第6話


マンションの駐車場から車に乗って、最初に向かったところは、恭介が元住んでいた家だった。もう二年ほど近寄っていないが、家は変わらずそこにあった。


明絵も今、働いているのかもしれないが、なにをしているのかわからない。万が一ということもある。なんということもない、築年数が古い二階建ての家。白塗りの建物。


「ここだ」


家の前を通りすぎ、迂回して、家から離れた場所に車を止める。


「今のが福田さんがあゆみさんと一緒に住んでいた家ですか」

「そうだ。白塗りの家な」

「あゆみさんが霊になって彷徨っていないか確認するんですよね」

「ああ。明絵に見つかったらまずいから、俺は車から出られない。頼む、見て来てくれ」

「わかりました」


離れた場所に止めたとはいえ、家の外観は見られる。沙耶はするりと車の窓から抜けて、浮かんだまま家を一周する。そのまま中に入り、しばらくして出てきた。高く浮いて、屋根まで飛び、地上を見渡している。そうして車の中に戻って来た。


「どこにもいませんでしたよ」

「そうか。じゃあ……」


車を少し移動させ、あゆみが飛び降りたマンションまで行く。


真夜中に家を出たことも知らず、のんきに寝ていた自分を責めたい。


「見てきます」


沙耶は窓から出て行き、マンションの周りを飛んでいる。


三年前、現場を見に行けば血の跡があった。チョークで人型のマークが描かれていた。思い出して苦しくなる。


恭介は車でマンションの裏側へ移動した。


沙耶は高く飛んでいる。そうして十分ほどしてすっと車に入り込んでくる。


不気味だけれど、クローゼットでも似たように出入りしているので慣れてしまった。


「いませんでした。地縛霊にもなっていないみたいです。多分、私が前言ったとおり、天国に行っているのではないかと」


「そんな気、するか」


「はい、ビンビン感じますよ」


笑顔で言う。ほんのちょっと、救われた気持ちになった。証拠がないから完全に確証を持ったわけではないけれど、少なくとも地縛霊になっていないことに安堵する。


「他も見るとこありますか」


「いや、ない。じゃあ、行こうか」


「行きましょう、行きましょう! レッツ高額ステーキ!」


「お前なぁ……」

 

思わず呆れた声が出ていたが、沙耶の明るい声が暗くなっていた気持ちを打ち消してくれた。そのまま車で一時間ほど走り、ステーキハウスへ行く。


店内はすいていた。客は通常テーブルに、二名ほどしかいない。


店員に名前を言うと、個室に案内された。黒いテーブルと、黒い椅子がある四人掛けの席。個室とはいえ、扉はない。それに四方は壁ではなく黒く細い格子になっているので、話声は聞こえてしまいそうだ。店員は水をひとつ持ってくる。


「あ、お冷、二つ下さい」

「二つですか」

「すみません、異様に喉が渇いて」


そう誤魔化した。


「持って参ります」


店員は腑に落ちないような顔で去り、どうぞと水を持ってきてまた去る。


「広々使えそうですね」


沙耶は正面に座っている。嬉しそうだ。メニューがあったので広げて見せる。


「好きなの頼んでいい。高い肉が食べたかったんだろ? ここへ来て遠慮して一番安いのでいいとか言うなよ」


「本当にいいんですか?」


「いいよ」


沙耶はメニューを見て真剣に悩んでいる。本当にステーキを食べたそうな表情をしている。そうして目を離した。


「じゃあ、百五十グラムのステーキセットで」


呼び鈴を鳴らす。すぐに先ほどの店員がやって来た。


「百五十グラムのステーキセットを二皿」

「え。二皿、ですか」


店員は戸惑ったような顔をする。


「はい。今日は思いっきり食べたい気分なので、二皿頂きます」


営業スマイルを作って再び誤魔化す。店員は納得できないような顔で去っていった。


完全に静かになると、沙耶が言った。


「今度、仏様に会うことがあったら訊いてみましょうか。あゆみさんのこと」


「仏に会えるのか」


沙耶は頷く。


「最近は出会えませんが、以前は時々出会えていましたよ。いろいろな仏様に成仏を頼んだのですが、肩に手を置かれて頷かれたりして去って行かれて。誰もなにも私の成仏に関して言って下さらないのです」


