第92話 平穏な日常、そして……
あの頃、家では雪愛からハルくんの話をされる度に心が痛んだ。
またね、と約束したのに、出会った公園に行っても会えない、と。
一年近く、ハルくんに会いたい一心で何度も何度も公園に通い、それでも会えず悲しそうに表情を曇らせる雪愛は見ていて辛かった。
月日が流れ、雪愛がハルの名を出さなくなって久しくなったある日、ふと入ったフェリーチェで沙織は春陽を見つけた。
二度目にフェリーチェに行ったときに、意を決して麻理に訊いたら春陽は当時のことを覚えていないと言う。
それから麻理とは色々なことを話すようになった。
ただ、この頃はまだ、カウンセラーと元クライアントの保護者という立場が強かったように思う。
その中で無理に春陽に忘れてしまった記憶を思い出させる必要はないという考えは一致した。
徐々に麻理と沙織は友人関係を築いていき、春陽が高二になって大きな転換点となる出来事があった。
雪愛と春陽が出会ったのだ。
雪愛がフェリーチェに行ったと聞かされたときは、雪愛に不審がられないよう必死に取り繕ったが、雪愛の口から春陽の名前が出たときは心臓が飛び出るかと思った。
二人が再び出会い、想いを紡いでいったのは運命のように感じた。
それ以来、雪愛は本当に笑顔が増えた。
そして沙織から見てもわかるほど綺麗になった。
恋をしているのだと一目瞭然だった。
ただ、水族館に行った後だっただろうか、雪愛が春陽にハルを重ねていることがわかったときは胸が苦しくなった。
そして春陽と雪愛が付き合い始めたとわかったとき、祝福する気持ちとともにある決意をした。
沙織も麻理も春陽と雪愛に言わずにいることは多い。
もちろん悪意で言わないようにしている訳ではない。
その方がいいと考えてのことだ。
けれど、麻理と話し、春陽と雪愛が二人で真実に辿り着き、自分達に問いかけてきたならばすべてを話そうと決めた。
ただし、二人が過去に出会っていたことだけは、雪愛が喜ぶと同時に傷つく可能性が高い上に、記憶を失っている春陽の負担も大きいことから春陽が記憶を無くしている限り自分達からは言わないことにした。
夏休みも終わり頃。
今から思えば、きっと春陽から過去を聴いた辺りだと思う。
母親としての贔屓目はあるのかもしれないが、雪愛は一段と綺麗に、そして一気に大人の女性らしくなった。
心が大きく成長したのだろう。
文化祭前に雪愛が麻理と話したと聞いたときは驚きよりもついに来たか、という気持ちだった。
春陽の過去は話すのも聴くのも辛かっただろうに、二人の絆の強さを感じた。
ただまだ春陽の記憶は戻っていない。
だから麻理も雪愛にとっておそらく一番知りたいハルのことは言わなかったのだろう。
それでもなぜか二人がすべてを知るのは時間の問題だろうと思ったのだ。
そしてそれは麻理も同じ考えだった。
そうして今、春陽は本当に雪愛と出会っていたという当時の記憶を取り戻した。
雪愛を気遣って、階段から落ちたのが髪留めをプレゼントした翌日に起こったこととは言っていないという春陽に母として嬉しくなると同時に、沙織にはそれがあまり意味のないことのように思えた。
なぜなら――――。
「私から一つだけ、春陽君にお願いがあるの。あなたが隠してくれたこと、きっと雪愛は気づくと思うわ。あの子、本当に春陽君のことが好きで、心の中は春陽君のことでいっぱいなのよ。だからもしそのときが来たら、雪愛の気持ちを受け止めてあげてくれないかしら。母としてどうかお願い」
沙織はそう言って頭を下げた。
春陽は慌てて沙織に頭を上げてもらう。
「そんな、止めてください。もしそんなことになれば、当然受け止めますし、俺も雪愛にちゃんと自分の気持ちを伝えます」
「ありがとう。なら、これ以上私から言うことはもう何もないわ。これからも仲良くしてあげて?」
「はい。もちろんです。ありがとうございます」
春陽の真剣な表情に沙織は春陽が雪愛を大切に想ってくれていることを感じ、嬉しさから笑みを浮かべるのだった。
それからは穏やかに会話を楽しんで過ごしていると雪愛がキッチンから声をかけた。
「春陽くんお待たせ。母さん運ぶの手伝ってくれる?」
「はーい」
手にはお皿を持っており、雪愛と沙織でテーブルとキッチンを何往復もする。
テーブルにはこれでもかとご馳走が並んだ。
「すごいご馳走だな」
春陽はテーブルに並べられた料理の数々に感嘆する。
「たくさん作ったからいっぱい食べてね」
その後、雪愛の作ってくれた料理の数々を三人で美味しくいただき、笑顔溢れる楽しい時間を過ごしたのだった。
フェリーチェの前に植えられた金木犀がオレンジ色の花を咲かせ、少し前から甘い香りを漂わせるようになった。
今が一番強く香る時期だろう。
春陽はこの香りが好きだった。
なぜだか落ち着いて穏やかな気持ちになるのだ。
雪愛にこの話をしたら春陽自身気づいていないなぜの部分がわかっているかのように、自分も好きな香りだと微笑まれた。
そんな秋を感じるこの頃、中間テストを無事に終え、春陽の変化に対する周囲の反応も落ち着き始め、春陽と雪愛は充実した平穏な日常を過ごしていた。
そしていよいよ三泊四日の修学旅行に行く日がやってきた。
春陽達のクラスは男女三名ずつの六人一グループで六グループを作ることになり、
