第2話
三年前、娘のあゆみが飛び降り自殺をした。二十歳だった。
真夜中にそっと家を抜け出し、近所の十階建てのマンションの十階から飛び降りたのだ。
恭介は明け方、電話で起こされ知った。慌てて元妻の明絵と駆け付けた病院先で、死亡が確認された。遺体は無惨な姿になっており、明絵は絶叫し、恭介は途方に暮れた。
死亡確認後に家に帰ると、部屋の机に遺書があった。
『もう、生きることに耐えられません。ごめんなさい。死にます』
筆跡は確かにあゆみのもので、警察も、その遺書をもとに自殺と結論付けた。
あゆみは過干渉で癇癪持ちの明絵と、普段から距離を置いていた。明絵に自殺した心当たりがないかと落ち着いて問い詰めてみると、あゆみの彼と別れさせた、と言う。
あゆみが思春期になって恋をするたびに、明絵はその恋の邪魔をしていた。
注意すると、癇癪を起した。明絵は癇癪もちで、すぐに怒鳴るタイプの女性だった。
あゆみが高校生の頃、夜遅く、恭介に泣きながら吐露したことがある。
お母さんは、私を否定ばかりして、操り人形のように自分をコントロールし、恋の一つも許してくれない。娘を男にやりたくない、結婚させずにいつまでも自分のもとに置いておきたい。そういう自覚していない深層心理が働いている、と。
それは精いっぱいの娘のSOSだったのだろう。それを聞いて明絵と話し合おうとしたが、すぐに癇癪を起こし手に負えなくなる。まともに話し合える人間ではなかった。若い頃、付き合っていた時はそうではなかった――いや、もともとの気質を隠していたのかもしれない。結婚してから、癇癪をよく起こすようになった。
あゆみが大学に合格した時、家を出たいと言い、恭介が許しても明絵は許さなかった。
好きにさせてやれと激しい口論をしたが、恭介が何を言おうが、明絵は聞く耳を持たない。腹立たしかったが、手をあげるわけにもいかなかった。
だが、明絵ばかりを責められない。癇癪を起すたびに委縮していた恭介にも問題がある。
なんでもっと、娘に寄り添ってやれなかったのだろう。妻を捨て、あゆみを連れて逃げ出す選択肢もあったのではないだろうかと、今も後悔する日々だ。父親としてもっとしっかりしていれば。今もそう思う。
結局、恭介も家族三人で暮らすことを選ぼうとしていたのだ。
父と母と子がいる。それが無意識に刷り込まれていた家族像だったからだ。
明絵はあゆみが死んでから恭介に当たり散らす日々だった。
耐えきれず、二年前に離婚した。家の所有権は明絵にあったので、恭介は家を出た。
離婚したと知ると、朝岡はあっという間に社内合コンをセッティングし、恭介を半ば強引に出席させ、そこで「ダイアン」の本社に勤めている岡本蓮美と出会った。
娘が自殺したことは、その時は誰にも言っていなかった。通夜と葬式を行うため、会
社に娘が亡くなった、と報告はしたが自殺したとは言っていない。
今でも蓮美以外誰にも言っていない。
でも朝岡は気づいているのではないか、と思う。それだけ鋭い霊感があるのだ。
朝岡のセッティングした合コンは離婚して気を落としていた恭介への配慮だったのか、ただの軽いノリだったのか、朝岡自身、彼女を作りたかったのかは不明だ。
蓮美とは気があい、連絡先を交換し、深く付き合う仲になった。一緒にいると穏やかな気持ちになれる。
今、蓮美は三十八歳。恭介は四十七歳。
明絵とは大学時代の同級生で、卒業後一年も経たずに結婚した。明絵に未練はない。
勝手にしろ、という思いだ。ただ、あゆみに対して親としての責任を果たせず、自分は違う女性と付き合っていいのかと、いつも迷いとうしろめたさがある。蓮美の家に
泊まりに行くこともあるが、どこか暗い影が付きまとう。
今日は自分の家に帰ろう。いつもの弁当屋で弁当を買って。一人でのんびり過ごそう。
最初はワンルームマンションを借りて過ごしていたが、部屋の狭さに耐え切れず、半年前に2LDKのマンションに移り住んだ。
二十年以上ダイアンで働いている正社員だ。株式投資もしている。給料も毎月入るし、ボーナスも出る。住む家くらい贅沢をしたかった。
本当は家を買えるくらいの貯金――金銭的な余裕もある。ただ老後の資金にするか迷っているのと、家を買うための精神的な余裕がなかった。
疲れた。仕事自体はそんなに大変ではないのに、なにか、いつも疲れている。
顔色、そんなに悪いのだろうか。迫田の言ったことを気にして電車の窓に映った顔を見るも、自分では全く分からない。
駅ビルの最寄り駅から三駅先で降り、改札を抜けて踏切を渡る。
零時まで営業している弁当屋に立ち寄ろうとして、愕然とした。
いつも夜道から光がこぼれている弁当屋が今日は真っ暗で、動かない自動ドアの前に貼り紙がしてあった。
『当店は九月三十日をもって閉店しました。長い間ありがとうございました』
客もたくさん入っていたし、お気に入りの弁当屋だったし、それなりに繁盛していると思っていたのだが。
仕方がない。コンビニ弁当にしよう。
そう思って、弁当屋の通りにあるコンビニへ行く。コンビニまでは美容院、昔ながらの喫茶店、コインランドリーなどが並び、コンビニとコインランドリーが煌々と光っている。
弁当はみんな売り切れていた。ため息が漏れる。帰って何か作ろう。休日に、ぶりを買って冷凍したはずだ。なにも買わずにコンビニから出るのも忍びないので、レジ横にあるアメリカンドッグを買って、袋に入れてもらい家に帰る。
通りを一本外れた、五階建てマンションの三階まで登り、鍵を開ける。
いつものように真っ暗な部屋。
廊下の電気をつける。直進してドアを開け、リビングの電気もつける。
なにか、匂いがした。匂いの方向に視線をやり、思わず声を出した。
「え……」
四人掛けテーブルの上に、ご飯が並べられていた。寝室よりも、リビングを主に使いたかったので、一人しか使わないのに四人掛けの白いテーブルを買っていた。
そしてテーブルの上に置かれているものは。
ぶりの照り焼きに、白米、みそ汁、サラダ。
これを作ったのは蓮美以外に考えられない。
「蓮美、いるのか?」
そう叫んで、部屋中を見て回る。部屋の構成は、リビングにウォークインクローゼット、リビングのすぐ左隣に並ぶように二部屋ある。廊下にバス、トイレ。
「いるなら、なんで電気をつけないんだ? ふざけているのか? 返事をしてくれ」
蓮美はふざけるような性格じゃない。家の中のどこにも蓮美はいない。
ラインの通知音が鳴って見てみる。
『仕事お疲れ。今、ご飯と一緒にビール飲んでる』
写真が送られてきてぎくりとした。
写真は紛れもなく蓮美の家で、炒め物とビールの缶の写真が映されていた。
『うち、来てない?』
『え、行ってないよ』
一気に鳥肌が立ち、寒気がしてきた。
なら誰だ? 恭介はテーブルの先に視線を落とす。こんなご飯を作ったのは。
ぶりは確かに、この前の休日に買ったものだ。炊飯器の中を見る。炊いた覚えのない
白米が、そこにはあった。
「誰かいるのか?」
警察。
瞬時にそう思うが、誰かが部屋に侵入して食事を作った、と言ったところで警察は動くのか? 侵入者がわざわざ手間暇かけて料理なんてするのか?
なんのために。
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