第31話


新村の心の解決方法は、いくら頭の中で探してもなく、結局家に帰ることにした。


マンションの自分の部屋の前につくが、明かりが漏れていない。


鍵を開けて、中に入ると電気をつける。沙耶はまだ帰っていない。


風呂に入り、あがった後でしばらく沙耶の帰りを待った。


だが、その日、沙耶は帰ってこなかった。


「正社員として、来年二月から働くことになりました!」


ダイアンで朝のルーティンをしていると、深沢がやってきて開口一番そう言った。

「おめでとう」

「専務、社長、部長のトリプル面接で緊張しました。こんなに緊張したのは初めてです」

「でも、よかったじゃないか」

「はい。お正月後に研修です。多分違う店舗へ派遣されると思います」

「そうか。寂しくなるな」

「私もここで働けなくなるのは寂しいです」


と言いながら、かなり嬉しそうだ。バイトの募集、そろそろかけておくか。


そんなことも考えながら、昨日の売り上げ管理表を見る。


靴がものすごく売れていた。売り上げは一昨日の四倍以上。


今住んでいるマンションに引っ越す前と同じくらいの売り上げだ。


だが。


恭介の心臓が唸る。


沙耶が恭介の近くにいないだけでこんなに靴が売れる。


沙耶は昨日帰ってこなかった。もう成仏してしまったのか? それとも勝手に出て行ったのか? 内心で動揺が広がっていく。沙耶は今頃、どこでどうしているのだろう。今日は家に帰って来るだろうか。


開店と同時に客が来る。


靴は、昨日と同じくらいの売れ行きだった。



靴が売れるのとは裏腹に、三日経っても、沙耶は帰ってこない。


流石に心配になって、朝岡に相談した。


「どこかで、迷子になっているんじゃないだろうか。それとも悪い霊にとり憑かれてなにか被害にでもあっているとか」


気が気でなく、客のいない時間帯にそう吐きだす。すると朝岡は呆れたように言った。


「沙耶さんも小さな子供じゃないんですから。そういうところ、お父さんですね」

「だって三日だぞ。仮に実の生きた娘だったら警察に相談しているところだ」

「判断が難しいところですが、心配性ですね。俺が感じるに――」

 

朝岡は天井を見上げる。


「多分、行きたいところに行っているんだと思います。放っときましょう」

「それだけならいいのだが」

「今日あたり、帰ってくると思いますよ。とにかくフェアがもう近いんです。早くなんとかしましょう」

「そう言われてもな……沙耶が帰ってこないんじゃ」

「あ、お客様が呼んでいます。俺、行ってきますね」


この三日間、店は今までが嘘のように忙しい。いや、以前の忙しさに戻っただけだ。


深沢も接客をしている。恭介も、流れるようにやって来るお客の接客に追われた。


レジも一台しかないので渋滞する。本当に、このような状況になるのは何か月ぶりだろう。体力のことを考えると、そろそろ内勤に異動願いを出そうか、と思う。店頭に立ってお客をもてなすのが好きだったが、一日中立っているのは、さすがにそろそろきついものがある。でも、もう少しだけ朝岡や今のメンバーと仕事を続けたい。


働いて、外食をして、家に帰る。この三日間、ずっと外食だ。


新村とは数回メールをした。他愛のない、どうでもいいメールだったが、新村が遠慮して連絡をしてこないと思ったので、恭介のほうからメールを送った。


新村は誠実な青年だった。冗談を言ったつもりでも、真面目な答えが返ってくる。


今日もマンションの部屋から明かりがない。沙耶はどこにいるのだろう。


鍵を開けて、電気をつける。

 

うわっ、と思わず叫び声をあげた。


沙耶が雰囲気を暗くしてテーブルに腰を掛けていたのだ。


「電気くらいつけろ」


優しく言った。朝岡の言ったとおり、沙耶は帰って来た。そのことに安堵する。


「とにかく帰ってきてくれてよかった。この三日間、音信不通で心配したぞ」


沙耶は生返事をしただけで何も言わない。いや、言いたいことがあるけれど、言い出せずにいると言った様子か。


「心にしまい込んだ箱、開いたんだな」


ぼんやりと頷く。


「小学校へ行ったら、思い出す鍵はありました。でもそれは箱の蓋を開けるタイプの鍵じゃなくて。ただ思い出すための引き金みたいなものでした。あゆみさんが言っていたことがなんとなくわかりました。私のは箱じゃなかった。でも箱でもそうじゃなくても同じです。ぐちゃぐゃの思いが溢れてきて……」


