第91話 二人は仲を深め、彼は彼女の母に認められる
「……春陽くん」
「どうした?」
「……ハルくん」
「どうした?」
雪愛から二通りの呼ばれ方をしてこのやり取りの意味が春陽にはわかった。
「えへへ……呼んでみただけ」
「そっか」
ほら、やっぱり。
春陽は口元に笑みを浮かべ腕に力を込める。
今、春陽は雪愛を後ろから抱きしめる形で座っている。
膝を立てた両足の間にすっぽりと雪愛は収まっており、力を抜いて身体を春陽に預け、自分を抱きしめる春陽の腕に手を添えている。
「もっとぎゅってして?なんだかふわふわしてるの」
今が現実だと頭ではわかっていてもどうしても現実じゃない感じがしてしまう。
それくらい雪愛の心は満たされていて、もっとその現実を確かめたい、そう思ってしまうのだ。
春陽は雪愛の言葉に痛くならないように気をつけながらさらに腕の力を強める。
自然と春陽の顔が雪愛の右肩の辺りに顎が乗るような位置に来た。
その少し苦しいくらいの強さに、けれど雪愛は幸せに包まれているように顔を綻ばせた。
春陽を強く感じることができるから。
今が現実だと春陽が教えてくれるから。
自分からもそれを感じたくて、春陽に伝えたくて雪愛は顔を右に向ける。
春陽の顔のある方へと。
春陽も雪愛の動きに気づき顔を雪愛の方へ向ける。
そしてどちらからともなく、唇を触れ合わせた。
一度だけではない。
互いの想いが伝わるようにと小鳥が啄むように何度も何度も唇を重ねる。
繰り返しているうちに徐々に雪愛の口元から力が抜けていく。
自然と口が少し開き隙間から舌先が覗く。
それは春陽も同じだ。
そして互いのそれが触れ合い一瞬身体をビクッとさせる。
けれど、それだけ。
最初はお互い恐る恐るといった様子で。
徐々に慣れていき、二人はもっと相手との繋がりを感じたいと一心により深く。
互いに相手を求め合う。
今まで感じたことがない、まるで身体中に電気が走ったように二人の全身を甘美な刺激が駆け巡った。
どれほどの時間そうしていたのだろうか。
顔を離すと二人の間を銀糸が伝いすぐに途切れた。
二人とも少し息を荒くしており、その息は熱をもっていた。
雪愛は蕩けた表情をしており、春陽も顔を上気させている。
二人ともぼんやりとしてしまって頭が働かない。
鼓動がすごく速くなっている。
触れ合っているのは一か所だけのはずなのに、まるで全身が相手に包まれているようで、とても近くに感じることができ心地よかった。
初めて知った。
こんなにも幸せを感じ、心が満たされ、気持ちのいいものだったとは。
際限なく触れ合っていたくなってしまう。
二人の関係がまた一歩進んだことで、間違いなく二人は相手のことを想う気持ちが強くなり、相手をより大切に、より好きになった。
見つめ合い、少し落ち着きを取り戻してきた二人はここが雪愛の部屋で一階には沙織がいることを思い出した。
今までそのことを忘れてしまうくらい互いのことしか考えられなかったのだが、その高まっていた気持ちが照れや気恥ずかしさといったものに取って代わられていく。
キスを続ける間に少し変わってしまった体勢を元に戻し、さらに落ち着きを取り戻していく二人。
「ねえ……春陽くん」
「ん?」
「大好き」
「俺も。雪愛が大好きだ」
二人の時間はあっという間に過ぎていき、二人は一階のリビングに向かった。
雪愛はこれから食事の準備をしなければならないからだ。
春陽に愛情たっぷりの美味しいものをたくさん食べてもらいたい。
雪愛はキッチンでハーブティーを淹れると春陽と沙織の前に置いた。
「母さん、あんまり春陽くんを困らせないでね」
「はいはい。わかってるわよ」
「腕によりをかけて作るから待っててね春陽くん」
「ありがとう。楽しみにしてる」
ご機嫌な様子でキッチンに戻る雪愛。
そんな雪愛を見て沙織は笑みを浮かべる。
我が娘ながら春陽のこととなると本当にわかりやすい。
「あの子随分嬉しそうね。春陽君のおかげかしら?」
表情を変えず春陽に向かってそんなことを言う。
だが、春陽は沙織の言葉に答えず、神妙な顔つきをしていた。
それに気づいた沙織が疑問顔を浮かべる。
「どうかした?」
「……謝らなければならないことがあります。……白月先生」
春陽の言葉に沙織の目が大きくなる。
けれどさすがというべきか、すぐに意味を理解する。
沙織の表情は真剣なもとなっていた。
「っ………思い出したのね?」
「はい」
「そう……」
「それで雪愛、さんと子供の頃一度会っているということを話しました。先生が言わずにいたことなのに勝手をしてすみません。ただ、その後のことは伝えていません」
「そう……。まず、先生なんて他人行儀な呼び方はしないでほしいかな。雪愛のこともね。今はそんな関係じゃないでしょう?今まで通り沙織で……、何ならお義母さんでもいいのよ?」
「いえ、それは……」
「ふふっ、冗談よ。それとね、謝る必要なんてないわ。私の方こそごめんなさい。当時雪愛が出会ったハル君があなただってこと、ずっと言えなくて。それに雪愛を気遣ってくれてありがとう」
「いえ、全部自分が好きでやった結果なので……」
「……でも、そっか。それで雪愛はあんなに機嫌がいいのね」
