第9話
午後六時に仕事を終え、あとを朝岡と迫田に任せると、早々と駅ビルを出た。
ほんの二か月前は明るかったのに、外はもう暗い。いつもと反対側のホームへ行き、電車が来るのを待つ。今から行く、とラインを打った。OKとスタンプが来る。
蓮美も六時退社だ。内勤で、靴のデザインにも多少関わっている。
四駅先で降りて乗り換え、そこから三駅。蓮美の住んでいるマンションにたどり着いた。四階に上がりインターホンを鳴らす。だが、出てこない。まだ帰っていないのだろう。十五分ほど外で待ち、蓮美が駆け上がって来た。
「ごめん、ごめん。スーパーで買い物してたら遅くなっちゃった」
肩までの髪に、薄い化粧。蓮美は化粧をしてもしていなくてもそう変わらない。
若々しく、童顔。お酒を買いに行くと、たまに未成年に間違えられるそうだ。仕事用バッグの他、ぱんぱんになったエコバッグを持っている。恭介はそのエコバッグを持った。
「ありがとう。鍵開けるの、助かる」
「気にしないで」
二人で微笑みあった。やっぱり蓮美といると、心が落ち着いていくのがわかる。
蓮美は仕事用バッグから鍵を取り出し、恭介を先に中に入れた。そして、電気をつける。そういえば、沙耶と出会った次の日から、恭介の部屋には明かりがつくようになった。恭介がそう頼んだのだ。帰ってきて真っ暗な家は、なんだか物悲しくなる。
蓮美の部屋は、1LⅮK。八畳ほどのリビングに、広めの部屋がひとつ。
バス、トイレは別だ。
「カレー作るね」
言ってキッチンに立った。
「手伝うよ」
手を洗い、二人で野菜を切り、カレーを作る。
明絵の時はこんなことをしなかった。ジャガイモの皮を下手に剝くだけで頭ごなしになじられていたから、キッチンには立たなくなった。恭介の母親も、よく怒鳴る人だった。
心のどこかで怒鳴られること、なじられること、癇癪を起されることにずっと怯えている。結婚相手は親と似た人を選ぶと言われることもあるけれど、恭介自身がそうだった。
だがもう四十七。しかも元父親。
深層心理の中で親や明絵の呪縛から解き放たれずにいるが、うまく隠しながら生きていくしかない。そして彼女たちを反面教師にしてしっかりするしかない。
蓮美はその点穏やかだ。不器用に野菜を切っても胃袋に入れば同じだと笑ってくれる。
和やかに会話をしながらカレーを煮込み終え、皿に盛ると、二人掛けの白いテーブルにつく。漂う匂いだけでもなんだか安堵感を覚える。
「じゃあ、頂きましょうか」
「頂きます」
二人で同時に食べ始めた。食器の音だけが聞こえる。
カレーを作っている時とは異なり、スパイスのように沈黙がぴりついている。
「ねえ」
蓮美は暗い声を出した。来たな、と内心で身を硬くする。
「今日ここへ来たっていうことは、私に会いたくないわけじゃないのよね」
信じてもらえるかどうかわらかないけど、言うしかない。
「もちろん。これからも会いたいし」
「ならいいのだけど……顔色、悪いわね。私の誘いを断ったのは、体調も関係してる? なにかあったの?」
心配そうに顔を見つめる。
「いや、顔色が悪いのは多分、娘と明絵のことを引きずっているからだと思う。引きずっているっていうのは、娘の自殺と明絵の癇癪のことね。時間が経っても癒えない。でも、今は蓮美が大事だし、君との将来のことも考えている。ただ、時々思うんだ。娘はあんなに苦しんでいたのに、自分は自分の幸せを優先してしまっていいのだろうかって。だから、蓮美と話していると楽しい部分もあるけど、苦しくなってくるのも事実なんだ。楽しくしていると、あゆみの顔がちらつくんだよ……」
気楽に楽しく過ごしていたら、お父さんはそんな年齢で好きな人と付き合っているんだね、というあゆみの怨嗟の声が聞こえてきそうで、常に気を張っている。
でもあゆみは死んで、本当はなにを考えているのかもう知る術がない。
蓮見は真顔で息をつき、スプーンを一度置いた。
「本当に私との将来を考えてくれるなら、私はあなたの傷を一緒に背負っていくつもり。そのくらいの覚悟はある。だからなんでも言って。私もあなたと一緒にいたいと思うもの。娘さんに先立たれたんじゃ引きずるのも仕方がないと思うの。でも、もしかしたらあなたにはカウンセリングが必要なのかもしれない」
