第16話
「今日もよく晴れていますね」
そんな声で目が覚めた。火曜。遊園地に行く日だ。
沙耶は恭介の寝室でカーテンを開けた。
眩しさに一度目を瞑り、そうして再び目を開ける。
「珍しいな。沙耶が寝室に来るなんて」
沙耶が寝室に来たことはない。すると沙耶は置き時計を持って見せる。
「だって、このままだと遅刻しますよ」
八時十分。まずい、寝坊した。遊園地までは一時間かかるから、今かららだと遅刻する。スマホのアラームは七時にセットしていたはずなのに。
慌ててスマホを見る。アラームはちゃんと機能していた。
音楽に気づかないほど深く寝ていたのだ。
慌てて着替えると、三分で沙耶の作ったご飯を食べて、支度をし、家を出る。
蓮美に連絡をして駅まで走った。沙耶は同じ速さでついてくる。
結局、待ち合わせに二十分遅刻してしまった。
「ごめん待たせて」
息切れしながら、蓮美に言う。
「大丈夫。疲れているのね。相変わらず顔色が悪いし」
「ああ……」
沙耶の前で、事実は言えない。
「そのかたが、岡本蓮美さんですか?」
「あ、うん。そうだ」
「綺麗なお人ですね」
「え、なに?」
蓮美は不思議そうな顔をしている。
「ああ、ここに沙耶が来ている」
「そっか、本当は沙耶ちゃんのやりたいことのために来ているんだったわね。見えないけど、よろしくね」
蓮美は笑顔で言った。
「はい、よろしくお願いします!」
「よろしくお願いします、って言ってる」
「ふふ。それじゃあ、行きましょうか」
「今日はみんなで楽しもう」
チケットを買い、中に入る。さすがにチケットを三人分とは言えなかったので、二人分だけ買った。三人分買わないことに罪悪感が湧くが、どうしようもない。
空は青い。あちらこちらから、絶叫が聞こえてくる。
「沙耶、なに乗りたい」
「もちろん、ここにある絶叫マシン全部です」
「蓮美は絶叫マシンは平気か? 沙耶が乗りたがっている」
一応、蓮美にそう訊ねた。
「大丈夫よ」
なにもない平日なのでやはり空いている。
近くにあった、うねりと高低差の激しいジェットコースターに乗ることにした。そういえば、遊園地でジェットコースターに乗るのは、何年ぶりだろう。
あゆみが十歳の時に明絵と遊園地に行ったから、大体十五年くらいか。
順番が来て乗り物に乗る。明絵は隣に、沙耶は恭介のすぐ後ろにいる。不思議なことに、人はいるのに恭介の後ろは誰も座ろうとしない。なにかの法則が働いているのだろうか。ベルトを締めると、係員の掛け声とともにコースターはゆっくりと昇っていく。
「なんか怖くなってきた……」
昔はあまり怖くなかったのに。年を取った証拠だろうか。
「大丈夫ですよ! 遊園地の整備員さんに感謝しましょう」
後ろから明るい声が響く。ジェットコースターは頂上へ着き、そこから猛スピードで下る。蓮美は笑っていた。沙耶も笑っている。恭介は必死にバーを両手で握っていた。
死んでも構わない、と思っているがここで死ぬのはなにか違う。
髪が上下左右に揺れる。よくこんなもので笑えるなと思いながら、恭介はひたすら恐怖に耐え忍んでいた。若い頃は自分もこうしたものに楽しめていた。なんで四十七になって、ダメになりつつあるのだろう。
乗物から絶叫が響き、しばらくしてコースターは速度を緩めて元の場所に戻った。
降りるとき、ふらついた。というよりなんとなく体調が悪い。
体力が急にガクッと落ちたような。なんだか体に力が入らないような。
でも沙耶を成仏させるのだ。付き合わなければ。やりたいことを後悔なくやってもらわなくては。
「大丈夫?」
蓮美が異変に気づいたのか、言った。
「ああ。ほんのちょっと酔っただけだ。次はなに乗る」
「具合、悪いですか」
沙耶も心配そうに言う。やっぱりわかるのだろうか。
「大丈夫だ。沙耶に付き合うよ」
「無理しちゃだめですよ。一人で乗ってきますから、お二人で休んでいてください」
そう言って沙耶はふわふわと浮いて次の絶叫マシンに並んでいた。並ばなくても乗れそうなものだが、律儀だ。
「沙耶ちゃん、あそこにいるの?」
沙耶の行動を目で追っていたせいか、蓮美が回転型の絶叫マシンのほうを見る。
「どうやらあれに乗りたいらしい」
「ベンチで休む?」
頷いた。気分も悪い。近くのベンチに座ることにした。蓮美も隣に座る。
この妙な具合の悪さは、やはり沙耶がいるからなのだろうか?