困ったように沙耶は眉根にしわを寄せる。


多分、仏側――人間を超越した者の間で、沙耶に対してなにかしらの処遇が決まっているのかもしれない。そしてまだ、その時期ではないのかもしれない。


ではその時期がなにか、と考えても、それは恭介にわかることではない。


とにかく話をしよう。


「君のこと、俺はまだ何も知らない。知っておく必要があると思う。まずは生い立ちを教えてくれないか」


「生い立ちですか」


「ああ。どこで生まれてどう育ってきたのか。そもそも、君くらいの年齢の子がなんであのマンションに住めるんだ? 家賃結構するぞ。働いていたにしても、二十歳そこそこの子が住めるようなマンションではないよ」


「あのマンションは、叔父が借りていたんですよ」


前菜のサラダが運ばれてきた。黙る。


テーブル脇のバスケットにフォークとナイフが二人分置かれていたので、助かった。


店員が去ると、会話を再開させた。


「叔父さんの仕事は」


「海外の交響楽団の一員です。世界中を飛び回っていて、日本に帰ったときは寝るためだけに使っているようなものだから、好きに使っていいと言われて」


「楽器は」


「チェロですね」


世界的に有名な楽団なのだろう。


そんな叔父も、姪が死んだと知った時はどう思ったのだろうか。


「じゃあ、君のご両親も音楽にかかわる仕事をしているのかな」


「いいえ。父は銀行員で、母は中小企業の社員です。あ、母は私が高校生になってから正社員として働くようになって」


お金には困っていなかったのだろう。


「親はどんなだった」

「いい親でしたよ。ちゃんと愛情をかけて育ててくれましたし。厳しい面はありましたけど。むしろ私は悪い子でした」


沙耶は言って肩をすくめる。


「君がそんな素行の悪いような子には見えないんだが……」


前菜を食べ終えると、すぐにステーキが運ばれてきた。店員からしてみれば、なにか一人でぶつぶつ言っているようにしか見えないだろう。


だが店員は構わずにステーキ皿をテーブルに置く。一皿は恭介の前に、もう一皿は、適当なところへ置く。恭介が一人で食べると思い込んでいるから、当然、沙耶の前には置かない。ライスも二人前だ。


「ごゆっくり」


あまりゆっくりしてほしくなさそうな声だ。


ステーキは、ジュージューと音を立て、肉汁と、煙も出ていた。皿の端にはブロッコリーと人参、コーンが添えてある。恭介はステーキ皿を、沙耶の前に置いた。


「わあ、美味しそうですね」


「本当にうまそうだ」


「お肉食べるのなんて何年ぶりだろう。この前のアメリカンドックも」


沙耶はニコニコしながらナイフとフォークを取り出すと、頂きますと言ってステーキを切る。恭介も同じようにした。肉厚であるにもかかわらず、すっと切れる。高い店なだけあって、取り扱っている肉と調理方法には誇りを持っているのだろう。


一口食べると肉の味が弾けた。


「うまい!」

「美味しい!」


二人同時に叫んだ。沙耶は嬉しそうに二口目を食べる。


そうだ。この旨いステーキに気を取られている場合ではない。話もちゃんと聞かなければ。恭介は咳払いをした。


「それで、さっきの話に戻らせてくれ。君が素行の悪い子には見えないが、なにか悪いことでもしていたのか」


「はい。中学生の時も高校生の時も、門限破ってボランティアしていました。公園の掃除とかゴミ拾いとか、あとDVシェルターでボランティアしていたこともあります。困っている人の助けになりたくて」


喉の奥に米粒が引っかかってむせた。慌てて水を飲み、落ち着く。


「ボランティアをすることがなんで悪い子につながるんだ。むしろ逆だ」


「門限が六時だったんです。ついボランティアに夢中になって、帰ってくるのは七時とか八時とか」


「ボランティアなら親が許しそうなものだけど。門限破ったからって悪い子にもならないだろ? 悪い子だって怒られたのか」


「怒られることはなかったです。でも、門限を破ることに罪悪感が常に付きまとっていました。今でも反省しています。大学にも、行けませんでしたし」


今度は切ったステーキを口に入れ、むせないようにライスをゆっくりと噛む。


「大学に行きたかったのか」


「両親どちらとも大卒なので、二人の雰囲気からなんとなく、娘も大学に行くものだ、というような空気になっていました。あ、もちろん私も進学希望でしたよ」


「どういうことを学びたかったの」


「医学部目指したかったですけど、そこまでの頭がなくて。じゃあ、人のためになにができるかなと思ったら、看護も考えましたけど人の命を直に預かる現場は怖くて。私、天然なところがあるので、多分向いていないんですよ。手術の時、医者に言われた道具を間違えそうで。だから薬科大学か、福祉大学を考えていました。あとは専門学校になりますけど、理学療法士もいいなと思いました。お給料もいいですしね。でも親が大学へ行く以外の道を、許したかどうかはわかりません。専門学校の話をしたら両親の空気が険悪になりました」