「カウンセリングねえ……」
恭介はため息をついた。
「離婚してから、心療内科に通ってカウンセリングを何度か受けたことがあるんだけど、何の解決にもならなかったな。診てもらっていたカウンセラーが半年もせず辞めて、他のカウンセラーが来たけど、そのカウンセラーもすぐに辞めた。結局中途半端に終わるんだ。また別のカウンセラーがきたけど、この人もすぐ辞めるんだろうなって思ったらまた一から説明するのも億劫になって、こっちから受けるのをやめたよ。カウンセラーによってやり方も違うし」
「そうなんだ……」
「一年も二年も根気よく見てくれるカウンセラーなんていないんだと思う」
「日本ってその辺、遅れているわね。アメリカじゃセラピーに当たり前のように相談するって聞いたことがあるけど。あなたは今、どうしたい?」
今後をどうするか、漠然としか考えていない。でも今したいことなら。
「できることならあゆみに会って話したい。なんで死んだのか、本当のところはわからないからな。でもそれも叶わないし」
「朝岡君に正直に話してみたら?」
思いがけない言葉が出てきた。カレーをすくったスプーンを止める。
「朝岡に?」
「彼、霊感あるでしょ。ご先祖がユタだったらしいの。もしかしたらあゆみさんとコンタクトが取れるかもしれない。それで楽になるなら、そういうのに頼るのも手かもしれないわよ」
「朝岡は確かに何か感じているらしいけど、どのくらい視えるのかわからないし。先祖がユタなんて、朝岡から聞いたことがないぞ。沖縄出身なのは知っているけど」
「あなたと初めて会った時の合コンで、あなたがトイレに行っている間話してたわよ。今朝岡君の実家にユタはいないらしいけど、先祖代々、朝岡一家は、霊に敏感なんですって」
「へえ……」
朝岡に頼ってみるのも一つの手か。でもなんとなく、職場の人間に娘が自殺したとは言い辛い。朝岡は気づいている、と薄々思ってはいるが。
とにかく蓮美を不安にさせないように、沙耶のことも話さなければ。
カレーをかきこみ、ご馳走様、と言って食器を洗った。
その食べ方に蓮美は驚いたようだ。
「どうしたの、いきなり早食いして、食器洗って……」
「もう一つ話があるんだ。君の誘いを断っていた本当の理由。一番話したいのはそれ」
席について、姿勢を正した。
「なら、落ち着いて聞く。待って」
蓮美もカレーを食べ終えて食器を洗うと、コーヒーを淹れた。
コーヒーが入るまでの沈黙は、やはりどこか気まずかった。
蓮美はコーヒーの入ったマグカップを渡す。
「ありがとう」
うん、と言って、蓮美は元いた席に腰を掛けた。信じてくれるかくれないかは、もう蓮美次第だ。そう思って切り出す。
「突拍子もない話かもしれないし、信じてくれないかもしれないけど、実は俺が今住んでいるマンション、幽霊が住み着いているんだ。二十歳くらいの女の子なんだけど……」
蓮見はぽかんと口を開けた。
「幽霊が、住み着いている?」
「そうなんだ。信じてくれ」
「それこそ朝岡君への相談案件じゃないの」
「朝岡も俺になにか憑いているとは言っているけど。最初に出会った時、娘と重ねてしまって約束したんだよ。成仏できないなら、させてやるって。それで、君の誘いを断って、彼女がしたいことを手伝っていたんだ」
蓮美はしばらくして笑い始める。
「なんだ。そうだったんだ。そう……そう」
「なにか可笑しかったか」
目じりに溜まった涙を拭いている。
「てっきり、明絵さんとなにかあったのかと思ってた。それで心配したり、やきもきしたり。バカみたい」
「明絵とは会わないと決めているから」
ひととおり笑い終えた後で、再び真顔になった。蓮美がどういう子が住み着いているのかと訊ねたので、これまでのありのままを話した。するとスマホで調べだす。
「三年前の殺人事件……天水沙耶……。あ、記事、あるわよ」
恭介にスマホの画面を見せる。確かにそこには、三年前の、数行だけの記事があった。
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