第3話


リビングは、荒れていない。部屋中を見て回ったとき、どこの部屋も荒らされていなかった。


なにか盗まれたか?


通帳やキャッシュカード、マイナンバーカード等を確認するが、なにも盗まれていない。 


侵入者はご飯だけ作って去った? それともまだどこかに隠れている?


動機はなんだろう。


気味が悪くて食べられない。捨てるのももったいない。


ポタリ、と音がする。冷汗をかきながら振り返ると、キッチンの蛇口から水滴が落ちていた。蛇口は硬く締めるから、水は漏れないようにしている。誰かが、使ったのだ。


鳥肌が止まらない。


リビングで大声を上げた。


「これ、作った奴がいるなら出て来い。気持ちが悪くて食べられない。捨てるぞ」


本当はお腹がすき切っている。食べたいのを我慢して叫ぶ。


「えっ。え、捨てないでください。せっかく作ったのに」


慌てたような声がした。心臓を唸らせながら振り返る。


リビングにある広いウォークインクローゼットから若い女性がぬるりと上半身を出した。


クローゼットは閉まったままだ。


「ぎゃあああっ」


叫んで、恭介は数歩あとじさった。女性はそのまま音もなくクローゼットから出てくる。


白い長袖のワンピースにストレートの黒髪。どこか儚げだが、純粋そうな目をしている。


さっきクローゼットも確認したのに、誰もいなかった。


「誰だ?」

「大声出さないでください。警戒もしないで。悪いものじゃありません」


警察を呼べるタイプのものではない。人間ではない。そう瞬時に理解する。


もしかしたらあゆみの幽霊ではないか。そんなこともちらりと、本当にちらりと考えた。


だが、目の前にいる女性はどう見てもあゆみではない。


黙り込んでいる恭介に、若い女性は明るく笑った。


「ごめんなさい。驚かせて。私は天水沙耶。三年前までこの家に住んでいたけど、死んでしまって行くところがない幽霊です。成仏できないんです」

「幽……霊?」


驚きすぎて恭介は半ばへたり込むように椅子に腰を掛けた。心臓がまだ唸っている。


沙耶は続ける。


「その、普段はクローゼットにいて。でも、あなたの顔色があまりに悪いから、お仕事忙しいのかなと思って、夕飯を作らせていただきました。私、物理に干渉できるみたいだし。この家に住む人は、私のことが見えるみたいで。これまで借りた人みんな私を見て出て行ってしまったから、見つからないように隠れていたんですけど。あ、正面いいですか」


恭介は頭が真っ白になったままただ頷く。


「クローゼットを毎日開けていたのに全然気づかなかった……さっきも」

「見つからないように動きに合わせて隠れていましたから」


いつも、幽霊にクローゼットの奥から見られながら、服を選んでいたのか。


想像するとぞわりとする。軽くホラーだ。


だが。恭介はまじまじと沙耶を見つめた。真っ白になっていた頭が回転しだす。


成仏できない幽霊、が目の前にいる。


あゆみもそうなのだろうか。どこかで、お父さん助けて、と泣いているのではないか。


「あ、食べてください」


沙耶は笑顔のまま言う。得体は知れないが正体はわかったので食べることにする。というより、わざわざ買ってきた魚と米を捨ててしまうのは本当にもったいなかった。


「頂きます」

「召し上がれ」 


白米を眺めながらふと思う。幽霊と向き合ってみたら、なにか変わるだろうか。

話は通じるし、怖くない。いや、ちょっと怖い。でも、とにかく事情を聞かなくては始まらない。無言でここにいられるのも不気味だ。恭介は頭を整理し、冷静に言う。


「少し話をしようか」

「はい」


箸をつける。ぶりの照り焼きは、甘辛く、美味しい。蓮美の味付けとも違う。


そういえばコンビニから買ってきたアメリカンドッグがある。


「物理干渉ができるということは、それ、食べられるのか」


沙耶は恭介の視線のやった方向に目を向ける。


「なんですかこれ」

「あけて、食べられるなら食べていい」


不思議そうな顔でビニールからホットスナック用の袋を取り出す。


「アメリカンドッグですね。食べるの久しぶりです。頂きます」


沙耶の目が輝く。一口食べて、幸せそうな顔をしている。


まるで生きている人間を相手にしているかのようだ。


「それで。君は亡くなっているんだよな? いくつ」

「二十歳の時に死にました。三年経っていますから、今は二十三になるのかもしれません」


二十歳。あゆみと同じだ。あゆみも生きていたら今二十三。


「どうして死んだのか訊いてもいいか」

「彼氏に殺されました」


別段彼氏を恨んでいないような、あっけらかんとした声で言う。


だが、恭介の心にはじわじわとした重たいものが広がっていく。今どきのよくある事件。でも、ニュースで聞いたときに感じるような、複雑な感覚が襲ってくる。


そしてはっとする。


「まさか、ここで殺されたの?」

「いいえ。一人暮らしをしていた一軒家の彼の家で。彼の親の別宅だったみたいです。キレて殴られて、階段から突き落とされて、まずい、と思った時には体から精神が抜けていました」


