第54話 彼女の心音が心地いい

「もう過去のことだから。そんなに泣かないでくれ」

 春陽はそっと雪愛の頭に手をやり、優しく撫でる。

 雪愛はそんな春陽の手を大人しく受け入れた。

 春陽に撫でられることで気持ちが落ち着いてくる。


 雪愛は、春陽が静香に弁当を作ってもらったことはないと言うのを聞いて、球技大会の日に春陽とお弁当を食べたときのことを思い出した。

『こんな美味い弁当初めて食べた』

 嬉しくて覚えていた言葉だが、本当に初めてのお弁当だったのか、と胸が苦しくなったのだ。


 思わず、頭を撫でられながら、春陽にそのことを聞くと、春陽は苦笑を浮かべて、覚えている限りでは人の作った弁当を食べたのは初めてだったと肯定した。

 麻理の家では気を遣って、基本的には買って済ませて、そうでなくても自分で簡単に作っていたらしい。


 どれくらいそうしていただろうか。

「ごめんね……。もう大丈夫」

 目は赤く今にも涙が零れてきそうだ。

「……やっぱりもうやめておくか?」

 そんな雪愛の様子に再び問いかける春陽。

「ううん、最後まで聞かせて?」

 雪愛は強い意志の籠もった瞳で春陽に言葉を返す。

「……わかった」

 そうして、再び春陽は話し始めた。



 美優にも嫌われていたとわかった春陽は、家にいたくないと思うようになった。

 夕食を外で済ませるように言われたのはむしろよかったとすら思った。

 けれど、昼に学校で給食を食べているとはいえ、一週間、平日五日分で千円というのは無理があったのだろう。

 春陽はある金曜日の午前中、空腹から目眩を起こし、学校の階段から落ちて頭から血を流し意識を失ってしまった。

 病院に運び込まれたとき、春陽が持っていたお金は百円もなかった。

 この時のことを、というよりその週のことを春陽はあまり覚えていない。

 階段から落ちたことも、そう聞いたというだけだ。

 それでも、看護師や翌日カウンセラーと話したときは断片的に少しは覚えていたと思うのだが、それすら自信がない。

 話をした看護師やカウンセラーの顔を見たはずなのに、寝て起きたらわからなくなっていたくらいだから。

 医師からは頭を強く打ったことが原因だろうと言われた。

 そのうち落ち着くはずだから、と。

 確かに退院する頃にはその症状は落ち着いた。


 そんな状態だったにもかかわらず、一つだけ今でもはっきり覚えていることがある。

 それだけ衝撃が大きかったからだろう。

 階段から落ちた日、病院のベッドで目を覚ますと、直哉がいた。

 直哉と目が合い、春陽は感じたのだ。

 ああ、この人もそうだったのか、と。

 直哉の目は春陽のよく知るものだった。

 静香やこの間美優に向けられたものと同じ。

 それは憎しみの籠もった目だった。

「俺は滑稽だな。これまで気づかずいたなんて。春陽、お前のせいで、俺は、家族は滅茶苦茶だ」

 直哉の言葉で、春陽は自分が家族全員から嫌われていたことを知った。

 春陽の中で、罅だらけの辛うじて形を保っていたガラス玉のように、すでにボロボロだった何かが完全に壊れた瞬間だった。

 そしてこれが直哉と会った最後の日になった。


 医師からはしばらく入院すると言われていたが、意外と早く退院することになり、それっきり病院に行くことはなかった。

 静香に連れられ、家に帰ると直哉と美優がいなかった。

 そして、春陽に何の説明もないまま、春陽も静香と一緒に家を出て、アパートに引っ越すこととなった。


 ミニバスは、もう直哉がいないのだからとすでに辞めさせられていた。

 高学年になり、レギュラーにもなっていた春陽だが、静香の決定には従うしかなかった。

 ただ辞めることになったと言うだけで、その理由は誰にも何も説明できず、一緒にミニバスをやっていた友人達とも気まずい感じになり、疎遠になっていった。

 それなりに大きくなり、自分の家族関係が異常だということも、自分が育児放棄ぎみな扱いを受けていることも春陽にはわかっていた。

 だが、それが理由だとして誰にそんなこと言えるだろうか。

 そんなこと誰にも言える訳がない。

 友人と言ってもただの他人だ。

 内心では何を考えているかわかったものではないのだから。

 自分をイジメの標的にする理由にだってなり得る。

 このとき、友人なり、学校の先生なりに相談でもしていれば、何かが変わっていたのかもしれない。

 けれど、春陽はもう誰のことも信じられなくなっていた。


 食事も変わらず、一週間に一度、二千円を渡されるだけだった。

 今度は平日だけではなく毎日のためか、それとも倒れたことが関係しているのか、渡されるお金は二千円に増えた。

 また倒れる訳にはいかない。

 今度は気をつけて使わなければ、と春陽は思った。

 だが、嫌なことばかりではなかった。

 今までと違い、静香が春陽に何も言わなくなったのだ。

 無視するようになった、と言った方が正しいかもしれない。

 洗濯もわざわざ春陽のものを避けて自分のものだけする、という徹底ぶりで、春陽はこの頃から自分で洗濯するようになった。


 そうした日々が一年ほど続き、春陽は小学六年生になり、学校は夏休みになった。

 そんな時だ。

 その日、静香の機嫌が過去最高に悪かった。

 それは直哉との離婚が成立した日だった。

「あんたのせいで!あんたのせいで離婚しなきゃいけなくなった!直哉さんの子供でもないくせに!あんたが生まれてきたせいで私の人生滅茶苦茶じゃない!」

 この時、春陽は初めて自分の父親が直哉ではないということを知った。

 初めから、自分はあの家族の中で異物だったのだと知った。


 散々春陽に当たり散らし、静香は家を出て行った。

 春陽にお金を渡すことも無く。

 家に食料は無く、残っているお金も僅か。

 春陽はすぐに衰弱していった。

 何日経ったのか、家でなるべく動かないように過ごしていた春陽だったが、ついに限界を迎え、意識が朦朧としてきていた。

 そのとき、霞む目で、誰か―――入ってこれる人間など静香しかいない、が部屋に入ってきて、誰かと電話で話していたように見えた気がしたが、そこで春陽の意識はぷつりと途切れた。


