第32話


寝不足のまま、仕事へ行く。


沙耶は、すべてを吐きだせたのだろうか。


二十年間の、溜まりに溜まったものをぶちまけて、心は救われたのだろうか。傷ついた心は癒えていないはずだ。


だが、それでもあゆみの言っていた「次の段階」に進めるのだろうか。


不安に思った。そもそも次の段階ってなんだろう。家を出るとき、沙耶はクローゼットの中に入ったまま出てこなかった。


「お客がまた減りましたね。フェアは、もう一週間もないんですけど」


朝岡がレジ横で言った。


「そうだな」

「沙耶さん戻って来たんですね」


客が来ないことで悟ったのだろう。


「ああ。あゆみと同じように、苦しかった気持ちを吐きだしてくれたよ。一晩付き合って俺は寝不足なんだが……」


「今晩、福田さんの家に行きますよ」


いつになく強い声だ。


「え? なぜ」


「仏様が俺にアクセスしてきました。岡本さんも呼んでください」


恭介は思わす朝岡の顔を見た。


「お前、霊だけではなく神仏も見えたのか」


確か、水子供養の時に寺で地蔵菩薩の声を聞こうとしていたが。


「神仏なんて見たことありませんよ。お告げのようなものがふと聞こえたことはありますが。だから多分これは、非常事態。沙耶さんが成仏するための一大事なんです」

「水子供養の時の仏か?」


朝岡は天井を見上げる。


「そうだと思います。お堂の中にいた像と同じような顔です。目は開いていますが」

「今、見えているのか」

「俺には見えています。この店にいて、興味深そうに靴を見て回っていますよ」


見てみるが何も見えない。仏が靴売り場にいるというのも、何とも奇妙な感じがする。


「今晩、話をする、と言っていました」

「それ、俺や蓮美には見えないだろ? どうすればいいんだ」

「わかりません……」

「なんの話をしてるんですか」


深沢が興味津々と言った様子で恭介と朝岡が立っているレジに来る。


「なんか、ここ最近、ずっと二人で親密な話をしていますよね。私も知りたいです」

「内緒だよん」 


朝岡がおどけた。


「そうですか……」


深沢はそれ以上深く追及しなかった。多分、バイトだから踏み込んではいけないとでも考えているのだろう。そういう思慮深いところ迫田にも深沢にもあるのだ。


仏との対話。まさか自分が人智を超越したものと話すことになるなんて思ってもみなかった。もちろん仏は沙耶と話す気なのだろうが。


寝不足で、疲れた。




仕事が終わり、また恭介、朝岡、蓮美、沙耶の四人がマンションのリビングに集まる。


これで三回目だ。


蓮美には、昼休憩中に連絡をしておいた。


会社から外食をした後で恭介の家へ来ている。午後九時半。


お茶を淹れて、三人の前に差し出し、恭介が座ると朝岡が言った。


「仏様が朝からずっと俺のもとにいます。仕事が終わるまで待っていてくださいました」

「仏様? どんな仏様?」


蓮美が訊ねる。


「地蔵菩薩です」


ええっ、と声をあげる。


「ここに仏様がいるなんて信じられない」

「神々しくて此の世ならざる者、という雰囲気を醸し出しています。俺も本物を見るのは初めてで、本当に信じられませんよ」


朝岡が言っている。


どこを見回してもなにもいない。気配すら感じられない。


「俺には見えないが……沙耶は見えるか」


沙耶は、昨日とは打って変わった明るい声で言った。


「見えます、見えます! 朝岡さんの言うとおりとても神々しいです」

「んー? どこにいらっしゃるの」 


蓮美にも見えないようだ。地蔵菩薩。遠い未来に弥勒菩薩とともに衆生を救うといわれている仏の一尊。水子供養の祈祷とお参りに行ったから、気にかけてくれたのだろうか。


「福田さんと岡本さんの二人は見えないので、今から俺の体を使って、伝えるようです」

「つまり、朝岡の体を乗っ取るということか」

「言い方が悪いですが、そうなります。サクッとやりましょう。準備はいいですか」


恭介は姿勢を正した。蓮美もどことなく緊張した面持ちだ。


二人で顔を見合わせ頷くと、朝岡を取り巻く空気が変わった。澄み切った、厳かな雰囲気が朝岡にある。そうして目つきも、かなり優しいものになっている。なんだかすべてを見守り、包み込んでくれるような、そんな空気になっている。


まるで、別人が目の前にいるかのようだった。朝岡の言うとおり、地蔵菩薩が乗り移ったのだろう。


「今、姿をお借りしました。朝岡さんの意識はちゃんとありますので大丈夫です。ではさっそく本題に入りましょう」


声まで違う。いつもより低い。今は地蔵菩薩の言うことに集中しよう。


「出雲大社による神々の会議がありました」

「え。仏様ですよね。出雲は神社の神様。何の関係があるのですか?」


蓮美が不思議そうな表情をしている。


「それを含めて全てをお話いたします。沙耶さんが成仏できなかった最大の理由。それは、日本の神々と我々仏の世界で揉めていたためなのです。沙耶さんは魂が綺麗で、行いがよすぎて、日本の神々が欲しがっていたのですよ。つまり、死後は神々の一部にしよう――魂を精霊の一種として、神格化しよう。そんな話題が神々の間で出ており、沙耶さんが亡くなると分かった直後、すぐ我々仏の世界に、神々がそう話しにいらしたのです」