沙耶は上品にステーキを食べている。育ちは本当に悪くないのだろう。


「人のためになにかするのが好きなんだね」

「はい。小さい時からずっと、なにかそういう使命感に燃えていたんです。若かったんですね」


いや、今だって十分若いだろう。そう言いたくなるのをこらえる。


「それで、大学には落ちてしまったの?」


沙耶はゆっくりと首を振る。


「大学受験、三校受けるはずだったんですけど。受験当日、道端で倒れた人がいて、救急車呼んでなんやかんややっていたら遅刻して受けられない状態に。他二校も、似たような現場に出くわして。なんか、倒れた人や迷子になった人に呼ばれるんですよね。それで人助けしていたらどこも受験できませんでした」


恭介は頭を抱えた。


「少しは人のことより自分の人生考えろよ」


「でも目の前で人が倒れていたら見捨てられないですよ」


「それで君の将来棒に振ったらもったいないだろ? 受験にかかるお金だって」


「それはそう思うんですけど、私よりも、倒れた人の未来があればそれでよかったんです。それに、親に出してもらった受験費用パーにしたから、やっぱり私は悪い子です」


どこまでいい子なんだ。というより、どこまでお人よしなんだ。


「学力はあったんだろ? 他も受ければよかったじゃないか」

「はい。でも、どこ受けても多分似たようなことが起こるだろうなって直感が働いて。多分、大学に入るなっていうことだと思ったんです。それに親にお金出してもらうのも悪いと思って、大学は諦めました」


もったいない生き方をしていたような気がする。


「諦めて、それでどうしたの」


「週四バイトに出て、お金貯めて専門に行こうかと。さっき言った理学療法士の専門学校です。週三はボランティアをしていました」


「親に頼めばよかったじゃないか。それに、ちょっと待って。それ、君の休みがない」


「休みはいいんです。でも、大学じゃなきゃ学費は出さないと言われました」


「親はエリート志向だったのか?」


「多分。世間体を気にする親だったと思います。でも体力は余っていましたからね。こう見えて体力はあるんです。そのバイト先で彼に出会って付き合い始めて……」


沙耶は悲しそうに目を細めた。


「なぁ。DVシェルターでボランティアしていたことがあったんだろ? DV彼氏だったならそこで匿ってもらえればよかったんじゃないか」


沙耶は肉を食べかけたまま、ナイフとフォークを置く。


そして笑顔で言った。


「それが当事者になると気づかないんですよね。あ、なんか私殴られている、って感じで神経と判断力が麻痺して。洗脳されるんですよ。殴られる私が悪いのだと。そして殴られていることも普通になってくる。もちろんその時は嫌な気持ちになるんですけどね、でもなぜ嫌な気持ちになるのかもわからなくなるんです。DVシェルターでボランティアしていたのにDVで死ぬってなんか間抜けですよね。しかも彼氏のあの行動はDVだったって気づいたの、死んでからなんですよ」 

「そうか」


自己犠牲的な行動は目に余るけれど、人の役に立ちたいという彼女自身の行動は立派だ。


なのになんでそんな彼氏に捕まってしまったのだろう。そうだ、俺も明絵の癇癪が不快だとはっきり気づいたのはあゆみが死んでからで、判断が、頭が鈍っていた部分もあった、と恭介は思う。明絵の癇癪も感情のままに怒鳴ることも一種のDVに入るのだろうか。そして、そんな母親と幼いころからいたあゆみはもっと耐えられなかっただろう。


しかし、善行を重ねた人間が、最後は殴られて死ぬなんて、神も仏もあったもんじゃない。恐怖だってあっただろうに。


「まあ、生い立ちはこんなものですね。小学生の時は友達と仲良くしていましたし、ごく普通の子でした」


そう言って、またステーキを食べ始める。美味しい、と言いながら。


「彼のことはどう思っているんだ」


「今は何の感情もありません。でも、仮に生きていたとして、よりを戻したいかと問われたら、さすがに戻したくないですよ」


「そりゃそうだ」


「ただ、あの彼が出所した時、また他の女性に暴力振るわなきゃいいと思います。本当に真に、それだけを願っています。シェルターでは顔が紫色になったあざだらけの女性を結構見ましたから。暴力や性被害に苦しむ女性はなくなってほしいです。男性も性被害にあうこともあるようですから、男性も、ですかね」


沙耶はいい子過ぎて、なんだか怖い。恭介はそんな印象を持った。

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