食べたあとの風呂上がりとかいちばん暑いんだよな……。夏は嫌いだ」



畳敷きの居間にドカンと腰を下ろす。一階だから下への配慮は不要。横は知らん。


開けっ放しの窓の向こうには、網戸越しに真っ暗な宵の色が見えた。蝉の声はとっくに聞こえない。ただその代わりに、なんだか分からない虫がチイコロチイコロ鳴いているばかりで。


街灯が少し向こうにポツネンと佇んでいる。民家の明かりがそこかしこに漏れている。ド田舎の夜というものは、どこか寂しくも温かい。


俺の鼻が正常なら、今も土草の蒸した匂いとか、アスファルトの埃っぽい匂いも感じられていたはずなのにな……。夏の夜の匂い。あれ、割と好きだったんだ。日常の些細な楽しみが失せてしまって、ずーんと物悲しい気持ちになる。



「〜〜♪」


「呑気に歌ってんな……俺の気持ちも知らないで」



口ずさむような歌声が風呂場から聞こえる。俺にも近所にも遠慮がなさすぎるだろ。っていうかこれ、何ヶ月か前に流行った曲じゃないか……? よく知ってんなあいつ。すげぇ。


それを聞き流しながら畳に寝転がる。い草の香ばしい匂いが、目を閉じれば、かろうじて感じられた。のじゃのじゃ歌う声が途切れずに聞こえる。ずっとこのままとか、のじゃが頭に残りそうで嫌だな。


……ブオオオオオ──ン。


ドライヤー。紛れもなくドライヤーの音。電気代高騰のくせにしれっと使いやがったぞあいつ。いやでもあの髪とか耳とか尻尾とかはきちんと乾かさないとだな……。頭に残るのじゃのじゃ音頭を聞くよりマシかもしれない。


しばらくすると、のじゃロリは満足そうな顔をして出てきた。



「あー、久々に風呂に入ったからすっきりしたのじゃ……毛並みもフサフサで最高……。寝てばかりの暇つぶし神社暮らしとは違うね……」


「随分と楽し──って狐、なんだその格好」


「ん? あったから借りた。ダメだった?」



タオルを首にかけながら距離一メートル先で俺を見下ろすのじゃロリは、あの着物姿……ではなく、昨日あたりに洗濯したばかりの──それもかなりブカブカの──俺のTシャツ一枚のみで立っていた。


太もものあたりまで裾が伸びているとはいえ、寝そべっているこの目線からはギリギリ下着が見えてしまいそうなもので、思わず正座に姿勢を変える。そこでふと、シャンプーを極限まで薄めた、ほのかに甘ったるい匂いを嗅いだような気がした。



「おいロリ、着るなら自分の服を着ろ」


「こっちは涼しいし動きやすい。前に人間の家に泊めてもらった時に着せてくれたのじゃ」


「当たり前だろシャツなんだから」


「わらわが着ててもよいかっ?」


「……好きにしろ」



ロリ狐はその場で内股座りになると、満足気に頷いた。それから毛並みを整えた尻尾をふぁさりと揺らして、何も言わずに腕を広げる。服の裾が太ももをすべて覆い隠していた。……動作のたびに空気が質量を持って動いている気がする。



「しゃんぷー、りんす、ぼでぃーそーぷ。しっかりと隅から隅まで洗ったのじゃ。もう獣臭いなんて言わせないよっ。ほら、抱きついて」


「鼻が利かないとか言いながらも微かにいい匂いがしてて俺はめちゃくちゃ悔しい」



前口上を述べてから迷いなしに飛び込んだ。小さな子供の腕のなかに。胸の膨らみなどありもしない、その絶壁のまな板に。飛び込んだ。


思い切り深呼吸する。直に嗅ぐとまた違う。ひたすらに甘ったるい匂いがする。獣臭さは完全に消え去って、でもどこか、鼻のなかにフィルターがかかっているようで、本来感じる甘ったるさはこんなものじゃないと俺の経験が怒号を上げていた。