オープンキッチンになっているためそちらに目を向けると雪愛は楽しそうに料理をしている。
ずっと心の中にいた男の子が目の前にいて、尚且つ今自分の付き合っている彼氏だと知ったのだ。
雪愛の喜びは察するに余りある。
「……沙織さんは俺の過去を知っていますよね?俺みたいなやつが雪愛の彼氏で、嫌ではありませんか?」
記憶を取り戻してから、春陽はこれが一番気になっていた。
自分の過去を知っている沙織は、自分のような人間が娘と付き合っていることに悪感情を抱いていないか、それが心配だったのだ。
春陽の言葉を聴いて、沙織は当時を思い出す。
ある日、提携している病院から育児放棄の疑いがある子のカウンセリング依頼があった。
翌日に来てほしいという急な依頼ではあったが、当時、夫の洋一を亡くして日も浅く、仕事に集中することでその悲しみを誤魔化していた沙織にとっては断る理由にならなかった。
その内容や娘と同じ歳の子がクライアントだということも引き受けた理由だった。
沙織がカウンセリングルームで待っていると、頭に包帯を巻いた男の子が入ってきた。
その男の子は明らかに食事が足りていないとわかるくらいには線が細かった。
それが春陽だ。
最初は警戒している様子が見受けられたが、徐々に色々な話をしてくれるようになった。
そして、昨日の段階では覚えていないと事前情報を得ていた階段から落ちた前後のことも断片的ではあるが春陽は話してくれた。
春陽から雪愛の名前が出て、話を聴いているうちにそれが自分の娘のことだとわかって心底驚いた。
事情が事情だけに余計に。
ただ、結局この日は一番肝心な両親の話を聴くことはほとんどできなかった。
春陽が意図的に避けていたように感じたのだ。
それでも育児放棄、というよりも虐待の兆候はいくつもあった。
少々愛着障害の特徴が出ていたことも覚えている。
病院からは長期で入院してもらう予定だから入院中に結論が欲しいと言われていたため、次の予定も決めていたけれど、二回目が行われることはなかった。
その前に春陽が退院してしまったからだ。
怪我のことや記憶の混濁のことを考慮して日を空けたのが仇となった。
それからずっと気にかけてきた。
一度家に伺ったこともあるが、すでに空き家になっており、会うことはできなかったのだ。
ただ今の春陽はどうだろうか。
自信の無さ、自己肯定感の低さなどはあるのかもしれない。
だが、とても優しい青年に成長している。
それは麻理の話を聴いても思ったことだし、何より自分の娘が好きになった青年だ。
あれほど男性を嫌っていた雪愛が好きになった。
これはとてもすごいことだと母親ながら思ってしまう。
だから沙織は優しい笑みを春陽に向ける。
「春陽君が何を気にしているかはわかるつもりよ。けどね、子供の頃のことで春陽君が悪いことなんて何もないの。それに、私は今の春陽君を見てる。春陽君と出会ってからの雪愛を見てる。そして麻理さんからも、この前の文化祭の日なんて美優さんからも色々な話を聴かせてもらったわ。共通の話題が春陽君と雪愛のことだったの。春陽君の知らないところでごめんなさい」
「いえ、それはいいんですが……」
「それでね、最初の春陽君の質問だけれど、嫌な訳がないわ。私は春陽君のこと知れば知るほど大好きになってるわ。ふふっ、きっと雪愛も同じなんでしょうね。それに麻理さんや美優さんも。だからもっと自信を持って。春陽君は素敵な人よ?」
「っ、……ありがとう、ございます……」
沙織もまた春陽を肯定した。
最近周囲から同じように言われている気がする。
雪愛はもちろん、美優からも。
それに直接的ではないかもしれないが、和樹達や瑞穂達。
(いや、最近じゃないんだよな。麻理さん、それに悠介も……。ずっと前から……)
自分の周りには自分を認めてくれている人がずっと前からいるのだということを春陽は改めて認識した。
実際のところ、これでも雪愛の存在や美優との仲直りのおかげで、自己肯定感は高まってきているのだ。
これから先、もっと改善していくことは間違いないだろう。
「この間ね、近いうちに春陽君がすべてを思い出す、そんな日が来るんじゃないかって麻理さんと話してたの。ほら、春陽君達の文化祭に遊びに行かせてもらった日の前日にね」
「え……?」
「そうしたら本当に春陽君は思い出した。驚きよね」
「そうですね」
春陽は答えながら目を大きくする。
「ふふっ、懐かしいわ。もう一年くらい前になるのかしら。私が初めてフェリーチェに行ったとき、春陽君はそこでバイトしてた。すぐにあのときの子だってわかったわ。……ずっと気になっていたから。以来麻理さんとは仲良くさせてもらってるの」
「そんなに前から……」
麻理と沙織が知り合いだったなんて春陽は全く知らなかった。
「ええ。けど今年になって私達が想像もしていなかった展開が待ってた。春陽君と雪愛が同じクラスになって、知り合って……。今では付き合ってるんだもの。本当に驚きの連続だったわ」
「なんだかすみません……」
「謝る必要なんてないわよ」
笑みを浮かべて言いながら沙織はこれまでのことを思い出していた。
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