第52話 風邪は人に移すと治るというのは迷信です

 春陽は雪愛の言葉に目を大きくした。

 そんな風に切り返されるとは思っていなかったのだ。

「……俺、顔色悪かったか?」

 突然の再会に、体調が悪いことも重なって、目眩がしてふらついたのだ。

 顔色も悪かったかもしれない。

 それは春陽にも当然わかっている。

 だが、そう返すのがやっとだった。

「……うん。それに様子も何だかおかしかった、と思う」

「そうか……」

「……美優さんとの間に何かあった?」

 春陽はそこで俯き黙ってしまった。

 そんな春陽を見て、雪愛は自分で言った言葉に罪悪感を覚える。

「ごめんなさい。不躾なこと聞いて」

「いや、雪愛は何も悪くない。俺が……」

「ううん、春陽くん今体調も悪いのに、本当にごめんなさい」

「雪愛……」

「そうだ!ねえ、春陽くん、明日もお見舞いに来てもいいかな?やっぱりまだ心配で」

 空気を変えるように雪愛が明るく言う。

「え?…それは、もちろん。雪愛さえ良ければ」

「よかった。じゃあ明日も来るね。私、食器片付けてくるから春陽くんは寝てて?まだまだ熱はあるんだから」

「あ、ああ。ありがとう」


 春陽は言われた通り、ベッドに横になり、右腕を目元に置いて考えていた。

 先ほどスマホのメッセージを確認したら悠介と雪愛からのものだった。

 二人とも春陽の様子がおかしいことに気づいていて、春陽を心配している内容だった。

 悠介に至っては、美優が春陽の姉だということも気づいていたようだ。

 雪愛はかなり気にしていたらしく、雪愛にもそれは伝えたらしい。

 突然の再会にかなり動揺してしまっていた自覚はある。

 そんな姿を見れば、気になるのも当然だろう。

 ということは、雪愛も美優が春陽の姉だと昨日の段階で知っていたということだ。

 さっき、美優が自分の姉だと言ったとき、雪愛に驚きも何もなかったのも頷ける。


 別に隠す必要はないし、隠そうとしていた訳でもない。

 隠して雪愛に余計な心配をかける方が余程悪い。


 けれど、雪愛の様子からそれ以上のことは悠介も言っていないようだ。


 自分の過去を雪愛に話すことには抵抗がある。

 全く面白い話ではないからだ。

 春陽に不幸自慢をする趣味はない。

 けれど、雪愛は春陽の態度から何かを感じ取っている。

 そしてそれを聞こうとしていた。

 知りたがっていた。

 なのに、雪愛が急に話を変えたのは自分が原因だ。

 自分の態度が雪愛にそうさせてしまった。

(なら、俺は――――)


「春陽くん、洗い物も終わったし、私そろそろ帰るね」

 雪愛は春陽に近づきながらそう声をかけた。

 春陽は目元に置いていた腕を下げ、雪愛を見る。

「ああ、何から何まで本当にありがとう。来てくれてすごく嬉しかった。あと、メッセージさっき見た。昨日から見れてなくてごめん」

「ううん。春陽くん風邪引いてたんだからそんなこと気にしないで。それに私も今日は来れてよかった。……彼氏春陽くんの看病をするのは彼女の特権だもん。だから、この後もゆっくり休んでね?」

 そう言って、春陽の枕元にしゃがんだ雪愛は、ゆっくりと顔を近づけ、春陽にキスをした。

 雪愛の予想外の行動と唇の柔らかな感触に目を大きくする春陽。

「風邪、移っても知らないぞ?」

「ふふっ、風邪は人に移すと治るっていうじゃない?だから―――」

 雪愛はそう言うと、再び春陽にキスをした。

(春陽くんが早くなりますように)