声は落ち着いており、言っていることは荒唐無稽なのに妙な説得感がある。


「えっえ?」


 沙耶は朝岡を見たあとで、左右を見た。


「人間が神様になんかなれるはずないじゃないですか」


「稀におられるんですよ。名も知られていない人間が、名もなき神になることは。そういう人たちは神のもとで修業を積み、神に昇格されます」


「で、でも。私はどろどろ、ぐちゃぐちゃしたよくない感情を抱えているって最近知りました。今心の中は恨みで一杯です。そんな綺麗なものじゃないですよ」


「いいえ。沙耶さんはいくつもの御代で、善行を繰り返してきた、穢れのない魂をお持ちなのです。人生も死にざまも酷いものばかりですが、人間として清く正しく生き、魂は穢れなく綺麗なまま。神も仏も認める、善行しかしていない珍しいタイプの人間なのです」


どんなにひどい人生を繰り返し送って来たのだろう。


「でも、私。赤ちゃん、中絶考えましたけど……」


「人間なので、苦悩もあります。辛いこともあります。人間として負の感情を持つのは、いつの時代も当然のことですよ。人間として生きている。ですから人間の不浄は神も仏も分かり切っていることなのです。沙耶さんの魂はそれを正そうとするのですよ」


「はぁ……」


 朝岡――地蔵菩薩は、美しい所作で目の前に置かれていたお茶を飲んだ。


「沙耶さんの処遇を巡っては、最初は仏の世界でもそれがいいのではないか、と単純に意見が出ていました。だから沙耶さんが亡くなった後は、神々に任せようとしました。でも沙耶さんの魂は人間として生まれ変わることをまだ当分は繰り返す決まりになっている。やはり神になるのはちょっと違うのではないか、道理に反するのではないか、と我々仏たちは疑問に思い、仏会議をした後で神々に異論を唱えました。そこから揉めだしたのが原因で、死後の沙耶さんに事情を話せなかったのです。本当に、訊ねられても無視をするような形になり、成仏させるのも遅れて申し訳ございませんでした」


朝岡の皮をかぶった地蔵菩薩は沙耶に向き直り、深々とお辞儀をする。


「あ、いえ。それは別にいいのですけど。結局神様と仏様が揉めて、なにがどうなっているのですか」


「はい。過去三回、旧暦十月、今では十一月に行われる出雲大社の神議(かむはか)りに、私たち仏の一部も途中まで参加させてもらっていたのですよ。今年はもう、沙耶さんの処遇を決めるために、早めに神々に集まってもらい、いの一番に議題に入って頂きました。過去二回、神々は沙耶さんの神格化を譲らない。そして私たちは仏として、沙耶さんを人間として生まれ変わらせる。その主張は平行線でした。ですが、今回で処遇が決まりました。もともと、神々が主張してこなければ沙耶さんはすぐに成仏できたはずで、死後の世界ですぐに水子供養もさせるつもりだったのですが。今年、沙耶さんが福田恭介さんと出会って神々と仏のほうで方向転換を図りました」


沙耶は真剣な表情で、朝岡を見ていた。ただそのまなざしは、朝岡ではなく仏を見ているのだとわかる。


地蔵菩薩は続けた。


「三年も待たせてしまった挙句、神議りに行っている間は成仏させられないため、その間にこの世の未練、抱えている感情を吐きだしていただきたかったのです。神や仏からしてみれば、あの世でさせることをこの世でさせる、時間の短縮です。そこをあゆみさんに手伝ってもらっていたのです。感情を吐きださないからといって成仏できないことはありません。でも、成仏を待たせすぎて怨霊にさせないための手段でもありました」


「でも今、怨霊になりそうな勢いですよ、私」


沙耶が言う。


「待たせていた罪滅ぼしで、我々がそんなことにはさせません。そしてこの度、沙耶さんが恭介さんと出会ったことにより、選択の幅が広がったのです。これもすべて、大日如来――宇宙の計画の中に入っていたことなのかもしれません。今回の神議りで、神々と、仏との間で決着がついたのです。なので我々仏は早々に帰ってきました」


大日如来は宇宙を想像したと言われる仏の一尊だ。


地蔵菩薩の言うとおり、なにか計画を立てていたのかもしれない。ただ、俺と沙耶が

出会ってどうなるというのだ? 恭介は疑問に思った。


「そ、それで私の処遇は……」


沙耶は困惑した表情で地蔵菩薩を見つめている。


「神々や仏の意見ではなく、沙耶さん自身に決めて頂こうと」


「私に? 具体的に、なにを決めるのですか」


「三つあります」


いったん言葉を区切り、続けた。


「その一、神々の思惑通り、神様見習いとなる。その二、我々の導きに従い、成仏し、極楽浄土へ行く。本来はこの二つでした。でもその三があります。それは、恭介さんと蓮美さんの子供として転生することです。この場合、すぐに転生できます」


「えっ。え?」


沙耶は心底驚いたように恭介と蓮美を交互に見つめた。恭介も地蔵菩薩から信じられない言葉を聞いて、蓮美と沙耶の顔を見る。蓮美も驚いたように沙耶と恭介を見ていた。


「三つ目の選択肢は、なぜ……」


恭介は思わず呟いていた。


「この数か月の沙耶さんと恭介さんのやり取りを仏の世界で見ていて、思ったのです。善行を繰り返してきた沙耶さんへの、ささやかなプレゼントにするのはどうかと。これは恭介さんにとってもいい話になると思いますよ。神社におられる神々もこの意見には同意していました」


そんな勝手に決められても。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る