第10話 「ら抜き言葉」に市民権を!
我が子が変な言葉遣いをしだして辟易とする親は多いと思う。
省略した言葉や造語、ネット用語や方言なんてこともあるかもしれない。
私もうちの子の小さい頃、キモいだのなんだのという言葉にゾッとした覚えがある。
崩れ行く日本語が本当に心配だった。
その頃読んだ言語学者の論文かなにかで考え方を180度変えることになる。
日本語は延々と変遷を繰り返し今に至るが、何、心配する事はない。
どんなに言葉が崩れたと思っても、日本語の根幹の部分は損なわれることは無い。
昔も今も根っこは影響されることなく生き続ける、そういった内容だった。
おおらかで時代の言葉に理解を示す考え方は、正しいものとして胸に落ちた。
(乙女はやっぱり腹じゃなく胸に落ちたい)
現代に平安期や江戸期の言葉を喋る人がいたら、正しい日本語と言えるわけもない。
そう言う事だ。
歌は世に連れ人に連れ-----とよく言われるが、私は言葉もそうだと思っている。
漱石が崩れた日本語を嘆く話しがあって、その一つが今では当たり前の言葉だった。
言葉は失念してしまったが、こんにちは、というくらい普通の自然な言葉だった。
漱石からみたら崩れた日本語を操る私たちも心配する事はないのである。
最近ずっと気になっているのが「ら抜き言葉」だ。
あまりにも気にしすぎて、こっちが「行ける」と言おうものなら即座に訂正が入る。
「行かれる、よ」
いや、その助詞の使い方、一般的じゃないから!
「行かれる」は文法的間違いではないけれど、可能動詞の「行ける」が正解だから!
ここまで「ら抜き言葉」を気にするようになったのは何故だろう。
こう気にすると、自然な会話ができなくなる。
「ら抜き言葉」は尊敬語と混同しないために進化してきた言葉だと私は思っている。
これぞ昭和の遺産ともいうべきものだ。
まさに世に連れ人に連れの柔軟さを言語学界には発揮してもらいたいものである。
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