「話を聞く。その前に風呂に入るから、その間に落ち着くんだ」


「わかりました。話したいこと、整理しておきます」


恭介は急いで風呂に入り、髪を乾かすと、リビングに戻った。


自身から漂うせっけんの香りに、ざわつく心も落ち着いていく。寒いし、沙耶の精神

安定のために、温かいココアを淹れることにした。牛乳を温め、ココアパウダーを淹れてかき混ぜると、沙耶の前に置く。


「ありがとうございます」


泣いていたのか、目が赤い。恭介は正面に腰を掛けた。


「それで、この三日間どこへ行っていた」

「まずは自分の家。それから事件現場。そして小学校。他にも嫌だった場所、楽しかった場所も回りました」

「それで、小学校でどうなった」


訊ねると、沙耶は頷く。


「校舎が全然変わっていませんでした。それで懐かしくなって、校舎の中に入って回りました。六年間を思い出そうとして、一年生、二年生の教室を回りました。そして二年生の時、私はいじめられていたことを思い出しました。フラッシュバックしたんです。それまでずっと忘れていて。あの時担任に言われたことが『鍵』だったんです」

「なにを言われたんだ」

「いじめが苦しくて、辛くて、女性の担任に相談したんです。そうしたら『あなたが我慢すればすべてが丸く収まるのよ』って言われました」

「それは酷いな……小学一、二年と言ったら、六、七才だろ? そんな子どもに我慢しろというのは間違っている」


沙耶はゆっくりとココアを飲んだ。


「でもそれが、間違っていることとはずっと思っていなかったんです。私は多分、素直だったんでしょう。親にもいじめられて苦しいことを言いました。でも親は『慈善事業をすれば神様が見ていて人生がよくなる』と」

「それ、なにも解決になっていない」


沙耶には、沙耶を安定させしっかりした方向に導いてくれる大人がいなかったのだろう。沙耶の自己犠牲の精神は、このころに土台ができてしまったのだ。


「だから身近なところから慈善事活動を行い、二年生の時は嵐が過ぎ去るまで、我慢していました。それで、その担任の先生の言葉がずっと大人になるまで私の中に刷り込まれていたんです。私が全て我慢していれば物事が収まる、うまくいくんだって、両親の言葉もです。慈善事業をしていればいつかきっと報われるんだって信じていたんです。だからなんでもやりました……」

「慈善事業、したくなかったか」

「いいえ。それ自体は苦しくはなかったです。楽しくもありました」

「でも、君は我慢をして、満たされない心を抱えながら傷つきながら慈善活動をしていたんだよ。そうして我慢を重ねることで、心を潰していたんだな」

「そうなんです……私は傷つきながら、満たされない心を慈善活動で埋めようとしていたんです。自分が幸せじゃなきゃ、慈善活動なんてできないのに」

「君はいじめの他になにを我慢していた」


「たくさんあります。小学、五、六年の時。以前友達がいて楽しかったと言いましたが、あれもそう思い込んでいただけだったんです。確かに友達はいました。でも友達は三人いて、その三人はいつも仲良くつるんでいました。なにかあるときはいつもその三人で相談していて、私はハブにされていました。私はいつも端っこ。いつも一番後ろ。集合写真を撮るときも端っこ。表面上は楽しく話していましたけど、なにかあって三人で話しているところに私が混ざろうとすると、突き飛ばされ廊下に追い出されました。三人にとって、私はおまけだったんですよ。他に誰も仲の良い子がいない可愛そうな子だから同情して仲間に入れてあげる。でも、おまけよって。そんな態度がその三人には常ににじみ出ていました。でも私は表面上は感謝して、無意識に我慢して、楽しいと思い込んでいたんです。親が喧嘩しているときも、私は嫌だという感情を切り離して、辞めてとはいえず、にこにこと笑っていました。事実上は、我慢をしていました」

