境界と限界のアトリエ

ソウカシンジ

第1話 焼き直しとビンタ

人通りが疎らな火曜日午前十一時半。街を光の幕が覆い、影の輪郭が際立っている。そのコントラストに目が眩んで、熱を持ったベンチに座り込むと尻と背中、支えにした左手が熱さと擦れるような痛みを覚えた。僕はいつも通り通院を終えて帰宅する途中。しかしながら、今立ち上がってもまた直ぐに腰を下ろしたくなるだろう。僕がそういう人間であることは僕が一番知っている。この眩しさに目が慣れるまでの少しの間、街を眺めることにする。淀みと清純が共存した空気が流れる昼前の東京は、淀みだけが濃く溢れ帰った陰鬱な朝とは異なるものの、人を苦しめる奇妙な感覚がある。

 日光に目を細め、手をかざしながら歩く人々。日傘を差している人を見かけることも珍しくなくなった。そんな人々の足元から伸びる影はやはり、各々の社会的属性と人生経験からなる微々たる情景を、黒くはっきりとアスファルトやタイルといった平面上に投影している。革靴、ヒール、サンダル、スニーカーもそれぞれの足音を立てながら無作為に交差し、不揃いな足音を立てる。面白い。

「これは、描きたい。」

唇が震え始め、手が徐にリュックサックのファスナーを引く。視線は「昼前の東京」に釘付けのまま、その瞳孔の震えが僕自身にまで伝わってくる。スケッチブックと2B鉛筆が僕に引き寄せられる。リュックサックの中から、僕の手によって。ゆっくりと、確実に。

ギリギリと力が入って、僕の手に収まった鉛筆に伝わる。息を呑み、口角がクイッと上がる。そして今、描き出す。心のままに。

 「バチンッ!」

鉛筆がスケッチブックに触れかけた、正にその瞬間。その弾けるような音と共に、頬に痛みが走った。痺れるように、燃えるように痛く、熱かった。痛みの直後、自分の身に何が起こったのかを考えた。耳元でデクレッシェンドに響き続けるその音は、未だに誰かがそう叫んだように鮮明で、僕に痛みの種類を教えてくれた。ビンタだ。ビンタの痛み、ビンタの音。僕の脳内で今、検索がヒットした。

では、このビンタは誰の手によるものなのか。その答えはその人自身が教えてくれた。

「描いちゃ駄目!」

百花(ももか)だ、百花の声だ。スケッチブックから顔を上げると、逆光で影を纏った百花がいた。その顔には不安と焦りが複雑に折り重なった、とても強い怒りが見えた。

「ごめん、つい。余りにも綺麗な景色だったから描きたくなっちゃって。母さんと父さんには秘密にしてくれないか?」

「その台詞も、このビンタも、もう何回目よ。私だって何もしなくて良いなら、こんなことしたくないわよ。貴方の両親からお目付け役として圧が掛かってるの、知ってるでしょ。」

「本当にごめん。いつも迷惑かけて。ところで、百花にビンタされたのってこれが初めてだよね?」

「さっきの台詞もその台詞も、あんたが熱中して私がビンタする度に言ってるわよ。」

「えっ、そうだっけ?ごめん。実は僕、熱中すると記憶が失くなるみたいで自分でも困ってるんだけど。」

「その台詞も以下同文。帰るわよ、早くしないと催促の電話がくるんだから。」

「うん、帰ろう。」

 溜め息を吐く百花は、呆れた顔をしながらも僕に目を合わせて、僕のリュックサックと自分のショルダーバックを両肩に掛ける。

その肩に向かって、覚えのない感情と共に不思議と手が伸びていた。

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