そのまま死んでしまったのだろう。なんとも気分の悪くなる話だ。


「その彼は今どうしている」

「刑務所の中です」


反省しているのだろうか、その彼氏は。こんな子をキレて殴って階段から突き落として殺すなんて、悪質極まりない。本当に世の中どうかしている。


こんな子が成仏できないのなら、あゆみは今、どこでどうしているのだろう。


お父さん、助けて。


今にもそんな声が聞こえてきそうで、目頭が熱くなった。箸を置き、両目を押さえる。


「え、どうしたんですか。泣いているんですか。ご飯まずかったですか」


沙耶は慌てたように言う。


「いや、ご飯は美味しい」

「ならよかったですけど」

「俺の……」


涙が、テーブルの上に滴り落ちた。


「俺の娘も君と同じ年齢で自殺したんだ」

「えっ、え? そうなんですか。出会えていたら友達になれていたかもしれないですね」


それは生きていた時の話だろうか。それとも死んでから?


「娘さんが亡くなられて、苦しいんですね。ああ、だから顔色もずっと悪いんですね」


恭介は指で涙を拭った。


「同い年で、髪型も同じだから君と娘が重なって見える……。自殺すると成仏できずに何百年も苦しむとか、地獄に落ちるとか、地縛霊になるとか聞くけど、あゆみはどうしているだろう。まだこの世を彷徨って苦しんでいるのだろうか」


「娘さんはあゆみさんっていうんですね。えっと、うーんと、多分大丈夫ですよ。私が感じるに、あゆみさん、成仏できていると思います」


思わず顔をあげた。沙耶はこめかみに人差し指を当てている。


「わかるのか」

「なんとなくですけど」

「でも自殺だぞ?」


沙耶はゆっくりと首を振った。


「幽霊になってから、幽霊を見るようになりました。亡くなった方は、大抵仏様が迎えにいらしています。自殺した方も、仏様がやってきて成仏させていますよ。仏様は、事故死、病死、自殺した方の、差別も区別もしません。自殺した方も、病死した方と同じくらい苦しんでいたのでしょうから、病死に入りますよ。実際仏様からそう聞いたことがあります」

「ならなぜ、君は成仏していないんだ?」


訊ねると、沙耶は首を傾げた。


「なぜでしょう……。わかりません。死んだときすぐに仏様がいらしてくださったのですが『あ、あなたは』。と意味深なことを言われて去っていかれました」

「気になるな、それ」

「はい。なにかあるんでしょうけれど」


あなたは。その続きはなんだろう。なぜそれ以上のことを言わずにスルーしたのだろう。


「未練か心残りがあるんじゃないのか」

「あるんですけど……他の幽霊になった人にもあるはずですよ。なんで私だけ成仏できないんでしょう」


喋っているうちに、心が落ち着いてきた。沙耶は悪い子ではないし、悪い幽霊でもない。


あゆみのことも教えてくれた。確信が持てるまで確認する必要があるけれど。


「どんな未練があるんだ」

「お肉が食べたいです。牛肉。高いやつ」

「はぐらかすな」

「でも本当なんですよ。最近、お肉が食べたくて仕方がないです」

「君は本当に成仏したいのか」

「したいですよ。この世を彷徨っていても何をしていいのかわかりませんし、結局ここに戻ってきてしまいますから」


仏の意思があるなら、それに任せるしかない。でも人間にできることがあるならしよう。


「わかった。じゃあ、君の未練をひとつずつ消化して、成仏できるようにしてみようか」


いつまでもこの部屋にいられても困る。それに、殺されて成仏できないのもやるせない。


「ありがとうございます。そんな協力をしてくださる人、初めてで嬉しい。三年間独りぼっちでしたから」


沙耶は目に涙をためていた。本当に嬉しくて泣いているのだろう。


「その代わり条件がある」

「なんですか」

「あゆみが本当に成仏しているか、確認したい。俺は外でも君のことが見えるのかな」

「わかりません。でも、一度見えたら脳が認識するので私のことはどこでも見えると思います。せっかくお付き合いしていただけるんです。私のことは沙耶って呼んでください」

「お付き合いって、その言い方はまずいだろ」

「言われてみれば、そうですね」


二人で顔を見合わせ笑った。そうして、沙耶は協力する、と言った。 


食事も、もう警戒心なく平らげてしまった。



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