第4話


幽霊との奇妙な共同生活を、五日ほど続けた。


沙耶はクローゼットの中が気に入っているらしい。夜はいつもそこで休んでいる。


そうして、朝食と夕食を作ってくれるようになった。


それ以外はいつもどおり働いている。


「今日もお客、ほとんど来ませんねえ」


朝岡が隣で呟く。


「まあ、待つしかない」


掃除に在庫管理に、品出し、発注。お取り置きのお客への対応。


店でのやるべきことはすべてやり終えている。


午後三時。恭介は遅番だ。フリーターの深沢も、暇そうにしている。


店はレジから見て三方向に陳列棚があり、右側半分からメンズ、左側半分からがレディースになっている。中央にも陳列棚が二つある。


「それにしても売り上げなんとかなりませんかね。昨日も八万です。来た客が十人に満たなかったということですよ。なにか対策練ったほうが……うわっ」


朝岡が突然武者震いを起こした。


「どうした」

「福田さん、最近なにかヤバいことなかったですか」

「特にはないが……」


沙耶と出会ったことは、別にヤバくはない、と思う。いや、ヤバイ。

成仏できない幽霊と生活しているのはヤバい。感覚がマヒしている。でも黙っておく。


「うーん。俺の霊感が、ずっとなにか告げているんですよね。福田さんに霊が憑いていると思うんですけど、今は見えないですし。そのせいで売り上げも悪くなっているような……。最近、お気に入りの店も潰れませんでしたか」


ああ。こいつ、そこまで見抜けるのか。そう思った。


「気に入っていた弁当屋が潰れた。それだけだ。朝岡って霊は見えるのか」

「見えますよ。さっきも言ったとおり今見た限りじゃ福田さんになにも憑いていないんですよ。でも何か俺の見えないところでもわもわーっとしたものを感じるんですよね。ずっと違和感があるというか」


詳細は知らなくても勘づいているのだろう。


「幽霊がいると、売り上げが悪くなるのか」

「売り上げ、もですが運が悪くなりますよ」

「そういうものか……」


売り上げが悪いのは沙耶のせいなのだろうか。そういえば、サマーセールも、去年はアルバイトが忙しすぎて涙ぐみながら接客に応じていたが、今年はそうでもなかった。靴が期待したほど売れなかった。沙耶がクローゼットに隠れていたせいだろうか。


革靴の需要もそんなにないのでは、と思う。一足か二足買えば、数年は履けるものだ。


今は、秋の新作として男性に好まれそうなシンプルな革靴と、女性用のブーツを並べている。レディースは種類が豊富だ。それに、男女問わず秋冬用のスニーカーも三種類ある。紅葉シーズンに入れば旅行に行く人も増える。売れることに期待しよう。



客が一人、入って来た。女性だ。いらっしゃいませ、と声を張るも、陳列されている靴には目も向けず、つかつかとこちらへやって来る。そうして、紙袋からローファーを取り出し、ゴロリ、とレジ台に置いた。



「すみません、これ、ローファーの縫い目が少しほつれているんですけど、新品に変えていただけませんか」


三十代くらいの女性客は憤ったような表情で恭介を見ている。深沢が不安げにこちらを見ていた。


「ちょっと拝見させて頂きますね」


ブラウンのローファーを見る。確かにダイアンのシューズだ。二十年以上店頭に立っているが、こういう客はたまにいる。すかさず靴裏を見た。もう何回か履いているものだ。


こういうものは交換できない。それに、縫い目は綺麗だ。


「どこもほつれていないように見えますが」

「ここですよ、見てください」


女性は苛立ったように縫い目を見せる。よく見ると一か所だけ、糸が二重になっている個所があった。


「ああ、これはほつれているのではなく、糸をここで留めているのです」

「気に入りません。新しいものに交換してください」

「申し訳ございません。お客様はもうその靴をご使用されているようですので、交換はできません。それに、その靴はそういう仕様となっております。どれも同じですよ」

「取り替えてもらえないの? なら本当に他と同じようになっているのか見せてよ」


女性は半ば叫ぶように言った。


朝岡と顔を見合わせる。朝岡は肩をすくめていた。恭介は同じローファーの色違いを在庫棚から持ってくると、箱を開けて見せた。少しの差はあれど、どこも一か所だけ二重留めがなされている。女性はそれからも難癖をつけてきた。


