第27話

「私はそこで、三年間、目を付けられた子から執拗に悪口を言われていた。そこでも傷ついて。多分、脳が傷ついて、おかしくなってたと思う。知ってる? 悪口言われたり、怒鳴られたりすると脳って傷つくんだって。それで、人とうまくコミュニケーションが取れなくなっていった。なにを言おうとしたか忘れるし、頭も鈍くなって」


「友達はいたのか」


「表面上の友達は。でも、あの人はいつも言ってた。小学生の時、友達が欲しいというと、友達なんかいらないって言うの。それは高校に入ってまで言われて。学校通っている子供にそれ言う? 普通」


「友達は大事だぞ……」


本当に、明絵はなにをしたかったのだろう。娘をどうしたかったのだろう。

あゆみは静かに涙を流していた。


「うん。私は傷ついた。でもあの人は私が傷ついていることにさえ気づかなかった。あの人高校にいたとき、なんて言ったと思う? 高校の学費全部払ってやったからこれで卒業できる、満足だろ? って。私の行きたくない高校に行かせておいてこの人なに言ってるの、って思った。大人になろうと思って軽く流したけど、本当は深く傷ついていた。それにお前はマセガキだから短大にでも行けって、意味不明なことを言われた。なんでマセていると短大に行くことになるのかも全く理解できなかった。お母さんがあんなだったから、大人になろうなろうと背伸びをして、やがて折れて、立ち直れなくなった。でも、大学にだけは入ろうと思った。だからなにがなんでも勉強して大学に入った。第一希望は落ちたけど」


あゆみが受験勉強を頑張っていたのは知っている。軽く頑張れと声をかけたのも覚えている。


「そこで、新村君に出会った」

「ああ……」


新村とは、小学生の時あゆみが好きだった男の子だ。


無邪気に、好きな人の名前を明絵に内緒でこっそり打ち明けてくれたことがあった。


娘にも好きな人ができる年頃になったのか、と恭介は思ったくらいだが。


「小学生の時、お母さんは目ざとく嗅ぎ取って、怒鳴り散らして私の恋心を踏みにじった。その時もダメダメダメってペットを叱りつけるようにそればかり。理由は言わないの。ただダメって強く言うの。でも私は大好きだった。高校で他校の子に少し気持ちが揺れたときがあったけど、またすぐに察知して、やめろって、怒鳴られた。私が恋することのなにが気に入らなかったんだろう……」


それで「お母さんは、娘を男にやりたくない、結婚させずにいつまでも自分のもとに置いておきたい」、と恭介に相談した時に繋がるのか。

「恋くらい好きにさせろと言ったんだけどな」

「大学に入って、新村君と再開したとき、第一志望に落ちたのは、彼と会うためだったのかなって思った。仲良くなって、お母さんには秘密で交際をスタートさせた」

「それも知ってる。あゆみが内緒で教えてくれたからな」

「でも、罪悪感がいつも付きまとうの。お母さんがダメ、って怒鳴り散らしていたのが、潜在意識に刷り込まれて。付き合っているときは楽しかった。彼は性格も、顔も、あまり変わっていなくてまた大好きになった。ずっとこの人と一緒にいたいと思うようになった。お母さんの呪縛から逃れて、一人暮らしをしたかったけど、お母さんは実家から出さないと言わんばかりの勢いで却下したし。そのあとお父さんとも喧嘩してたけど……」


負けた。というより、聞く耳を全く持たないのだ。明絵は。癇癪を起こしすぎて支離滅裂なことを言い出す。話が通じない人間と話をするのは、恭介も疲れた。


「でも、ある時お母さんにバレた。スマホを勝手に見られて、そこから確認されて、デート中の時に待ち伏せされたの。それで『お前に娘はふさわしくないから別れろ』って、怒鳴り散らして、その場で無理やり別れさせられたの。そのあと新村君のスマホの番号もアドレスも消された。誰ならよかったんだろう。誰ならお母さんは許してくれたの。新村君のこと、本当に結婚を考えるほど好きだったのに。なんで邪魔されなきゃいけなかったの。お母さんはそもそも、将来私を結婚させる気があったの? 私はいつまでお母さんのおもちゃでいなければならなかったの」


あゆみは嗚咽を漏らした。誰も、なにも言わない。あゆみが自殺した後、明絵から新村と別れさせたと聞いたとき、恭介はさすがにキレて平手打ちした。もちろん、手加減はした。だが逆ギレされて、ハンマーを持って追いかけられる羽目になった。身の危険があったので、なんとか力でねじ伏せたが。


周囲を見る。


朝岡と、蓮美は同情しているようにうつむいていた。沙耶は一緒に泣いている。


「早々に離婚すればよかったんだ、俺も。明絵には辟易していたし」

「中学の時に、もういっそのこと離婚してほしかったよ……。習い事、大学生になっても勝手に申し込まれたし。それに、新村君と付き合えた時は楽しかったけど、私は心身疲弊していて、いつも心に重たい石みたいなものが乗っかっていた。苦しくて、苦しくて、夜に布団にくるまって叫んでいたこともあった。彼からは、メールや電話が来たけど、それもお母さんに監視されていた。だから出られなかった。なにより、彼と別れさせられた時点でへとへとだった心にとどめを刺された気持ちになった。彼と結婚できない世界で生ききたくなくなった。彼と結婚できない世界で生きていても意味がなかった。どうせお母さん、認めないだろうし。お母さんの奇行と暴言に耐えられなくなって、これお母さんが死ぬまで一生続くのかなって思ったら、私はもうなにもかも我慢できなくなって、気づいたら走り書きして夜中、飛び降りてた」


