第25話
午前四時半前に起きた。カーテンを開ける。外はまだ暗い。
アラームが鳴る前に起きるとは。恭介は頭を掻いた。自分も自分で、それなりに緊張しているのだろうかと思う。沙耶と語り合うべきことは、もっとあったんじゃないのか?
今日で彼女は消えてしまうのだ。恭介自身から話したいことはなにもないけれど、沙耶にはまだあるんじゃないのか? 昨日、聞いておけばよかっただろうか。
朝食を作って食べていると、沙耶が起きてきた。
「おはようございます」
いつもの明るい笑顔だ。この笑顔を見られるのも、最後。
そう思うと情が湧いてくる。自分は自分が思っている以上に、沙耶とのこの共同生活を楽しんでいたのだな、と恭介は思う。
食べ終えていつでも仕事に行けるよう身支度を済ませると、沙耶と家を出て、お寺のある最寄り駅で朝岡と合流する。五時四十分。日の出前で外は薄暗いが、空は厚い雲に覆われて、小雨でも降りそうな天気だ。
サラリーマンと思える人がちらほらといる。彼らは何時から働いているのだろう。
「おはようございます」
「おはよう。朝岡君、よく眠れたか」
「いえ。あまり眠れなくて。三時に起きちゃいましたよ」
だから、待ち合わせより早い時間に来ていたのか。
「沙耶さんもおはようございます」
朝岡は会釈をする。
「おはようございます」
沙耶が答えた。
街はまだ動いていない。起きそうで、まだ眠りについている。そんな時間帯だ。
「行きましょうか。六時開門だそうです」
朝岡が前を歩く。スマホで地図を確認しながら、十分ほど歩く。
大きな山門が見えてきた。ネットで感じたよりも、大きく、しっかりしたお寺だ。
門が閉じられていたのでしばらく待つ。
六時を過ぎて、門が開かれた。
「おはようございます」
門を開いた僧侶が言った。挨拶を返す。
山門を通り抜ける前に一礼する。中に入ると丸みを帯びた可愛らしい石像のお地蔵様がたくさん並んでいた。多分、水子供養した人たちが作ったお地蔵だろう。
参拝客はいない。早朝のお寺の、圧倒されるほどのお地蔵様の中にいると、なんだか夢でも見ているような心地になる。
「特に変なものはなにも見えないし感じないですね」
朝岡が小さくそう言った。
「俺たちも像を作ったほうがよかったか?」
沙耶が両手を振った。
「いえ、いえ。さすがにそこまでご迷惑はかけられません。三万も支払って頂いてますし。それに私はここで消えるんです。多分、お賽銭を入れて祈ったら消えるでしょう。だから今のうちに言っておきますね。福田さん、朝岡さん。今までどうもありがとうございました。蓮美さんにもありがとうございましたと、お礼を伝えておいてください」
そう言って深くお辞儀をする。
「こちらこそありがとう。沙耶と過ごした時間は楽しかった。一生忘れないよ」
「そう言っていただけると、こちらも救われます」
「じゃ、祈りましょうか」
賽銭箱の前まで行くと、お堂に一際大きな地蔵の像があった。
二メートルはあると思える像は目を半分開き、慈しみ深い顔で立っている。
水子だけではなく、親身に寄り添い大衆も救うと言われる地蔵。
沙耶に五円を渡す。触れた手が冷たかった。
朝岡が賽銭を入れる。恭介も続いて五円を入れて、祈った。
沙耶の心残りがなくなりました。成仏させてやってください。
祈り終えると、沙耶が賽銭箱の前に立つ。地蔵菩薩の像をしばらく見つめていた。
それから五円をそっと入れて、手をあわせる。
これで、沙耶は消える。
複雑な思いで、後ろ姿を見守る。
沙耶は長い祈りを終えた。
そうして振り返る。一分程度して、三人で顔を見合わせた。
「あ、あれ? 私消えないですね。もう少ししたら消えるでしょうか」
沙耶は自分の両手を見ている。
「なにを祈った」
「赤ちゃん成仏させていただきありがとうございます、私も成仏させてくださいって」
「待ってみようか」
境内の中を見て回り、しばらく待つ。だが、沙耶は一向に消える気配がない。
「え、あれ。なんででしょう。私成仏できません」
沙耶は心底戸惑ったような、困ったような顔をしている。
なにを思ったのか朝岡がもう一度、賽銭を入れ、目を閉じた。そうして目を開ける。
「仏の声でも聞こえたか」
「いえ。でも事情があるなら説明してくださいってお願いしてみました」
「どどど、どうしましょう。私、これで最後だと思っていたのに」
「落ち着いて」
沙耶に言う。やはり気持ちが消化しきれていないから、この世に留まっているのか?
「朝岡君、どうすればいいのかわかるか」
朝岡も困惑した様子だった。場が緊迫する。
「仏様の声はなにも聞こえませんね。わからないです。これは、また夜、会議したほうがいいかもしれません」
「私、もう少しここにいます。だから二人は仕事へ行くなり帰るなりしてください。福田さんと一緒にいたら、また倒れるかもしれませんし」
朝岡を見る。朝岡は頷いた。
「じゃあ、俺は仕事に行く。まだ早いから時間を潰すけど」
「俺は沙耶さんと残りますよ」
頷き、二人と別れた。
と言っても、店はどこもやっていない。駅前のマックだけは営業していたので、コーヒーとハッシュドポテトを頼む。コーヒーもハッシュドポテトも熱く、体も温まる。
沙耶が成仏できないのは、なにか他に原因があるのだろう。そうとしか思えない。仏に成仏を願ってもそれに応じてもらえなかったということは――なにがある?
沙耶のやりたいことはもうやった。一番の心残りももう終えた。
いや、違う。水子供養をしてお寺に行けば成仏できると、なぜ思い込んでいた?
仏がずっと沙耶をスルーしていたのだ。そこには事情がある。なのに、そのことを無意識に頭の隅に追いやって、成仏できない可能性をなにも考えていなかった。
時間を潰し終えた頃にはもう、街も動き出していた。
小雨が降りだしていた。
小雨が降っていても、仕事場は駅直結なので濡れる心配がない。
裏口から警備員に通行証を見せて店に入り、ぼんやりとしていた。
恭介が仕事を始めるにはまだ早い時間だ。
当然、深沢も来ない。
「暇だ……」
疲れた。
内心では動揺している。いつまで経っても成仏できない幽霊はどうなるのだろう。怨霊になると聞いたこともある。沙耶のお腹の中にいた赤ちゃんは成仏できたのに、沙耶はなぜ成仏できないのだろうか。
いやいや、仕事をしなくては。
ペットボトルの水を飲んで、頭を仕事モードに切り替える。
三十分待ち、タイムカードを押すと、朝のルーティーンを始める。
深沢もやって来た。
「おはようございます」
「おはよう」
「あれ、店長また顔色悪いですね。昨日はそうでもなかったのに」
「そうか?」
「まだ具合悪いですか?」
「いや、大丈夫だ」
深沢はタイムカードを押した。顔色、まだ悪いのか。それは沙耶が身近にいることに関係しているのか、それとも動揺から来ているのか。ただ、体調は別段、なんともない。
「今日も仕事、始めましょう。よろしくお願いします」
深沢は明るく言って、掃除にとりかかった。
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