 そして、次に目覚めたとき、春陽は病院のベッドで寝ていた。

 もう少し病院に来るのが遅かったら危なかったらしい。

 そこからは怒涛の展開だった。

 春陽の病室には当時見知らぬ人である麻理がいた。

 麻理は、なぜか春陽のこれまでのことの多くを知っていた。

 そこまで知られている相手に誤魔化しても仕方がないと春陽は麻理に聞かれれば素直に答えた。

 静香は一度も病室に現れなかった。

 当然だなと妙な納得をする。

 もう春陽にとってはすべてがどうでもよく感じていた。

 実際、以降静香とは一度も会っていない。


 入院中は麻理が毎日来て、色々な話をした。

 そんな中で麻理が言ったのだ。

「退院したら、家で一緒に暮らしましょう?」

「……わかりました。……もう、何でもいいです」

 何の冗談だと思ったが、静香が現れない以上あのアパートに帰れる保証はない。

 直哉のところは論外だ。

 春陽には最初から何の選択肢もなかった。


 そして、本当に退院後は、麻理の家で暮らすことになった。

 どうしてそうなったのか春陽には未だにわからない。

 自分から麻理に聞くこともしなかったから。

 春陽は自分が聞くことで何かがおかしくなることを漠然と恐れていたのだ。


 麻理と貴広との生活は驚くほど穏やかなものだった。

 だが、それも長くは続かなかった。

 貴広が病気になってしまったからだ。


「雪愛も知っての通り、中学で入ったバスケ部でも問題があって、バスケ部を辞めた後、貴広さんが亡くなって……。貴広さんが病気になったのも、亡くなったのも全部自分のせいなんじゃないかって思いが拭えなくてさ。何せ、俺の存在が一度家族を壊してるから。麻理さんに申し訳なくて、あの家にはもう居られないって思って、俺は高校に入るタイミングで一人暮らしを始めたんだ。」

「…………」

 雪愛は再び、嗚咽を堪えながら黙って涙を流していた。


「これで、俺の話は全部だ。聞いてくれてありがとう雪愛」

「……こっちこそ、だよ。話してくれてありがとう春陽くん」


「美優との関係はそんな感じで、二人で話をしたときも、嫌われてるのは変わりなかったけど、話したことは離れた後のこととか最近のこととかって感じで本当に大したことなかったんだ」

 春陽は雪愛の目を見て、小さく笑みを浮かべていた。

 だから大丈夫だと伝えるように。

 そんな春陽を見てしまえば、もう雪愛は我慢することができなかった。

 雪愛は膝立ちになると、春陽の頭を自分の胸元に強く抱き寄せ、優しく春陽の頭を撫で続けた。

 話を聴いているときからずっと春陽を抱きしめたかったのだ。

 春陽は気づいていただろうか。

 話しながら肩や手に力が入っていたことを。

 表情が苦しそうだったり、諦めたような苦い笑みを浮かべていたりしていたことを。

 そんな春陽に大丈夫だよ、頑張ったね、……どれもかける言葉としてしっくりこなかかった。

 でも何かしたい。

 だから――――。

 一方、突然の雪愛の行動に驚いたのは春陽だ。

 顔が雪愛の胸元に埋まってしまい、一瞬息ができなくなる。

 だが、頭を撫でられている感触が気持ちよく、すぐに落ち着くと顔の角度を変えて、呼吸ができるようにし、雪愛の腰に腕を回し、雪愛にされるがままじっとしていた。

 押し付けられた右耳から聴こえる雪愛の心臓の音が心地よかった。


 どれほどそうしていただろうか。

 徐に、顔を赤くした春陽が、雪愛を見上げるようにして言った。

「胸、思いっきり当たってるぞ?」

 それは、今更自分たちの状況を認識してしまい、照れた春陽がそろそろ離れようという意味で言った、照れ隠しが多分に含まれた言葉だった。

 だが、このときの雪愛は強かった。

 春陽と目を合わせ、

「当ててるんだよ。心臓の音を聴くと癒されるっていうでしょ?」

 柔らかな笑顔でそんなことを言った。

 だが、こちらも指摘されて照れてはいるのか頬が赤くなっている。

 そんな返しをされるとは思わなかった春陽は目を大きくし、次に苦笑を浮かべ、

「……そうだな。ありがとう雪愛」

 春陽は再び雪愛の胸に耳が当たるように頭を戻した。

 自分の過去、それもいいことなんて何もない過去を思い出しながら話すことは、たとえ割り切っていることだとしても、やはり春陽の心に相応の負担がかかっていたようだ。

 雪愛の心音を心地よく感じて身体から変な力が抜けていた自分を自覚したからこその苦笑だった。

 雪愛も再び春陽の頭を撫で始めた。


 すぐに二人とも照れは無くなっていき、二人の間に、静かで穏やかな時間が流れるのだった。

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