第89話 忘れられていた記憶が蘇る
「春陽くん、ごめんね……」
「そんなに気にしなくて大丈夫だから」
雪愛のしょんぼりとした態度に春陽は苦笑を浮かべながら小さい子をあやすように頭をよしよしと撫でる。
「母さんがあんなに小さい頃の話ばっかりするから……」
「雪愛のことたくさん知れて俺は嬉しかったよ」
「うぅ……」
春陽の言葉に雪愛は抱きつき、おでこを春陽の胸に当てぐりぐりする。
嬉しいやら恥ずかしいやらでいっぱいいっぱいになってしまったようだ。
今、春陽と雪愛はイルカやペンギン、アザラシ、カワウソといった可愛いぬいぐるみがいくつも飾られた、全体的に可愛らしい印象の綺麗に整頓された部屋にいる。
そう、ここは雪愛の部屋だ。
春陽があげた赤ちゃんペンギンとアズキに似た黒猫のぬいぐるみはベッドにいた。
なぜこんなことになっているかというと、時は少し遡る。
文化祭が終わり、学校の雰囲気は一気に来週から始まる中間テストに向けて勉強モードになった。
本来なら休日であり折角バイトが休みの今日は家でテスト勉強でもしているべきなのだろうが、春陽は約束があるため、雪愛の家へと向かっている。
過ごしやすい気温でよく晴れており、天気はまさにお出かけ日和といった様子だ。
手には長方形の白い箱を持って気持ちよく歩いているように見えるのだが、少し緊張しているのかその表情は硬い。
今日は雪愛の家での初めてのお家デートだ。
一応、一緒に勉強をしようとも話していたので、肩にかけたカバンにはいくつかテスト勉強用にノートなどが入っている。
加えて、雪愛の母である沙織も家にいるということで、春陽の緊張も仕方がないかもしれない。
初めて顔を合わせる訳ではないが、今までは少し話した程度で、今日はしっかりと話すことになるのだろうから。
そんなに悪い印象を持たれてはいないと思いたいが、娘の彼氏に対してどんな想いを抱いているか本当のところまではわからない。
春陽がここまで後ろ向きに考えてしまうのも無理はないだろう。
今まで女子と付き合ったことのない春陽にとって彼女の親とまともに話すのも初めてなら、そんな相手が待っている家に行くのも初めてなのだから。
さらに、春陽にとって母親とは静香の印象が強烈過ぎてどうしても苦手意識がある。
悠介の家に行くようになって、本当の親というものを知ったが、春陽は他の例を知らない。
悠介の両親に初めて会ったときだって春陽は緊張していた。
そんなことを考えながら歩いていると、とうとう雪愛の家に到着した。
インターホンを鳴らすとすぐに雪愛が出た。
ちょっと待っててと言うのでその場に立っていると三十秒も経たず玄関扉が開いた。
「いらっしゃい、春陽くん」
どうぞ、上がってと言う雪愛に先導され家の中に入る春陽。
「お邪魔します」
そのままリビングに通されるとそこには沙織がいた。
「いらっしゃい春陽君。よく来てくれたわね」
春陽のことを笑顔で迎える沙織。
「お邪魔します、沙織さん」
春陽も沙織に挨拶を返す。
「あ、雪愛、これシフォンケーキなんだけど……」
そして、春陽は雪愛にケーキの入った白い箱を渡した。
一応有名な洋菓子店で買ったので不味いということはないはずだが、気後れして言葉を濁してしまう。
「そんな、よかったのに。ありがとう、春陽くん」
「あら、お気遣いありがとう春陽君。それなら今からお茶にして皆でいただきましょうか」
お礼を言って白い箱を受け取る雪愛に対し、沙織が両手を合わせて提案する。
しかし、沙織の提案に雪愛が待ったをかけた。
「ちょっと、母さん。なんでいきなり三人でなのよ。春陽くんは私の部屋に行くの」
「それは後でいいじゃない。さ、春陽君こっち座って」
沙織は雪愛の反論を適当に流し、春陽をテーブルに促す。
「あ、はい」
雪愛は沙織に文句を言いながらもケーキを持ってキッチンに向かう。
どうやらお茶の準備をするつもりのようだ。
春陽にもらった箱を開けると中にはチョコクリームがたっぷりの美味しそうなシフォンケーキが入っていた。
三等分にしても一人当たり十分な量だ。
次いで紅茶の準備をする。
そうして、ケーキと紅茶を三セット準備し終えた雪愛はリビングへと戻ってきた。
そこでは沙織が春陽と話していた。
沙織は実に楽しそうで、そんな沙織に春陽は押されている様子だ。
雪愛はそんな二人を見て沙織に苦言を呈する。
「母さん、ちょっとは手伝ってよ」
「あら?私がやってもよかったの?てっきり春陽君のお茶は雪愛が淹れたいんだと思ってたわ」
「っ!?……それはもちろんそうだけど……」
沙織の切り返しに雪愛の勢いが削がれる。
「でしょう?だから私が春陽君の話し相手をしてたんじゃない」
「そんなこと言って。春陽くん困ってるじゃない」
「困ってなんかないわよね?春陽君?」
「え、ええ。もちろん」
沙織のテンションが高くなってしまっているように感じるが、それも仕方がないかもしれない。
雪愛が初めて連れてきた男の子。
それも初めての彼氏だ。
それに春陽とこうして話せることも嬉しさに拍車をかけている。
以前に仕事で話したときは楽しい会話ではなかったのだから。
