にぃさん
赤堀ユウスケ
第1話
冷たいペットボトルを鞄に入れていたら、塾のプリントが少し濡れてしまいました。黒のインクが紫に滲んでおりました。使うには支障の出ない範疇なのですが、全身に粘りつくこの暑さに辟易していたのもあり、私の憂鬱さに拍車をかけました。塾用のトートバッグがいつもより重く感じました。
暦上では、もうすぐ秋が来ます。塾帰りですので、もうすっかり暗い空で、気温も少しは落ち着いておりますが日中はまだまだ茹だるほど暑く、今年もきっと残暑が長引いてしまうのでしょう。べっとりと厭らしくどこへ行っても私に付き纏うのです。冬が来たら忘れられるかしらん……いえ、また巡って夏が来た時に私を苦しめるのだわ。夏は元より好きではございません。暑くてそれだけで体がだるいもの。汗だってびっしょり。かわいくない。趣味といっても読書ぐらいであまり女子の話題に加わることはありませんが、私だって年頃の女の子です。嫌なものは嫌よ。
先生や両親の言うことは受験ばかり、勉強ばかり、日本のひどい湿気と相まって非常に息苦しい限りです。
「おーい、えっちゃん」
後ろからよく知っている声が聞こえました。
振り向いた先には丸メガネで寝癖がちょっと付いている、いつも通りの……にぃさんがいました。
「えっちゃん、久しぶり。元気?」
にぃさんに会えたので、たった今元気になりました。
にぃさん、とは言いましても私の血の繋がった兄ではありません。第一私には兄弟がいませんもの。にぃさんは隣の家に住むふたつ年上のお兄さんです。私は彼を幼きより「にぃさん」と呼んで慕っております。
父は自分の子として男が欲しかったらしいと、ある時耳にしたことがあります。あそこの家の長男は実に立派だとにぃさんをよく褒めておりました。お分かりになるでしょう。厭になるぐらい頭が固いのです。母だって、もうおやめになってくださいよと、ウンザリした様子で、けれども両親の更に親の世代ですとこういった価値観は珍しくないことから、そういった考えも理解は出来るといった側面を持っており、だからこそ非常に困り果てております。双方とも見ていられませんわ。
そんなことも知らない頃からの付き合いですから、私はにぃさんの存在を憎むでもなく、素直に尊敬しておりました。
にぃさんは私を本当の妹のように可愛がってくださります。そして記憶にもございません頃、一度にぃさんに「私のお兄ちゃんになってほしい」と言って困らせたことがあります。にぃさんには血の繋がった妹が実際におります。だからえっちゃんのお兄ちゃんにはなれないんだよと、その時は優しく教えてくださりました。
妹さんと会ったことはありません。体が弱く、病にかかっているから、祖父母のいる田舎で療養していると聞いております。
にぃさんは久しぶりだから少し話しましょうと、すぐ近くの馴染みの公園にあるベンチに腰を下ろしました。公園はいつも近所の小学生に占領されていますが、今日ばかりは私たちの特等席でした。
「夏が終わるまでに会えて良かった。最近は忙しいよね、受験生だもの」
「ええ。みんな、みんな、そればっかりよ」
「どこの高校にするかは決まったの?」
「いえ。けれどにぃさんと同じところに行くと思います」
そうかい、とにぃさんは言いました。
「この辺はあの学校に行く人が多いからね。悪い学校ではないし、えっちゃんも気にいると思うよ。少し課題は多いけれど」
「にぃさんは夏休みの宿題は終わったの?」
「なんとか」
「やっぱり多いの?」
「作文が多いね」
「にぃさん、そればっかりは苦手ですものね。そうだ、最近妹さんは大丈夫なのかしら。噂でね、私のお母さんから聞きましたの、あまり良くないって」
「そうだね。でもその話の頃よりは多少良いそうだ。最近会えていないから、会ってやらないと…………」
君の心配には及ばないよと聞こえた気がしました。にぃさんは、何か話すのを躊躇っていました。私はそれを察しているような、していないような、曖昧な、相手からすると少し鈍感な態度を装いました。
にぃさんは鞄から水筒を出して飲んだ後、あついねと言いました。ええ、と私が言った後、にぃさんの方を見ると難しい顔をしていらしたので、やはり私から何か話し出すことはできませんでした。ふと空を見上げました。紺なのか、紫なのか、黒なのか、絵の具で塗りつぶしたような色で、星なんかはきっとマンションや電灯に隠れてしまっていました。夏の大三角形はまだ見られるのかしらとぼんやり考えて、でもなんだかそれはつまらなくて、にぃさんの足元に目をやりました。珍しく自転車さえも今日は通っていませんでした。どこかからほんのりカレーの匂いがしました。あまりお腹は空いていませんでした。
