第18話
「大丈夫ですか。起きられますか」
そんな声で目が覚める。沙耶の顔があった。
「今何時だ」
「午前八時です」
八時。午前……午前? 一晩経っている?
飛び起きた。慌ててカーテンを開ける。暗い部屋が一気に明るくなった。
「俺、あれからずっと寝ていたのか?」
沙耶は頷く。
「はい、起こしても起きなくて。全然起きてこないから心配で」
随分と眠っていたような気がする。事実、すごい長い間寝ていた。
すぐに体調をチェックする。熱はない。風邪もひいていない。大丈夫だ。仕事には行ける。今日は閉店までフルで働く。朝岡にシフトを変わってもらったのだから休むわけにはいかない。
沙耶が朝食を準備してくれていたが、食べずに支度をして、すぐに家を出た。沙耶の料理を食べない理由もできたので助かる。
コンビニで水と栄養バランス食を買い、三分で食べてダイアンに向かう。
午前八時五十五分。なんとか間に合った。タイムカードを押す。深沢ももう来ていた。
朝岡から仕事の伝言はなにもない。レジのチェックをし、金庫からお金の入った袋を持ってきてお札と硬貨を補充する。
昨日の売り上げを見て、在庫チェックと品出し。掃除は深沢に任せた。
B56番は色違いも全て売り切れている。秋のフェアのために、発注書にB56番を記入する。今の店にとって、B56番は救いのブーツだ。
ぐにゃり、と視界が歪んだ。起きた瞬間は大丈夫だと思っていた体調は、まだよくなっていないらしい。首を振って安定を保つ。
大丈夫だ。今日を乗り切り、帰って早く寝よう。そういえば、沙耶が次にしたいことを聞いていなかった。帰ったらそれも聞かなくては。
それよりも昨日遊園地へ行った身分で、今日倒れるわけにはいかない。体調管理がなっていないと思われる。
頑張らなくては。
開店の時間になり、ダイアンにも何人か客が来た。
「いらっしゃいませ」
深沢と恭介で同時に声を出す。だが、数人の客はなにも買わずに去っていった。
深沢はひととおりの仕事を終えると、恭介の隣に立った。
「今日も売れませんかね……」
「売れることを祈って」
「あ、でも昨日は小物類が結構売れましたよ」
小物とはクリーナーやクロスのことだ。クリーナーは千円前後。
「朝岡さんが頑張ってやって来た客に売りつけていました。靴は十足程度売れて。あとは、ガラス戸の中のものが三点売れましたね」
「え、これが?」
恭介は振り返る。レジ横にガラス戸があって、男性用の本革の財布とパスケースが展示されている。売り物ではあるが、高いしほとんどの人は気づかないのでめったに売れない。本社の人間も売るのはあくまで靴で、小物類ではないとしているから、どこの支店もみんな似たような配置になっている。
ちゃんと商品の補充はなされている。
「珍しいこともあるものだ」
「ほんと。財布を買ったかた、初めて見ました。しかも三人」
財布は実は、靴より高い。三万程度する。
「高いのに。でも、売れたのならなにより――」
再び視界が歪んで、よろけた。深沢は気づいた様子もなく、来る客に目を光らせている。万引き以来、深沢はより客の様子を凝視するようになった。
声掛けは、ダイアンの方針ではない。だから、客から声がかかるまで基本待機だ。
朝岡は、小物を売りつけていた、といっていたからかなり強引な方法を使ったのだろう。入って来た客に声掛けしようかとも思うが、それをするとダイアンの方針に反する。
バレたら左遷される可能性もあるので黙っている。
午後四時前まで、立ったままぼんやりとしていた。時々猛烈に具合が悪くなったが、耐えていた。それまでに売れた靴は四足。
深沢と入れ替わるように、迫田がやって来る。
「おはようございます」
「おはよう。深沢さんは四時になったらあがって」
四時まで三分待つ。迫田となにか話し合っていた。
「では、お疲れさまでした」
四時になり、深沢はタイムカードを押す。
そうして、迫田がすぐ恭介の隣に立った。
「お客、相変わらずいないっすね」
「十一月のフェアに賭けるよ」
それまでに沙耶をなんとかしないと。それにしても具合が悪い。座りたい。
だが店長である自分が、バイトを差し置いて座ることもできない。
深沢が正社員になれば、研修を経てどこかの支店で働くことになるだろうからこの店からはいなくなる。迫田はいつまで店にいてくれるのだろう。
