第90話 六年の歳月を経て再び二人は

 春陽は、もう一度髪留めに目を向ける。

 あのとき買ったものをこんなに大事にしてくれていた雪愛。

 大切な思い出だと言ってくれていた。

(俺にとってもあの一度きりの出会いは大切なものだったはずなのに……。今まで忘れたままだったなんて……)

 春陽の顔が切なげに歪む。

 あの僅か数時間の出会いは春陽にとっても大切なものだったのだ。

 あのとき出会った女の子、雪愛に、別れる前にもう一度笑顔になってほしくて、元気になってほしくて、自分にできることを必死に考えた。

 だから雪愛が興味を示した髪留めをプレゼントすることに迷いなんてなかった。

 それに雪愛が手に取ったそれは本当に雪愛によく似合うと春陽自身そう思ったから。

 でなければ、自分の持つお金のほぼすべてを使うなんてありえなかっただろう。

 最後にあの日一番の雪愛の笑顔を見ることができて春陽がどれほど嬉しかったことか。


 雪愛にあのときの『ハル』が自分だと伝えたら喜んでくれるだろうか。


 だがそこまで考え、もう一つの大事なことを思い出す。


(そうだ。雪愛と会っていただけじゃない、沙織さんとも俺は……)

 そう、沙織はすべてを知っているはずなのだ。

 あの日、カウンセリングで春陽はすべてを語ってしまっていた。

 雪愛の母親だとは知らずに、すべてを。

 実際、沙織のカウンセラーとしての力量は相当なもので、傾聴力も高く、初めて会う大人に警戒心も高かった春陽に話させたのは沙織だからできたと言える。


 ならば当然、これまでいつでも沙織は雪愛に話すことができたはずだ。

 それなのに何も言っていない、その事実を考えたとき理由はすぐにわかった気がした。

 春陽は雪愛にプレゼントをしたから、お金が足りなくなりご飯を食べられず階段から落ちた。

 この流れが問題なのだ。

 直接の原因はもちろん、春陽の食事を作らず、そんなぎりぎりのお金しか渡していなかった静香であることは間違いない。

 それに髪留めを買ったのは春陽の意志だ。

 雪愛に買ってほしいと言われた訳でもない。

 春陽はあのときの雪愛に何かをしたかっただけなのだ。

 だからその後に起こってしまったことも含め、後悔は全くない。


 けれど、雪愛がどう思うかは別だ。

 雪愛がこれらの流れを知ったら自分のせいでと思ってしまうかもしれない。

 自分は過去のことを雪愛に話してしまっている。

 階段から落ちたことだけでなく、それが原因で春陽の出生についても判明してしまい、両親が別居に至ったことまで。


 雪愛に責任なんて全くないのだが、もしかしたら雪愛は気にしてしまうのではないか。

 そう思えばすべてを話すなんて春陽にもできはしない。

 沙織がなぜ春陽のことを知っているのかという話になればすべて芋づる式に話さなければならなくなるかもしれない。

 きっとだから沙織は何も言わないのだろう。

 自分だって記憶が曖昧になっている時期のことも話してしまっているので、なぜ今になって思い出せたのかと雪愛が気になってしまえば、同じく芋づる式で話さなければいけなくなるかもしれない。

(でも……伝えたいな……)


「待たせちゃってごめんね、春陽くん」

「…………」

 春陽が考えているところに雪愛が戻ってきた。

「春陽くん?どうしたの?」

「っ、……雪愛。ごめん。何でもないよ」

 反応がない春陽に雪愛が訝しむが春陽はどうにか取り繕う。

「そう?」

「ああ。…これ見せてくれてありがとう」

 そう言って雪愛に髪留めの入った小箱を返す。

「うん……。どういたしまして」

 雪愛は春陽から小箱を受け取ると小さく笑み、元あった机の引き出しへと戻した。


「これからどうする?言ってた通り勉強するか?」

 考えがまだ纏まらない春陽は何をどこまで話していいのか結論を出せていなかった。

「そうだね。もうすぐテストだし勉強しようか」

 そうして小さなテーブルで二人は勉強を始める。

 思えば二人で勉強をするのは初めてだ。

 だが、春陽は勉強をしているように見えて頭の中では全く別のことを考えていた。

(折角思い出せたのに……)

 それはもちろん先ほどの続きだ。

 雪愛に伝えたい想いがどんどん強くなっていく。

 春陽にとってこの時間は沙織が伝えなかったことを自分が伝えてもいいと思えるような言い訳探しの時間と言っていいかもしれない。


 春陽が考えを巡らせているとふとベッドに並ぶぬいぐるみが目に入った。

「……あのぬいぐるみ達大事にしてくれてるんだな」

 考え事をしていた春陽は、目に入ったものに対して思わず言葉が出てしまったのだろう。

 赤ちゃんペンギンと黒猫に目が行っていた。

「ん?当たり前だよ。いつも一緒に寝てるんだよ。お気に入りなの」

 雪愛は春陽の視線を追い、何のことを言っているのかを理解する。

「そっか。ありがとう雪愛」

「ふふっ、春陽くんがくれたんだもん。お礼を言うのは私の方だよ?変な春陽くん」


 そんな会話を終え、再び視線をノートに戻す雪愛。

(雪愛とあのときの思い出を共有できるのに……)

 今日までの半年近くの思い出ももちろん大切だ。

 けれど自分と雪愛の間にあるのは、それだけではないのだと気づいてしまったから。


(全部を伝えるつもりはない……)