にぃさんが口を開きました。
「ねぇ、えっちゃん。君にこんなことを言うなんて、どうかしていると思うし、軽蔑してくれたって構わない。暑くて頭がおかしくなってしまったと、許してくれ。いや、許さなくてもいい。聞いてくれるかい。えっちゃん……僕と…………」
にぃさんの視線が足元から私の瞳に移りました。
「僕と駆け落ちしてくれるかい?」
そんなことを仰るなんて思いもよらず、私は厭に冷静になって、
「にぃさん、駄目ですよ。そんな不道徳……」
私は隣に座るにぃさんの、ベンチに置かれた手に手を重ねました。少し首を横に振りました。
「そうかい。そうだね、えっちゃん……」
……困ったような笑みを浮かべて俯き、私にはそんなにぃさんが少しばかり幼く見えました。私は手を離して、自分のバッグの位置を直しました。にぃさんに幼さを感じましたのは初めてですので、本当にどうしたのかしらと、にぃさんが心配になりました。きっとにぃさんの口から今は聞けないのだろうと思い、私は、そんなにぃさんに幻滅するでもなく、しかし、にぃさんをじっと見つめることしかできませんでした。
何かあったのかしら。
突然のことで否定してしまいましたが、それ自体はとても嬉しいものでした。拒絶と受け取られてしまったのかもしれない。それに気がついて慌てて弁解しようとしました。
それよりも先に、にぃさんは、
「夏祭りが来週あるんだってね。実は行った事がないんだけれど、花火だけは毎年窓から見ているよ。えっちゃん、一緒にどうだい」
と話題を変えました。
にぃさんから誘ってくれたことに私は大変驚きました。私が何度にぃさんを誘っても、友達と楽しんでおいでと、私と共にしてくださることはありませんでしたもの。私は弁解なんて忘れて言いました。
「もちろん行きましょう。今年は友達と約束していませんから、ふたりで回れますよ」
「それは楽しみだね。りんご飴でも買ってあげるよ。一緒に食べよう」
「ありがとう、にぃさん」
メガネの奥の表情が綻びました。
「えっちゃん。お願いがある。少し恥ずかしいんだけれどね、次僕と会う時、僕のことを名前で呼んでくれないか」
私は受け入れました。もちろんよ、にぃさん。でも私のことは、えっちゃんと呼び続けてくださいまし。小さい頃からそう呼ばれていて、愛着がございますの。
「必ず行きます。それまで待っていて」
そしてにぃさんはそのあと、帰ろうか、と言い、私の家まで送ってくださいました。私は、またねと手を振るにぃさんに、楽しみにしていますと言いました。
これが記憶している限り、にぃさんとの最後の会話です。
わかっておりました。こうなることはわかっておりました。でも良いでしょう。私にはこうしかできないんだもの。許してください。にぃさんは、今まで一度だって私に嘘をついたことがなかったの。
私は今、祭りの外れにある垣根に腰を下ろしています。どうして新しい浴衣なんて下ろしてしまったのかしら。どうしてわざわざ母の紅なんて借りたのかしら。厭らしい。ああ、厭らしい。初めからこうなるんだと知っていながら。
にぃさんと話した数日後に母から聞きました。にぃさんはこの夏、家族で田舎に帰るのだと。妹さんの面倒を見るために帰るのだと。どうして私に仰ってくださらなかったの、にぃさん。にぃさん!
花火に満足した人々が私の前を通ります。私はそれでもその中に、にぃさんを探します。私のにぃさんはどこへいらっしゃるの。私の、大切な大切な、にぃさんなの、お願いします。信じているの。
にぃさん、お願い。私を連れて行って!
あの時咄嗟にそんなことが言えたら良かったのかもしれません。怖気付いてしまったんだわ。嬉しかったはずなのに。にぃさん、ごめんなさい。お手紙を書いてきたの。ラヴ・レターなんて初めて書きました。けれど私はあなたの行き先さえ存じませんの。だから、この手紙は破いてしまいます。いずれにしろ濡れてしまってもう読めませんわ。
りんご飴は買えず、瓶ラムネを手にしました。氷水に浸かっていました。これが最後の口付けでしょう。
私はあなたがこの祭りに来てくださらなかったのが、ひどく寂しかったのです。
にぃさん 赤堀ユウスケ @ShijiKsD
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