「ねえ、顔色真っ青なんだけど……」
蓮美が腕を掴んだ。
「ちょっとだけこうして休んでいれば大丈夫だ」
しかし具合の悪さがなぜ突然やって来たのだろう。今まではなんともなかった。昨日まで、いや、今朝までなんともなかった。働きすぎて突然死ぬ人が出るように、生気を吸い取られていた積み重ねみたいなものが、今になって出てきたのか?
蓮美は心配そうにしながら息をついた。
「飲み物買って来るわね。なにがいい」
「果汁百パーセントオレンジジュース」
疲れたときにはこれが効く。だが、具合が悪い場合、百パーセントオレンジジュースが効くかはわからない。
蓮美は販売機に向かって行った。目を閉じると、様々な絶叫が方々から聞こえてくる。
絶叫、絶叫、癇癪……。絶叫が癇癪に聞こえてくる。
ああ、そうか。絶叫マシンが楽しめなくなったのは、明絵の癇癪が原因かもしれない。
あゆみを明絵と一緒に遊園地に連れてきたとき、あゆみはハンバーガーが食べたいと言った。
だが、明絵はなんでこんなところまできてハンバーガーを食べなくちゃならないの? ハンバーガーなら近所でだって食べられるでしょ! と怒鳴り散らした。
泣き出したあゆみをなだめ、ハンバーガーくらい食べさせてやれとその場で口論になった後、癇癪を起した。周りがみんな見ていたと思う。あれだけ人目もはばからず怒鳴って癇癪を起すなんて、恥ずかしくないのだろうか。
全く、どちらが子供だったのか。
それにしても、頭がぐらぐらする。
頬にひやりとしたものを感じて目を開けた。
「買ってきたわ。オレンジジュース」
目の前にペットボトルがあった。蓮美が頬にペットボトルをあてたのだろう。
「ありがとう」
「もう、帰ったほうがいいんじゃない?」
「いや、沙耶に付き合う」
ペットボトルの蓋を開けて、一気に半分まで飲んだ。
オレンジの濃厚な味が、喉に染みる。
「どうしてそこまで沙耶ちゃんのためにするの?」
「後悔なく、成仏させてやりたいからだよ」
「そう……」
蓮美はそれ以上、なにも言わなかった。遊園地からは、様々な音楽が聞こえてくる。
乗り物に乗っている人たちは、沙耶も含めてみんな元気だ。
「戻りましたー」
沙耶は楽しそうに戻って来た。
「沙耶が来たよ……」
蓮美に小さく言う。すると蓮美は言った。
「沙耶ちゃんそこにいるの? なんだか恭介、まだ具合悪いみたいなんだけど」
すると、沙耶は真顔になった。
「確かに顔色が真っ青ですね……どうしましょう。もう帰りましょうか」
「いや、いい」
恭介は立ち上がった。
「え、でも」
沙耶は困惑している。
「一人で乗るのもつまらないだろ? 次はなに乗る?」
「そんな顔色で。私のことは気にせず、もう帰ったほうがいいですよ」
「やりたいこと、やるんだろ? とことん付き合うよ」
沙耶は無言で、観覧車を指さした。観覧車なら、恭介も休めると思ったのだろう。
「遠慮するな、乗りたいものに乗れ。次沙耶がやりたいことが、成仏のきっかけになるのかもしれないのだから」
恭介に隠していて、沙耶がやりたがっていること。それが終わればもう沙耶には会えなくなる。それがなんとなく寂しかった。だからといって、いつまでも共同生活を続けるわけにもいかない。朝岡からも釘を刺されている。
「じゃ、じゃあ、あれ」
床に足がつかないタイプの絶叫マシーンを指さす。
「でも無理しないでください」
「無理なんかしていないさ」
「いや、しているでしょう、どう見ても。一人で乗ってきます……」
「俺も行く」
「ちょっと二人でなんの話をしているの」
蓮美が慌てたように口を挟む。
「あれに乗る」
沙耶が指さした絶叫マシーンを、蓮美に教えるために指さす。
「うん、わかった……」
蓮美も真顔で、恭介のあとをついていく。
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