第53話 涙が止まらない

 その翌日から春陽の皿に盛られる食事は昨日までより明らかに少なくなった。

 美優がそのことに気づき、静香に言うと、静香は、春陽があまり食べたくないって言うから、と答えていた。

 静香は、春陽の目の前で平然と嘘を吐いたのだ。

 この時かもしれない。

 春陽が静香にずっと言われてきた言葉の意味を理解したのは。

 本当のことなんて関係ない。

 静香の言う言葉がここでは真実になるんだ、と。

 そしてそれに反論することは春陽に許されていない。

 もしもしようものならまた怖い静香と二人きりで延々と言葉をぶつけられることはわかっている。

 美優がいないときはリビングで、美優が習い事からいつ帰ってくるかわからないというときは春陽の部屋で、美優のいる前では、歪な笑みを浮かべて「春陽、ちょっとお話しましょう」と言って春陽の部屋に連れていかれて、それは行われた。

 そうなると毎回何十分も続くのだ。

 春陽に反論する気は起きなかった。


 春陽が小学生になると、静香は約束事を増やした。

「いい?美優の邪魔は絶対にしないこと。美優はあんたとは違うの。あんたは外にでも行ってなさい。それと美優が気にするといけないから夕食の時間には間に合うように帰ってきなさい。わかった?」


 それから春陽は、なるべく外で過ごすようになった。

 美優はずっと春陽に優しく、そんな美優の邪魔は春陽もしたくはなかったからだ。

 けれど、この頃から美優と一緒にいることが少なくなってしまったことは春陽にとって寂しいことだった。


 低学年の時は、友達がいてもいなくても公園に行って、日が暮れるまで時間を過ごした。

 友達と遊んでいるときは時間が経つのが早く、一人のときはそれなりにきつかったが、段々と慣れていった。

 小学校からはテストがあるが、最初のテストが返ってきたときに、春陽が静香に見せると、春陽の点数に興味のない静香から見せる必要はないと言われた。


 小学二年生のとき。

 学校の宿題で自分の名前の由来を調べる、という宿題が出た。

 家でその話をすると、美優のときにもあったらしい。

 美優の方が静香に聞きたがったが、そのときは笑って後でね、と言って答えなかった。

 美優がお風呂に入っている間に返ってきた答えは、

「あんたが生まれたのが春で、その日がたまたま晴れてたから、それだけよ」

 というものだった。

 この、最後の『それだけ』という言葉に幼い春陽は傷ついていたが、涙が出そうになるのを必死に堪え、わかったと素直に頷き、宿題には、『春の晴れた日に生まれたから』とだけ書いた。


 小学三年生のとき。

 当時、春陽の周りではバスケが流行っていて、放課後は皆でバスケットコートのある公園でバスケをしていた。

 バスケをしている時間は春陽にとってとても楽しいものだった。

 すると、皆でミニバスのチームに入ろうという話が出た。

 皆乗り気で、早速親にお願いしてみると言う。

 この頃になれば、さすがに春陽にもそれが静香に許されない行為だということはわかっていた。

 でも、皆でミニバスチームに入るという誘惑には勝てなかった。


 春陽は自分なりに考え、直哉がいるときに話をしてみることにした。

 自分が起きているときにはほとんど家にいない直哉はあまり話したことはないが、だからこそ静香のように怖いと思うこともなく、良く言えば、フラットな相手だった。

 父親がフラットな相手というのも異常な話なのだが。


 春陽の作戦は成功することになる。

 直哉はやりたいことをやればいいと許可してくれたのだ。

 だが、春陽はそのときの静香を見てしまい、思わず身体をビクッとさせた。

 静香は恐ろしい形相で春陽を見つめており、その目と合ってしまったのだ。


「あんた何直哉さんに我が儘言ってるの?あんたがそんなこと言っていい訳ないでしょ!?」

「……ごめんなさい。でもどうしても皆とバスケしたくて……」

「でも?口答えするなっていつも言ってるでしょ!あんたにそんな権利はないの。しかも寄りにもよってバスケって、ふざけてるの?本当なんであんたみたいなのが生まれてくるの。あんたさえ生まれてこなきゃ私がこんな思いすることもなかったのに!」