 気にかかるのは出会った後の流れだけ。

 ならばそこだけは誤魔化してあの日出会ったハルが自分だと言うだけなら何とかなるのではないか。

 幸い誰も当時の時系列は話していない。

 春陽は当時雪愛と会ったことを覚えていなかったが故に、麻理や沙織は敢えて雪愛のいうハルが春陽だと言わずにいたが故に。

 当然麻理や沙織のことは春陽にはわかりようがないことだが、沙織が繋がらないようにしていたことくらいは春陽にも予想できる。

 今のところ、雪愛は週五日の夕食を千円で済ますというのが子供の春陽には無理があり、お金が足りなくなったと思っているはずだ。


(ごめんなさい。白月先生……)

 心の中で当時の呼び名で沙織に謝る春陽。

 思い出としては古いものでも思い出したばかりで記憶としては新しいという不思議な状態が当時の春陽を呼び起こし春陽の心に影響を与えていた。

(あの日一緒に過ごしたのが俺だということだけは雪愛に伝えることを許してください……)

 雪愛の親である沙織が伝えなかったことだ。

 それを自分が伝えるというのはもしかしたら沙織の想いを踏みにじることかもしれない。

 一度目を瞑り、後で直接沙織に誠心誠意謝ろうと覚悟を決め、次に目を開いたとき、春陽は意志が固まったような引き締まった表情になった。


「……なあ雪愛。さっきの髪留めもう一度出してくれないか?」

「?どうしたのいきなり?」

「悪い。けど頼む。どうしても伝えたいことがあるんだ」

「それは別にいいんだけど……」

 雪愛はよくわからないといった様子で、それでも机の引き出しから髪留めの入った小箱を取り出し春陽に渡す。

「ごめん。さっきは自分でも驚いて言い出せなくて……。全部、とはいかないけど……、さっきこの髪留めを見て色々なことを思い出せたんだ」

「っ!?」

 雪愛は息を呑む。

 春陽の言葉の意味がにわかには理解できない。

 雪愛のその様子に、まあそうだよなと苦笑を浮かべると春陽はそっと箱を開け、髪留めを取り出す。

 もう春陽の手に震えはない。

「あの日、あの公園でたくさん話をしたよな」

 そしてそれを目の前に座る雪愛の髪にそっと付けた。

「えっ!?」

 春陽の言葉と突然の行動に驚きの声を上げる雪愛。

 春陽は髪留めを付けた雪愛を見つめ優しく微笑む。

よく似合ってる」

「はる、ひ、くん?」

 雪愛の目が徐々に大きくなっていく。

 目の前の人はいったい誰なのだろうか。

 今までの春陽と同じなのに何かが違う。

 でも今の言葉は。

 まさか――――!?

これを贈れてよかった」

「ぁ、あぁ……」

 雪愛の目に涙が溜まっていく。

 雪愛の中のハルと目の前の春陽が急速に重なっていく。

 本当に―――?

「大切にしてくれてありがとう、

 春陽は笑みを浮かべている。

 それは昔見たハルの笑顔と同じで―――。

「っ、……ハル、くん?」

 恐る恐る雪愛が呼ぶ。

 春陽が自分のことをゆーちゃん、と。

 自分の願望による幻聴か何かではないのか。

 そんな考えが頭を過る。

会えて本当によかった。ゆーちゃん」

「っ、ハルくん!」

 けれどもう一度昔の呼び名で呼ばれた雪愛は聞き間違いなどではないと確信をもつことができた。

 雪愛の目から涙が溢れる。

 と同時に雪愛は春陽の胸に飛び込んだ。


 四月。

 男達から助けてもらったあの日。

 ハルと名乗った春陽に子供の頃出会ったハルを重ねてしまったことが不思議だった。

 それから春陽を知っていくほどに、何度も重ねてしまっていた春陽とハル。

 その度に春陽に悪いと思ってきた。

 自分の思い違いだと、そんな偶然はありえないと、そう自分に言い聞かせてきた。

 それでも重なってしまう影に、勇気を振り絞って春陽に訊いた。

 一度だけでなく何度も。

 けれど春陽は本当に思い当たることがないようで。

 春陽は何も悪くないのに一人で勝手に寂しくなっていた。

 だから先日のデートのとき公園で話したのはこれで最後と覚悟してのことだった。

 その結果、過去の思い出は過去のものとして大切に胸に仕舞っておこうと決めた。


 それでも、春陽に髪留めを見せたとき、もしかしたらと期待しなかったと言えば嘘になる。

 でも春陽の反応は特になくて……。

 残念な気持ちはあったけれど、もう重ねることはしないと決めたから痛みはなかった。


 それなのに今、春陽の方から自分があのときのハルなのだと示してくれたのだ。

 奇跡だと思った。

 なぜ、どうしてと春陽が今記憶を取り戻したことを疑問に思う余裕なんてない。

 雪愛の感情が溢れる。

 それも当然だ。

 これまでどれほど雪愛の中で葛藤があったことか。

 春陽を強く強く抱きしめる。

 今の出来事が本当のことなのだと確かめるように。

 春陽くん、ハルくんと何度も春陽を呼ぶ。

 その度に春陽は返事をし、そんな雪愛の頭を優しく撫でる。

 その手の感触が雪愛の感情をさらに溢れさせる。


 しばらくの間、二人はそうして抱きしめ合っていた。


『またね、ゆーちゃん』

『またね、ハルくん!』

 最後に交わした言葉。

 親しくなった者が、別れ際に交わす次があることを疑わない、当たり前過ぎて約束とも言えないほどの普通の言葉。

 けれどそれは叶わず、六年の歳月が流れた。


 それが今この時、ようやく果たされたのだった。


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