こんな靴、買うんじゃなかった、とか、もうこの店には来ない、とか。散々喚くだけ喚き散らし、こんなローファーもういらない、と靴を恭介に投げつけ去っていった。

朝岡が飛んでくる。


「今の、罪になるかもですよ。警察呼びます?」

「いや、いいよ。ああいう客はたまにいる。いちいち警察を呼んでいたらきりがない」

「でも、靴投げつけられて、手の甲、怪我していますよ」


見ると確かに手が赤くなっていた。親指の付け根部分から血も出ている。


「まあ、このくらいなら妥協するよ」

「人良すぎません? まあ、また難癖付けに来たら俺が警察呼びますよ。許せません」


深沢も走り寄ってきて、奥の従業員スペースに置いてあるバッグから消毒液とポケットティッシュ、絆創膏を取り出した。


「よければ使ってください」

「ありがとう」


客もいないので、その場で消毒をして絆創膏を貼らせてもらった。靴は捨て、レジ台もアルコール消毒液で綺麗に拭く。まあ、これも仕事のうちだ。接客業は耐え忍ぶことから始まる。接客業に理不尽に怒る人間というのは男女問わずいるのだ。



陳列されている商品に傷がないか、盗まれていないかを朝岡と深沢でひととおり確認し、なにもないので元に戻る。一人、季節が深まったら去年ここで買ったブーツを履くから磨いてほしい、という客が来たので、深沢が仕事をし始めた。



しかし、靴は売れない。靴磨きは千円だ。自社製の馬毛ブラシで汚れを取り、手入れ用のクロスを使って透明なクリーナーと、ブーツの色に合わせた黒いワックスを塗る。


屈みこんで一生懸命磨いている深沢をちらりと見た。彼女も二十四歳。話によると、両親と弟がいるそうだ。仲がいいという。でも父親とはあまり話さない、とも言っていた。



父親ってなんだろう。ふとそんなことを思う。日本にはまだ、母親が子供の面倒を見るという風潮がどこか根強く残っているが、恭介だってそれなりにあゆみに愛情をかけてきたつもりだ。役割、というものがあるのだとしたら父親の役割ってなんなのだろう。



息子だったら違ったのだろうか。幼いうちはキャッチボールかなにかして深いコミュニケーションでもとって、絆を強固なものにしていけたのだろうか。



でも娘との距離は。付き合い方は。なかなかに難しいものがあった。恭介自身、あゆみにどう接すればいいのかわからないことも確かにあった。


あゆみがやりたがることに関しては、なんでも応援するつもりだった。やりたいという習い事もさせたし、行きたがる場所にも幼い頃は連れて行った。ただ、成長するにつれて言葉のやり取りが少なくなっていった。


高校生、大学生のあゆみはなにを考えて生きていたのだろう。母親との確執に、もっと気を配るべきではなかったのか。明絵は友達の家に泊まりに行くことも許さなかった。もっと、母と娘の確執に介入していくべきではなかったのか。 



恭介のいないところで、知らないところで、あゆみにとって精神を削るようなやり取りもあったはずだ。それを、見過ごさなければよかった。後悔がどっと押し寄せる。


「福田さん、落ち込まないでください」


朝岡が真面目な顔をして言った。はっとする。お客に怒鳴られ落ち込むな、と言ったのだろうか。それとも、恭介の心を見通して言ったのだろうか。


「落ち込んでいるように見えるか」


恭介は愛想笑いを浮かべた。


「見えますよ。なにも気にしちゃだめです。責めるのもだめです」


深沢が朝岡を見上げ、不思議そうな顔をしていた。


「私には店長が落ち込んでいるようになんて全然見えませんけど。さっきの怒鳴ったお客様のことで落ち込まれたのですか」


やっぱりそう思うよなぁ、普通。あまりに理不尽な態度の時は腹の立つ思いもするけれど、お客に怒鳴られることは、もう仕事として割り切っているから何とも思わない。


「さっきのお客のことなら大丈夫だよ」

「福田さんには深い事情があるんだよ」


朝岡が深沢にそう言っている。やっぱり見抜かれているのだ。


「深い事情ってなんですかー」


いっそのこと、朝岡に相談すれば気が晴れるだろうか。


時計を見ると、午後四時前だった。迫田がやって来る。


「おはようございます」


挨拶が飛び交う。


明日は休みだ。朝岡が一人で回してくれる。


土日関係ない週休二日制。社員は二人しかいないから、どうしても週に二日は開店から閉店まで一人で働かなければいけないことがある。


「深沢さん、それ終わったら帰っていいからね」


ブーツは見違えるほど綺麗になっている。


「はい」


深沢は靴磨きを終えると、迫田となにか話をして、入れ替わるように帰っていく。


六時になると、朝岡も帰り支度を始める。


「明日はよろしくな」

「はい。ちゃんと仕事しますから、ゆっくり休んでください。お疲れさまでした」

「お疲れ」


蓮美から明日うちに来ないか、とラインが来たが、断ることにした。

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