「そうか……中学、高校は」

「中学の時は担任の先生が暴力的でした。男子に暴力を振るって、それで教師としての威厳を見せていたのだと思います。当然クラスは荒れました。教師の男子への暴力は日常茶飯事だったので、当然、男子は面白くないですよね。そうするとどうなると思いますか」

「より弱いものに牙が向く……」

「そのとおりです。男子は女子に暴力を振るい始めました。私も殴られて一日動けなくなったことがあります。それでも、我慢していればすべてが収まるんだと心のどこかで信じ込んでいました……でも収まるはずもなく、私がバカだったんです。高校はそれなりに落ち着いて楽しい時を過ごしていましたが、私は、嫌な思い出に蓋をしていたというより、嫌な思い出を自分から切り離していたんです。思い出を遠い空に放り投げて、忘れていた。そういうタイプです」

 

沙耶は涙を流した。


「大学か専門に行かなかったのもバカです。人が倒れているのを見捨てられなかったですけど、人を呼んで、すぐに立ち去ってしまえばよかったんです。でも私は嫌な感情ごと遠い空に放り投げて感情を切り離し、人を助けられてよかったと思い込むことで満たそうとしていたんです。彼もそうです。暴力、ずっと我慢していました。自分が我慢すればいつか暴力がおさまるのだと。嫌だ、という気持ちを切り離してきたんです。性行為も、本当はしたくなかったんです。勇気を出して拒絶した日は暴れます。お皿も飛んできます。逃げ出そうとしても髪を引きずられ連れ戻され、無理にということも。それからは怖くてノーと言いだせず、我慢すればいいんだと思って従い続けてしまいました……行為を強制されていました。彼の家に行かないとこの家まできて、近所迷惑をするんです。バイトも変えました。ここは叔父の家だというと、来なくなりましたが、駅を知られているので待ち伏せされて、彼の家に強引に連れて行かれるんです。避妊をお願いしても蹴られますし。ピルとかアフターピル飲んでたんですが、副作用もあるしタイミング外して」

 

顔を覆って、肩を震わせている。声はもう悲鳴に変わっていて、こちらの胸も痛くなる。こういう被害は本当、どうすればいいのか。傷は癒えないだろう。

「言え。あゆみの時のように。やりたかったこと、できなかったこと、悔しかったこと、なんでも言え。叫んでもいい。皿を割ってもいい。なんでもやれ」

「いじめられたくなかったです。いじめをちゃんと解決してほしかったです。我慢しろだなんて言われたくなかったです。親にも慈善事業をしろだなんて言われたくなかったです。もっと私に寄り添った発言をしてほしかったです。ハブにされたくなかったです。なんで私はハブにされるのが嫌だったのに楽しかったと思い込もうとしていたんでしょう。中学の暴力教師も大嫌いです。男女仲良く過ごしたかったです。ちゃんと進学して、勉強したかったです。彼氏と別れたかったです。バイトなんてしなきゃよかったです。でも、殺されました。せめて死体くらいは丁寧に扱ってほしかったです。それに……それに赤ちゃん。私はもし生きていたら、どうすればよかったんですか。生めばよかったんですか? 中絶してもよかったんですか? 相手はすぐキレる。本当にいつか福田さんが言ったとおり、シェルター案件です。育てていけるだけのお金もない。ワンオペ育児をする自信もない。なにより、やりたくない性行為で妊娠して、そんな子を育てていける愛情なんて、私にはなかったです。赤ちゃんには罪はない。でもそんな赤ちゃんすら憎いとさえ思ってしまう自分もいます。生まれて来られなかった赤ちゃんは可愛そうですが、生んで大変な目にあうのと、中絶してこの世に生まれてこなかったのと、どちらが幸せだったんですか? 中絶していたら私は人殺しですか? 私はどうすればよかったんですか。中絶を考えたとき、私は自分のことが恐ろしいと思いました。酷い人間なのだと。その感情だけは切り離せなかった。もう黒々として本当にどうしようも――」