それからは雪愛が加わったこともあり、三人は平穏に楽しく、ケーキと紅茶を美味しくいただいた。
そしてどういう訳か、雪愛の子供の頃のアルバムを皆で見る流れになった。
そこには親子三人が仲良く写っているものもたくさんある。
そう、春陽は初めて雪愛の父親を見たのだった。
「お父さん、優しそうな人だな」
そう言って雪愛を見る春陽。
その表情はとても柔らかく、口元には笑みが浮かんでいる。
「うん。すごくね、優しかったんだよ」
春陽の言葉に雪愛も、そして沙織も嬉しそうだ。
そんな風に穏やかに進むかと思われたのだが、そこで沙織が雪愛の色々なエピソードを春陽に語って聞かせた。
最初は恥ずかしそうにしながらも笑っていた雪愛は段々恥ずかしさの方が強くなっていき、ついには春陽を連れて二階にある自分の部屋に逃げてきたのだった。
そして現在。
春陽は先ほど見たアルバムで一つ気になることを雪愛に訊いた。
「なあ、雪愛。アルバムの中で
「っ、覚えててくれたんだ?」
春陽からその件で話を振られるとは思っておらず、雪愛が驚きに目を大きくする。
「雪愛が話してくれたことだからな」
公園で雪愛が話してくれたことは今でもよく覚えている。
それは話の内容もそうだが、公園を出るときに一瞬頭に過ったものが強く印象に残っていたからだ。
『ゆーちゃん』
自分が誰かをそう呼んだ声。
先ほどアルバムを見ているとき、雪愛が子供の頃ゆーちゃんと呼ばれていたことを知った。
これはただの偶然なのだろうか。
それに、話を聴いただけでは自分の中で何も結びつくものがなかったのに、写真の中で髪留めをつけた雪愛を見たとき、なぜだか妙な既視感がして鼓動が速くなったのだ。
「ありがとう。……もうつけることはなくなったけど、今でもね、大切にとってあるよ」
そう言って雪愛は机の引き出しから小さな箱を取り出した。
そして春陽にその箱を渡す。
するとそこで一階から声がかけられた。
「雪愛ー。夕飯の準備はどこまでしておけばいいのー?」
「もうっ。私が全部作るって言ってるのに。ごめん春陽くん。ちょっと母さんと話してくるね」
そう言うと雪愛は部屋を出て、一階へと階段を下りて行った。
一人残された春陽は手にある箱を見つめる。
その箱を開けようとするのだが、なぜか手が震える。
なぜそうなるのか、自分の身体のことなのに意味がわからない。
震えを何とか抑え、箱を開けた春陽は、そこに入っていた髪留めを見て―――。
目を大きくして固まった。
箱の中には雪の結晶がついた可愛らしい髪留めが入っていた。
きっと使うときには大切に扱っていたのだろう。
何年も前に買ったものとは思えないほど綺麗な状態のまま。
『今日ゆーちゃんに会えた記念』
自分の声で発したそんな言葉が頭に過った。
そしてそれが始まりだった。
次々にまるで走馬灯のように当時の記憶が蘇る。
小五のある日、階段から落ちたこと。
病院に入院したこと。
そこでカウンセラーと話をしたこと。
そのときのカウンセラーの顔も名前も思い出したことで頭が真っ白になりかける。
春陽は思わず服の胸の当たりをぎゅっと握りしめる。
何より、なぜ階段から落ちるなんてことになったのか。
それは前日からお金がなくて食事ができなかったからだ。
夕食を食べることができず、空腹のまま学校に行き、給食の時間までもたず、階段を下りているところでめまいがして堪えきれずにそのまま落ちてしまった。
静香から毎週千円を渡されていた当時。
春陽は上手く一週間分の食費としてやり繰りしていた。
だから普通なら食べられなくなるなんてことはない。
けれどあの日、そのお金を別のことに使ったのだ。
当時の自分にとっては二日分の食費に近い金額を。
では何にお金を使ったのか。
それが、この髪留めだ。
あの日、自分は雪愛に会っていた。
三人の男の子に囲まれている雪愛を見て、イジメだと思った自分はそこに割って入り、彼らを追い払った後、泣いてしまった彼女に寄り添った。
そして雪愛から色々な話を聴いた。
(イジメで泣いていたんじゃなかったことに最初は驚いたんだっけ……)
あの頃の自分は雪愛の話を聴きながら、雪愛は大切な家族を失って悲しんでいるのだから不謹慎だと思いながらも、そこまで大切に想える家族がいることを羨ましく思っていたと思う。
自分とのあまりの違いに胸がずきりと痛んだことまで思い出してしまった。
そうは言っても古い記憶だ。
雪愛ももうあまり覚えていないと言っていたが、春陽も全部を思い出せた訳じゃない。
それでもすべてを忘れてしまっていた自分にとっては、これだけ思い出せたことはとても大きい。
帰り道、小さな雑貨屋で足を止め、雪愛が一つの髪留めを手に取り目を輝かせた。
寂しそうな雪愛にちょっとでも元気になってほしくて、春陽はそれを買ってプレゼントしたのだ。
あのときの自分にとって、自分の食費なんかよりも大事なことだと本気で思ったから。
(俺は雪愛に会っていたんだ……)
こうして雪愛の言っていた『ハル』は自分のことだったと春陽は知った。
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