「迫田君は三年になったら就職活動をするのか」
「そりゃしますよ。入りたい会社いくつかありますからね」
「ゲーム会社でシナリオライターやりたいんだったか」
「あ、深沢さん辺りから聞きました?」
「ああ。いつ頃から就活するんだ?」
「春からですね。この店には卒業までいますから大丈夫ですよ」
それを聞いて安堵した。
「やりたいことがあっていいな」
「まあ、ぼちぼち頑張っています。夏に賞なんかに応募して。店長は若い頃、やりたいことってなかったんすか」
「もともと靴に興味があったからこのダイアンにも長くいる。だけどシナリオ書けるような突出した才能はないからな。そういうのがあるのはうらやましいよ」
「厳しい世界っすよ……なれるかもわかりませんし。あ、お客来ました」
迫田は小さく言うといらっしゃいませ、と声を張り、客の近くへ行って掃除をしていた。深沢が細かく客を観察しているのに対し、迫田は客が来ると近くへ行ってチラ見するようになった。勘のいい客は時々嫌そうな顔をするが、店の防犯のためだ。
もう一人女性客がやってきて靴の棚を見ると、すぐにレジにやって来た。
パンフレットを広げ、指さす。
「この靴の、二十三半ありますか」
B56番だ。丁寧にお辞儀をする。
「申し訳ございません、そちらの商品は、当店は品切れでして」
十一月のフェアに入荷することはまだ客には言えない決まりになっている。一人だけに言ったらひいきになるからだ。
「どこもないんですよね……」
「人気商品になっておりまして」
「他の在庫のある店から取り寄せってできませんか」
「店同士での取り寄せは行っていないんですよ」
女性客は身を乗り出す。どうしても欲しいらしい。欲の塊を感じる。
迫力に圧されて、身を引いた。
「在庫ある店、探していただけませんか。神奈川、千葉、埼玉、茨城、栃木にあるなら行きます」
すごい執念だ。
「少々お待ちください。ちなみにお色は」
「ブラウンで」
恭介は、パソコンから在庫のある店を調べた。埼玉に在庫がある。
「大宮の店舗にございますね」
「近くてよかったです。行きます、行きます」
「在庫確認とお取り置きの電話をしましょうか」
「お願いします」
埼玉の店舗に電話をかけた。相手が出る。
「ダイアン東京グリーン店の福田です。B56番のブラウン、二十三半が欲しいというお客様がおりまして、在庫確認とお取り置きのお電話です」
「お疲れ様です。大宮クリナ店の佐々木です。少々お待ちください」
保留音が流れる。大宮店の佐々木。店長会議で顔を見たことがある程度だ。
「お待たせいたしました。在庫、ございます。お客様のお名前と電話番号を教えて下さい」
恭介は女性客に名前と電話番号を訊ねる。女性は名乗り、携帯の電話番号を言うのでメモする。そしてそれを佐々木に伝えた。一度、受話器から耳を話す。
「いつ取りに行く予定ですか」
「明日行きます」
「お客様は明日、そちらへうかがうそうです」
「ではお取り置きしておきますので。よろしくお願いいたします」
「お願いいたします」
電話を切る。
「大宮店で、お取り置きは今日から一週間です」
「わかりました。クリナですね。ありがとうございます」
お客は笑顔で去っていった。県をまたいで労力を使っても手に入れたいのだろう。
息をつく。クレームじゃなかったからよかったものの、多店舗に電話を入れるだけでもなにか、体力を使う。どっと疲れが出てきた。迫田は接客をしている。
ふらふらする。うつむき目を瞑り、じっとしていると、別の客が来た。
サイズを聞かれたので、在庫棚から取り出す。一足、定番の靴が売れた。
今日はこれで九足。やはり売れ行きはやはりよくない。
午後八時五分前になって「蛍の光」が流れ始めた。滑り込んでくる客もいそうになか
ったので、レジ締めを始める。迫田は掃除をし、閉店一分前にシャッター閉めをしていた。
もう、体調が限界に近い。立って歩いて帰れるかわからない。
売上金を金庫に入れ、店に戻る。
「じゃ、お先っす」
「おつか――」
お疲れ。そう言おうとして、意識が途切れた。
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