「へっ、くしゅっ……! どう、いい匂いじゃろ。人間、自分の匂いはよく分からないというからな。わらわの匂いを想像しながら、毎日治療に励むのがよろしいと思うのじゃ」


「……お前、いま洗ったばかりの俺の髪に唾を飛ばしたの見逃してないからな」


「うるさいうるさい、わらわが拭いてやるから黙るのじゃっ。……これでいい?」


「うわ、手で雑に頭を撫でられるのめっちゃくちゃ落ち着く」


「いくら親元を離れても、しょせんは親の子供じゃからねー。有り余る母性と慈愛には逆らえないのが動物というわけでね、人間」


「人間って言うな、狐」


「狐って言うな、人間。わらわにだって名前くらいあるんだよ。ミケと呼んでね」


「お前ほんとに狐としてのプライドある?」



思わず顔を上げた。ロリ狐……もといミケは目を丸くして、さながら猫のようにシラっとした顔で俺を見下ろしている。『当然ありますがなにか?』とでも言わんばかりの表情だ。



「この多様性の時代、一つのことに執着するのは良くないよ。猫の名前がポチで狐の名前がミケでも構わないくらいの心を持たねばにゃ」


「ノリノリじゃねぇかお前」


「えへへ、これが余裕じゃ──っくしょい!」



ミケの尻尾がふぁさりと揺れる。ブローしてきただけあって、その毛並みやら触り心地やらは良さそうだ。衝動的に手を伸ばしたくなる。



「……その尻尾、触ってもいいか?」


「ずずっ……構わないけど。ほら」



彼女は器用に太ももの上へと尻尾を乗せると、そのままポンポンと俺を誘導した。



「膝枕じゃ。ぐっすり休めるでしょ」



ロリ狐の無垢な笑み──! 効く……猛暑で疲労困憊だった俺の五臓六腑に染み渡る……!


しかし辛うじて残っていた理性が警鐘を鳴らした。このちんまいロリの、ほそっちい太もも、これに俺の頭を預けることで、彼女の体躯が壊れてはしまわぬかという不安に駆られる。



「重いだろ。いいのか?」


「……痛いのは嫌かも、なのじゃ。優しくね」


「乱暴にはしないからじっとしてろよ……」


「了解、なのじゃ……」



姿勢は既に寝転がる体制。頭を優しく下ろしながら、耳や頬をくすぐる尻尾の誘惑に耐える。フワフワして柔らかいものに包まれていく。


──染み込んだシャンプーの匂いがほのかに甘くて、それはさっきと変わらない。ただ薄っすらと隠しきれない獣臭さも残っていて、犬とか猫に抱きついて思いっきり吸い込んだ、あの時の匂いによく似ていた。犬猫吸いならぬ狐吸いか。レアだな。


透くような手触りの毛の向こうには、確かな太ももの感触、確かな肉感があった。



「うぉっ……めっちゃすげぇ……」


「ひゃっ、喋るな……! くすぐったいじゃろ」


「…………!」


「っ、鼻息が荒いのじゃ……! 口は塞げっ」



死ねと申すか、ワガママだな。

ひとまず鼻息も呼吸も抑える。



「……いい匂いじゃろ」



無言で頷く。



「邪なことさえ考えなければ、誰かが隣にいれば、自然と落ち着くもの。いちばん大事なのは、場の空気感じゃ。安らげるようにせんと」



毛並みの心地良さと、ほのかな甘い匂い。特段、クセが強いわけでもないけれど、これだけの刺激を毎日繰り返してれば、そりゃ細胞も活性化するわな。



「……子供みたいにあやされて、安心して、眠くなってきた? 目までつぶっちゃって」



外から聞こえてくる虫の声も、ときおり吹いてくる涼しい夜風も、耳元で聞こえるミケの吐息も、頬に伝わる微かな蒸し暑さも、そのすべてが心地良かった。いつしか頭を撫でられていたことに気付いて、無性に嬉しくなる。



「眠かったら寝てもいいよ。おやすみじゃ」



遠のく意識のなかで、優しい声がした。それを微かに聞きながら、沈むように眠りに入る。



「あっ、はっ──くしゅっ……」



寝落ちる寸前のくしゃみは、控えめだった。

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