飛び降りたのは、心身が疲弊していた末の、衝動的な行動だった。


一線を越えてしまうほど、あゆみは傷つき、追い詰められていたのだろう。


「もう、ノイローゼ通り越して鬱病になっていたのかもしれない。とにかく絶望に叩き落されて。お母さんに人生ぶち壊されて、心を殺された……」


あゆみが恭介に相談しても、多分結果は変わらなかった。変に世間体にこだわらなければよかった。父と母がいて子がいるという、理想像を、さっさと捨てていればあゆみは死なずに済んだのかもしれない。


あゆみを連れて逃げても、明絵は追いかけてきたかもしれないが。


明絵にとって、娘とは何だったのだろう。恭介自身、あゆみとの距離を測りかねていたが、家族としてあゆみのことは愛していた。


だが、明絵の教育は、愛じゃなかった。愛という名の、暴力だった。あゆみが小さい時からずっと苦しんできたのかと思うと、恭介も涙が出てくる。


「ここで吐き出せ。やってほしかったこと、やりたかったこと、なんでも言え」


あゆみは半ば叫ぶように言った。


「お母さんに私の考えていること、やること、全部肯定して育ててほしかった。恋を否定しないでほしかった。習い事、勝手に決めないでほしかった。怒鳴らず育ててほしかった。心を踏みにじらないでほしかった。いつも土足で私の心の中に入って踏み荒らしていくの。そのことにさえ気づかない。ちゃんと理性的に話しをしてほしかった。行きたい高校に行かせてほしかった。親友って言える友達を作りたかった。私のやりたいことも人格も、全部否定されて育って悲しかったし、はらわたが煮えくり返るほど怒ってる。お母さんは不幸になればいいとさえ思う。お母さんはどうして私の人生壊したの? どうして、私の好きに生きさせてくれなかったの? 私の人生なのに。私の人生に、お母さんが踊り出てきて、すべて道をふさいでいくの。右に行きたいのに乱暴に左に行かせる。どうして? 何もかも支配するのはなんでなの? 私、へとへとになって折れた心が腐りきっちゃったよ。今も苦しいよ……」


あゆみは声をあげて泣いた。泣き声が響いている。朝岡から事情を聞いた蓮美が呟く。


「いるのよねえ、そういう毒親……子は親を選べないし」


沙耶は必死に話を聞いて、変わらずあゆみの心情を汲み取っているのか、涙を流し続けている。人生をやり直させてやりたい。素直にそう思った。できることなら、人生を好きに生きさせてやりたい。でも、もうどうすることもできない。


「あゆみさんは、小さい頃からたくさん我慢してきたんですね。いっぱいいっぱい我慢して、圧に潰されちゃったんですね」

「男の子との接触は認めないくせに、恐怖だけ煽るの。男に引きずり込まれそうになったら悲鳴あげるんだよとか、男に跡つけられるなよとか、友達と待ち合わせするときも、攫われるかもしれないから遅刻していけって。遅刻なんてアウトだよ。いじめられる可能性もあるし。それなのに、痴漢に遭った時、道端で不審者に絡まれたとき、お母さんに言えばお前のせいだ、お前が悪いっていうの。恐怖心を刷り込んで煽るくせに、私になにかあった時、二次被害を与えるのもお母さんだった。だから余計に泣き寝入りしてた」


沙耶の、あゆみを握る手が強くなる。


「痴漢に遭ったことあるのか」


恭介の声が、自分でも驚くほど低くなっていた。


「電車の中で……ぱんつの線に沿って指でゆっくり触ってくるの。それで声を出せずに怖がると余計に喜んでしつこくついてきた。屈強な男で突き出せなかった。それとは別の日に、不審者にも太もも触られたこともあるし、課外授業のスキーで胸を掴まれたこともある……痛かった。心も体も。でもお母さんには言えない。お前が悪いで終わるから。性被害にあった毒親の常套句だよ。お前が悪いっていう言葉は。私は被害に遭っただけ」


痴漢にも怒りが湧く。どうにかして守ってやりたかった。母親に言えないなら、異性である父親にはなおさら言えなかっただろう。


「あゆみさんは何も悪くないです。でも辛かったですね。あゆみさんには辛いことが複合的に、重なり合っているんですね」


沙耶は優しくなだめていた。


確かに女の子の親は性被害を心配するけれど、明絵の教え方は酷い。


理性的に優しく教えることだってできただろうに。


あゆみはそのまま、二十分ほど泣き続けていた。誰も手につけていない、ぬるくなったお茶を淹れ直す。すると、蓮美がゆっくり飲んでくれた。


蓮美はずっと朝岡から説明を受けて、深刻な顔をしている。


あゆみの泣き声は小さくなっていき、やがて泣き止んだ。


「ごめん。ごめんな、あゆみ。俺がもっとあゆみの要望を聞いてやればよかったんだ」


父親として何ができたのだろうかと、恭介は思う。


どうすれば、家に居場所を作ってやれたのだろう。あゆみには、謝っても謝り切れない。仕事があるから仕方がないとはいえ、子育て明絵に任せていた恭介にも責任はある。


「うん、死んだからもうそれはいいの。死ぬことで私はやっとやっと、やっと解放されたから。死ななきゃお母さんに蹂躙され続ける人生だっただろうから」


肩を時々震わせながら、あゆみは静かに言う。


「話の論点は私のことじゃない。沙耶さんのことでしょう」

「そうだった。そうじゃん」


朝岡が思わず、と言ったふうに声を出していた。

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