「そうじゃない。そうじゃないよ」


 思い詰めた表情をしている沙耶の言葉を、恭介は遮った。


「君は妊娠して考え抜いたはずだろう。そして彼に話をしたということは、意識していてもしなくても、君は生もうと考えていたんだと思う」

 沙耶は目を伏せた。多分、本当に一生懸命考えてから相談したのだろう。感情的にも辛かったに違いない。そこで自分を責めたらいけないのだ。恭介も責める気はない。


「IFの話をしていても仕方がない。君はずっと我慢して、我慢という感情をバットで放り投げて切り離し、それを見た他人が君を都合のいい子にしてしまったんだ。それ自体、俺は許せない。中絶することも、事情があるなら絶対に悪いというわけではないよ。君は酷い人間なんかじゃない。小さい頃、素直で周囲に従順に従い、君は従順な被害者になってしまったんだ。君もまた、ずっと被害者であり続けたんだよ。でも水子供養をしたことは立派だと思う」


沙耶の両頬を、涙が伝う。


「まだ、吐き出してもいいですか」

「もちろん」


すると沙耶はぽたぽたと涙をこぼした。


「もっと、もっと好きなように生きたかったです。やりたいことをやりたいと、嫌なことは嫌だと、我慢したくないことを我慢しない人生を歩みたかったです。暴力を振るわない素敵な優しい男性と出会ってお付き合いをしたかったです。悲しみじゃなくて、喜びを知りたかったです。好きになった男性から愛されることの喜びも、知りたかったです。彼は私を愛してなかった。だから彼の子を本当は妊娠したくなかった。二十歳で死にたくなかった。もっと生きたかったです」


喜びにも種類がある。沙耶は生きていることの喜びと、異性から愛される喜びの二つを知りたかったのだろう。ふと思った。あゆみも明絵があんなじゃなければ生きたかったのだろうか。生きる喜びを、知りたかったのだろうか。明絵のもとにいたのでは、生きた心地はしなかっただろう。恭介自身、そうだったから。怒鳴る親に対しても、毎日嫌だと思う感情に蓋をして諦めてきた。


「悔しいです。本当に悔しいです。担任も親も彼も憎いです。私をいじめていた子たちも、おまけ扱いしてハブにしていて子たちも、暴力を容認していた中学も、暴力をした男子生徒も、彼氏も、すべてが憎いです。憎むのは悪、恨むのも悪。そう思い込んで生きてきました。恨みからは何も生まれないというからその感情を空に投げて恨まないようにしてきました。でも恨むということはそれだけ傷つき、悲しみ、心が消耗していたということです。恨みの裏返しは哀しみなんです。恨むことは悪で、悪だと思っちゃいけないとそういう綺麗ごとに惑わされてきたからこそ、私はその感情を切り離してきました。私は恨みます。担任も親も、暴力教師も、彼氏も、全て。全て」


恨む、と言う沙耶の雰囲気は、別段悪いものに感じられない。沙耶の性格上、恨み切れないのだろう。


「もっと吐き出していいよ」

「今ならあゆみさんの気持ちがよくわかります。取り返したいです、私の人生。あゆみさんもきっと同じでしょう……」


沙耶は泣き腫らしている。


人生は、思うようにはいかないものだ。だけど、自ら選択した結果うまくいかないのと、人から人生を壊されるのは全く違う。


人から我慢と慈善活動を刷り込まれた人生。問題が起きたときの解決策を歪められ、無理に聖人であろうとして、妊娠して子供もろとも殺された人生。それを思うと恭介の中からも叫びがでてくる。心の中から湧き上がる叫びを、理性で抑える。


「頑張った。よく頑張った」


沙耶の泣き声は、ますます激しくなった。沙耶の咆哮は、恭介以外誰にも聞こえない。そうして、沙耶は再び、辛かったこと、嫌だったことを語り続けていた。

「もう少しまともな人生を歩みたかったです……幸せに、なりたかったです」

「耐えたね。本当に耐えた。もう、いい子じゃなくていいんだよ」

「はい……はい」


長い睫毛から、まだ涙が落ちる。


沙耶は一晩中泣き続け、恭介は付き合っていた。


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