 静香にしてみれば、直哉が苦手なスポーツなんて以ての外だった。

「っ、……ごめんなさい…」


 それでも直哉が認めたということで、無事ミニバスチームに入ることができた。

 元々才能があったのか、春陽はどんどんその実力を高めていった。

 そうなれば当然バスケが楽しくなる。

 家でのことを忘れるように春陽はバスケに熱中していった。


 そんなある日だ。

 何もしていないはずなのに、春陽は静香に呼び出された。

 それだけで春陽は身体が強張ってしまう。

「あんた、明日は朝から出かけなさい。午前中だけでいいから。後は好きにして」

 明日は休日だ。

 元より外に行こうと思っていた春陽は素直に頷いた。

 ただ、午前中だけでいいという言い方が引っかかり春陽は尋ねてしまった。

「あの、午前中だけっていうのは……?」

「明日は直哉さんが誘ってくれて、出かけるの。わかる?あんたが一緒だと迷惑なの。だから朝からあんたはいなくなってて」

 静香は本当に楽しみにしているようで笑みを浮かべている。

 そのあんまりな言い様に、春陽は絶句してしまった。

 胸の辺りがズキズキと痛い。

 だが、黙っているとまた怒られる。

「……はい」

 春陽は返事をするのが精一杯だった。


 それでも日々は過ぎていき、春陽が小学五年生になったある日のこと。

 その日は静香の帰りが遅く美優と二人での夕食となった。

 静香の帰りが遅いことはよくあり、そんな日は夕食を事前に準備してくれているため、二人とも特に気にしていない。

 その日はカレーだったのだが、美優が春陽におかわりを勧めてきたのだ。

 以前のことから、出された食事以外は食べないようにしてきた春陽は、断ろうとしたのだが、そこで春陽のお腹が鳴ってしまい、美優は半ば強引に春陽の皿にもカレーをよそった。

 バスケで激しく動いているということもあり、もっと食べたいのは事実のため、春陽は美優にお礼を言って、そのカレーを食べてしまった。


 けれど、静香が帰ってきたときに、美優が二人でカレーをおかわりしたことを静香に言ってしまったのだ。

 美優に、いいのよと笑って言う静香の顔がとても恐ろしいものに春陽には見えた。

 その日、当然のように静香に叱られた。

「誰がおかわりなんてしていいって言ったの?」

「お姉ちゃんが一緒に食べようって……」

「美優のせいにする気!?あんたが断ればいいだけでしょ。あれはの二日分にと思って作ったものなの。あんたにおかわりさせるために作ったものじゃないの。わかる?あんたが食べていいものじゃないの。いつもの食事だってあんたのために作ってるわけじゃない。美優と直哉さんのために作ってるの」

「ごめんなさい……」

 そこからもいつものように長々と春陽に対する静香の言葉の暴力は続いた。

 そして、散々言った後、静香はいいことを思いついたとでもいうように言った。

「ああ、そうだ。そうしましょう。あんた、明日から食事も外で済ませなさい。遠足のときとかで外で買うのは慣れてるでしょ?あれと一緒よ。お金は渡してあげるから。休日だけは家でご飯を食べることを許してあげる」

 春陽は遠足や運動会など弁当が必要なときに、静香に弁当を作ってもらったことは一度もない。

 いつも菓子パンやおにぎりだった。

 それも小学校に上がってからは春陽が自分で買いに行っていた。

「……はい」

 春陽の返事を聞いて満足したのか、静香はちょっと待ってなさいと言って財布を取りに行き、千円札を春陽に渡した。

「一週間分よ。大事に使いなさい」


 こうして、春陽は平日に家で夕食を食べることもなくなった。

 ますます美優と関わる機会が減っていくことに春陽は寂しさを感じたが、静香の言う通りにするしかなかった。


 外で食事をする日々が続いたある日、家に帰ると静香は居らず、美優だけがいた。

 そこで、美優から怒りをぶつけられた。

 それはずっとずっと美優が溜め込んでいた春陽に対する怒りだった。

 春陽には美優が言うことの半分以上意味がわからなかったし驚いたが、これだけはわかった。

「お姉ちゃんだなんて呼ばないで!」

「あんたなんてどっか消えてよ!いなくなってよ!あんたの顔なんて二度と見たくない!」

「あんたなんて生まれてこなきゃよかったのよ!」

 それは、自分が美優に嫌われていたんだということ。

 言われた言葉は静香と同じ内容で、それを美優から言われたということに、春陽の心はズタズタになった。

 美優に投げつけられたリモコンが当たったおでこよりも心が痛かった。

 美優は自分にとってこの家で唯一の味方だと思っていた。

 でもそれは違った。

 静香と同じだったのだ。

 美優にとっても春陽は邪魔な存在だった。

 自分は誰にとっても生まれてきてはいけない人間だったんだ。


 おでこから血が出ていると学校などで他の人に知られてしまう。

 それではまた美優や静香に迷惑をかけ叱られてしまう。

 血が出ていないことに春陽は一人安堵した。

 春陽は静香にするのと同じように、ごめんなさいと謝ることしかできなかった。



「だから、それから俺はあの人を美優さんと呼ぶようになった。母親あの女に対するのと同じように、なるべく怒りをぶつけられないよう避けるようにした。そんな風だったから、突然再会したときは正直かなり動揺しちゃってさ。雪愛にも心配かけちまった。ごめんな?」

「…………」

 雪愛は必死に首を横に振っている。

 目からは涙が止め処なく溢れている。

 

 雪愛は春陽が話し始めてから気づけば涙が止まらなかった。

 だが、声は出さない。

 春陽の声が聴こえなくなってしまうから。

 雪愛は黙ったまま、静かに涙を流していた。

 最初にその涙に気づいたとき、春陽は目を大きくし、すぐにその顔には苦笑が浮かんだ。

 やっぱりこうなってしまったか、と思ったのかもしれない。

 そして春陽からティッシュを渡され、頭をポンポンされ、もうやめようか?と言われたが、雪愛は涙を流しながら首を横に振って、春陽の話を聴こうとした。

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