春陽、悠介、和樹、雪愛、瑞穂、葵の六人でグループとなった。
行先は京都・大阪だ。
それぞれ京都市内と大阪にあるテーマパークで一日ずつ自由行動の日がある。
本来は集団行動、自由行動と言っても、それは行く場所を選べるかどうかであって、基本的にグループ単位での行動なのだが、京都での自由行動ではグループメンバーの計らいもあり、春陽と雪愛は二人で行動し京都デートを楽しんだ。
春陽達は、四日間で京都・大阪を十二分に満喫したのだった。
だが、そんな楽しく穏やかな時間は唐突に終わりを迎える。
修学旅行から帰ってきた翌日。
今日は日曜で、月曜も春陽達は振替で休みとなる。
雪愛はお土産を持ってフェリーチェに向かっていた。
フェリーチェには春陽や悠介も来る予定だ。
修学旅行中に皆それぞれ麻理へのお土産を買っているので渡すのも一緒に渡そうという話になったのだ。
そうして家を出てすぐのことだった。
「あ、白月さん!」
名前を呼ばれ雪愛がそちらに目を向ける。
「……梶原くん?」
そこにいたのはクラスメイトの梶原だった。
だが、何だろう。
梶原は目をきょろきょろとさせ、肩に力が入っており、落ち着かないのか指を細々と動かしている。
その様子はかなり挙動不審だった。
「僕どうしたらいいかわからなくて……。ごめん、本当にごめん……」
説明もないまま梶原は謝りだす。
「落ち着いて。いったいどうしたっていうの?」
梶原が言葉に閊えながら説明した内容はこうだった。
今日友人と遊ぶためにここに来ていたところで、春陽が明らかに何人もの不良の人達と口論しているのを梶原は見かけた。
怖くて陰から見ていたら、なんと春陽が気絶させられそのままどこかに連れていかれてしまった。
大変な事態だと思った梶原は後をつけ、近くにある雑居ビルの地下に入っていくのを見た。
すぐに警察に連絡しようとしたのだが、そこでまだ仲間が後ろにいたことに気づかなかった梶原は見つかってしまい、自分も雑居ビルに引きずり込まれ、誰にも知らせないようにして雪愛一人を連れてこいと命令されてしまった。
誰かに知られたり、連れてくることができなければ梶原も春陽もどうなるかわかっているな、と脅されて。
なぜだか、相手は春陽が雪愛と付き合っていることを知っていたのだ。
そして、梶原が雪愛の家なんて知らない、と抵抗すると、住所を教えられ早く行けと
言われてその住所に向かっているところで本当に雪愛に出会ってしまった、ということらしい。
梶原の説明を聞いて、雪愛の顔色がどんどん悪くなっていく。
「春陽くんが……!?どうして……!?」
「わらかない。相手のリーダーみたいな人は工藤っていう風見君の中学のときの知り合いらしくて……」
「く、どう……!?」
その名前に雪愛の目が大きくなり、身体が震える。
「でも、白月さんを連れて行けば白月さんがどうなるかわからない。連れて行かないと僕や風見君がどうなるかわからないけど……、それでも白月さんは行かない方がいい。ごめん、ここまで来ちゃって。本当にごめん……」
雪愛は突然の話に混乱しながらも必死に頭を働かせる。
梶原の言うことは尤もだ。
けれど、自分が行かなければ春陽がどうなるかわからない。
加えて自分を連れてくるように言われた梶原もだ。
ご丁寧に誰にも知らせず一人で、と指定してきた。
もし誰からに知らせたことが相手にバレたら春陽が危ない。
春陽は今工藤に捕まっているのだ。
雪愛は、気ばかりが急いて上手く考えることができないもどかしさを感じる。
だが一つだけ確実なのは春陽が危ないということだ。
その事実が雪愛を突き動かした。
「……わかったわ……。私をそこに案内して……」
震える声を必死に抑えながら雪愛は意を決した瞳で梶原にそう言った。
「っ、わかった……。白月さんを連れてくるときは事前に連絡をよこせって言われてるからメッセージだけ送らせてもらえるかな?」
「ええ」
硬い表情で雪愛が答える。
梶原はスマホを取り出し、手早く操作をするとすぐにスマホをポケットに戻した。
「こっちだよ」
こうして雪愛は前を歩く梶原についていくことにしたのだった。
(どうか無事でいて春陽くん……!)
詩那は親に頼まれ、駅前に買い物に来ていた。
言われたものはすべて買ったのでこれから家に戻るところだ。
が、そこで見知った人物が歩いているのを見つけた。
声をかけようかと思ったのだが、言葉は出てこなかった。
見つけた雪愛は一人ではなく、同年代の男性と歩いていたからだ。
(雪愛先輩?)
雪愛が春陽以外の男性と歩いているということに驚く詩那だったが、それだけでなく雪愛の表情が険しくとても穏やかな雰囲気ではない。
直感的にただ事じゃないと詩那は感じた。
思い過ごしならばいい。
けれどそうでなかった場合———。
嫌な想像が頭を過り、詩那は頭を振ってそれを追い出すと、雪愛の後を追った。
そして雪愛と一緒にいる男性の二人が雑居ビルの地下に入っていくのを見たのだった。
近くに行くと、そこは今、空きテナントとなっているようで、詩那はそこでやはりおかしいと感じスマホを取り出しメッセージを送るのだった。
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