 雪愛の想いが唇から伝わってくるようだった。


 お互いしばらく見つめ合い、雪愛がこのままじゃずっと居続けてしまう、そろそろ帰ろうと立ち上がりかけたところで、雪愛の腕を春陽が掴んだ。

「雪愛。明日、雪愛が来てくれた時に、聞いてほしい話があるんだ。俺の昔のこと、家族のこと……全く面白くもないし聞いてて不快になるかもしれないけど」

 美優との話をするには、家族の話なしには説明できない。

 ならばと、春陽はすべてを隠さず雪愛に話す覚悟を決めた。

「っ、いいの……?」

 春陽が自分のことを話そうとしてくれている。

 それは雪愛にとってすごく嬉しい。

 けれど、予想はしていたが、いい話ではないという春陽の言葉に雪愛の胸はズキリと痛んだ。

「ああ。雪愛にこれ以上心配かけたくないし、そんな話でも雪愛が聞いてもいいと思ってくれるなら」

「聞きたい…。知りたいよ、春陽くんのこと。どんなことでも、私はもっと春陽くんのことを知りたい!」

「ありがとう。それじゃあ、明日な」

「お礼を言うのはこっちの方だよ。うん、明日ね」

 そこで、春陽は雪愛の腕を掴んだまま、体を起こした。

「移ったらごめん……」

 雪愛の腕を離し、その手を雪愛の頬にやると、囁くようにそう言い、春陽はそっと雪愛にキスをした。

 自分の想いが少しでも雪愛に伝わればいいと思いながら。



 翌日。

 春陽は目を覚ますと、体を起こし、ぐっと伸びをした。

 昨日よりもさらに身体は楽になっていた。

 熱を測れば三十七・二度ともう微熱といっていい体温だった。


 昨日、雪愛が帰った後、春陽は悠介に心配をかけたお詫びとお見舞いのお礼のメッセージを送った。

 悠介からは気にするなという内容が返ってきた。

 その後、シャワーを浴びて、雪愛の作ってくれたスープを飲み、薬を飲んで早い時間に眠った。

 雪愛の作ってくれたスープは、優しい味をした、たっぷりの野菜がよく煮込まれたものですごく美味しかった。


 今日も雪愛が来る。

 そして色々な話をすることになるだろう。

 きっとそれなりに時間もかかる。

 そう考えたときに、この家には水以外の飲み物がないことに思い至った。

 そういえば、昨日も雪愛に、それと悠介にも何も出せていなかったと春陽は頭を抱えた。


 春陽はベッドから立ち上がり、身支度を済ませると、近くのコンビニに飲み物とお菓子を買いに行くのだった。


 雪愛は、今日も念のため、麻理に合鍵を借りてから、春陽の家に向かった。

 だが、今日はチャイムを鳴らすと、すぐに春陽が開けてくれた。

「おはよう、雪愛」

「おはよう、春陽くん。大分良くなったみたいだね」

 顔色がいい春陽を見て雪愛は笑みを浮かべた。



「スープめちゃくちゃ美味しかったよ。おかげで熱も下がった。ありがとう雪愛」

「よかったぁ。どういたしまして」

 雪愛の言葉は、熱が下がったこと、スープを褒めてもらえたこと両方に対してのものだ。

 本当に嬉しそうに笑っており、声が弾んでいる。


 しばらく他愛のない話を続ける春陽と雪愛。

 飲み物とチョコレート菓子を春陽が出したら、コンビニに行ったことを雪愛に咎められる、という場面もあった。


 会話が一旦途切れ、少しの間静寂が訪れる。

 これから春陽が自分のことを話してくれる、雪愛はそれを感じ取った。

「……あの人が俺の姉だって話は昨日したよな」

「うん」

「あの人は昔から俺を憎んでたんだ。いや、あの人だけじゃなくて家族全員から俺は憎まれてた……」

「っ!?」

 雪愛は息を呑んだ。

 家族全員から憎まれる、そんなことどうしたら起きるというのか。

 春陽はそんな雪愛の様子に苦笑を浮かべる。

 そして、春陽はゆっくりと話し始めた。


 春陽が物心ついた頃には、静香から毎日のように冷たい目で言われていたことがある。

「いい?あんたは生まれてきちゃいけない子だったの。そんなあんたは私の言う通りにしなきゃいけない。私がいいということ以外何もしないように。私が言うことに、でもとかだってとか言い返すことも許さないから。わかった?」

 はい、以外の返事は許されないと幼いながらに春陽は理解した。

 おそらくは、もっと小さな頃から言われ続けていたのだろう。

 静香の言い分を受け入れている自分がいた。

 自分は生まれてきてはいけなかったんだ、と。

 この頃には春陽は静香が苦手、いや怖かった。


 だからだろうか、春陽は大のお姉ちゃん子だった。

 美優は春陽にあんな冷たい目を向けない。

 美優は春陽に優しい言葉をかけてくれる。

 美優は春陽と一緒にいてくれる。


 だが、小さな春陽には静香の言葉をまだまだ理解しきれていなかった。

 五歳の時、白猫を拾って家に帰った時の静香の表情は今でも覚えている。

 鬼の形相とはあのことを言うのだろう。

 その時も美優が助けてくれた。

 静香が自分には決して向けない笑顔を美優には向けているということは子供心にわかっていた。

 それを春陽は、なぜか羨ましいと思ったことはない。

 ただ、そんな美優だからこそ、春陽は一縷の希望を抱いた。

 そして本当に美優が間に入ったことで、白猫、ダイフクを家で飼うことが許された。


 しかし、それで終わった訳ではない。

 春陽はその日、静香から両肩を掴まれ、至近距離から言われた。

 手には力が籠められており、静香の怒りをひしひしと感じた。

 肩の痛みに思わず春陽は顔を顰めるが、静香は気にしない。

「あんた、何やってんの?あんたには私が許したこと以外するなって言ってるでしょ?それなのに何猫なんか拾ってきてるの?」

 静かな低い声で静香は言う。

「……捨てられてて可哀想だったから…」

「こっちはあんたを捨てたいくらいなの。わかる?余計なことするんじゃないの。あの猫は美優が飼いたいって言ったから飼うだけ。あんたの望みが叶っただなんて思わないで」

「っ……ごめんなさい」


 その日の静香の怒りは凄まじく、春陽は静香がより怖くなり、代わりに、そんな静香からも自分を庇ってくれる美優により懐いていった。


 ある日のこと、美優の希望で夕食のおかずが唐揚げの時だった。

 それぞれ、個人の皿に盛られた唐揚げは美優が五個、静香が四個、春陽が二個だった。

 自分の分を食べていると、美優が春陽に言ったのだ。

「春陽、まだ食べられる?」

「え?うん、食べれるけど…」

「それなら私の分ちょっと多いから春陽に一個あげるね」

「いいの?」

「もちろん」

 そうして、春陽は美優から唐揚げを一つ貰った。

 静香の目の前でされたこのやり取りも静香には許せないことだったようだ。


「あんたのために作った訳じゃないの。美優のために作った唐揚げなの。わかる?それなのになんであんたが美優からそれを貰ってるの?意地汚い。あんたは食べさせてもらえるだけありがたく思いなさい」


 静香から叱られるのはこれで何度目かもわからない。

 春陽はただ、謝るだけだった。

 静香が春陽に言葉をぶつけるだけぶつければこの怖い二人きりの状況も終わる。

 こうなった時、春陽はいつも早く終わってほしいと心の中で願っていた。

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