…………2-(4)
自分が少しずつ崩壊していくのを、感じる瞬間がある。自分が自分でなくなっていく。それをどこかで、冷静に見て知ってもいるが、どうしようもなかった。深沢は、生徒と生徒のレッスンの合間に、ソファで頭を抱えることが多くなった。
なつめの存在が此処まで大きくなっていたとは、正直驚きだ。
「………」
競技会に未練があったことは確かだ。あと数年で、今の立場にケリをつける予定だった。それは今ではなかったはずだ。
それがどうだ。
なつめがいなくなって、改めて重大さを感じた。
ダンスが楽しくないのだ。誰が立っても、隣に虚無感しかない。ふいに残像のように現れる。スレンダーな体に、長い手足、自信に満ちた眩しいくらいに輝いている存在。自分を見上げる茶色の瞳は、いつも潤んで真っ直ぐに見つめる。恥かしそうに照れたように笑う顔を見ていると、思わず抱き締めたくなる。
「………」
心が求めている。愛しいと───。
「何やってんだ……」
帰って来ないなら、迎えに行けばいい。ただ、躊躇している。
鷹東になつめの様子を聞くと、元気らしいということで、安心はしている。でも、離れて行ってしまったことに対する、ショックは拭いきれない。
マンションに戻っても、一人の広さにより感じる寂しさ。リビングの暗闇のなかで、外の明るさを見つめた。ここにひとりでいる事が、休息だと思っていた。なのに、眠りは浅く、傍らの温もりを探して何度も起きる。此処に休息の場所はないと、頭を抱え込んだ。
「───」
『こもれび』から足も遠のいてしまった。もしかしたら、なつめの方が避けているのかも知れないと思うと、二の足を踏んでしまう。あんなにダンスだけを追い求め、愛し続けた深沢が、ダンスから逃げ出したいと思うほど、すべてが最悪の状態だった。
優美とのレッスンは、己の戒めだ───。
だからダンスを踊っていても、楽しくもない。競技会でさえ、ただ義務のような使命感だけになった。先を見ることもない。そんな無気力な深沢を、生徒は不安そうに遠くから見るだけだ。
深沢が何も言わないのを良いことに、教室のなかは、身代わりを暴露した、優美の独壇場となっていた。生徒の何人かは来なくなってしまった。
深沢自身も気力がなくなり、競技会に専念する為、という理由付けをして、数週間だけ教室も休みにした。夏川は忘れ物を取りにきた時に、ソファに座っている深沢を見て、思わず声を掛けた。
「先生、大丈夫ですか?」
「ああ…」
「なつめさんに会いましたか?」
「………」
深沢は目を閉じた───。
今は自分が言い出した競技会を終えなければ、なつめに会いに行けない。元はこの所為で、なつめを傷つけてしまったんだ。深沢なりのケジメを付けたかった。
教室に流れる曲に、深沢は静かに中央に立っていた。何かを考えているのか、全く動かない。同じ曲がもう十回以上繰り返し流れている。その間、優美はただ深沢を見ているだけだ。なぜか、この曲だけは全く動かない。
「先生…」
深沢は我に返ると、曲を止めた。
「あぁ、すまない。さて、続きをしようか」
「………」
優美は歯ぎしりをすると、パンパンに腫れ上がった足を引き吊った。八センチのヒールは、足が靴擦れと擦り傷だらけになっていた。思った以上に、バランスの悪さに拳を握り締めた。なつめは、こんなヒールを履いて、あんなにも激しく踊ったり、ポーズをしていたのかと思うと、悔しかった。
「先生、今日はチャチャチャをお願いします」
絶対に負けたくない。
優美は口をとがらせると、深沢はチャチャチャの音楽をかける。リズムに合わせて、深沢の右足が、カウントをとる。タンタンタン、タタタン…。ドラムの音に合わせて、深沢は優雅にステップを踏んでいく。ステップをいくら覚えても、優美には深沢についていけない。自分が遅れていることに気がつくと、すぐにストップをかけた。
「少し、時間をください」
「………」
相手とのコミュニケーションも考えず、優美はひとりで考えに没頭する。人に教えられるよりも、自分で考え出すやり方は、深沢をよりイラつかせた。結局、優美は自分で解決できない区域まで達すると、諦めの溜息を吐き出す。
「先生、ここのリズムの取り方を教えてください」
「足のステップは、ドラムの音でOK!だが、体の動きは、そこへワンアクセトン入れて動く。君と俺の動きに差ができるのは、ボディアクションが入っているかいないかだ」
自分のズレを真正面から肯定された言い方に、唇を噛み締めた。言葉の端に引っ掛かりを感じながら、
「では、どうしたら」
「まず、ルンバのカウントに、andを入れていく」
手を叩きながら、そのカウントを教える。カウントが頭に入るのを確認して、
「で、ボディアクションの、回転は出来るだけ早く、その後は普通通り。だが、ボディアクションは、男性からのリードによって、ボディが動かなければならない。その反動によって、生じる体のバネによって、動きにメリハリが出て来る」
深沢に動く方向へと体の向きを変えられると、それによって、足腰はその向きの方向へと向かっていく。また、深沢の引くリードによって、その動きは素早くなる。優美は、言葉で理解する方が、得意なタイプだったが、これは体で覚えなければ、とても追いつけるものではなかった。
「………」
頭で分かっていても、実際に体が反応するかは別物だ。
深沢にとって、この動きで手応えがあるのは、やはり、なつめだけだ。深沢の腕の奥まで入り、全身を投げ出して、技を繰り出す。なつめの柔軟を重視したポーズは、絶対的な信頼関係でなければ出来ない。ボディの限界まで伸び、緩やかに腕のなかに戻って来る。バネのような体を抱き締めるのが、好きだった。
「………」
優美は眉間に皺を寄せた。深沢の心を占領しているのは、
「深沢先生」
ふと我に返ると、深沢はストップとばかりに、手をあげた。冷蔵庫からスポーツ飲料を取り出して飲み始める。そんなどこか、踏み込められない何かを感じている優美は、ただ、悔しさだけが心を占めていた。こんなに側にいるというのに、深沢が遠くにしか感じない。優美を見ることも、意識することもなく、ただそこにいるだけだった。
優美は、深沢の目の前に立つと、
「どうして、私を見てくれないの!」
その優美の顔を見つめ、缶を握り潰した。
「見ていますよ」
「見てないわ!」
面倒臭いとばかりに、溜息を吐き出すと、
「競技会のパートナーとしてみている。それが不満なのか」
深沢にしては、きつい言葉に、優美は唇を噛み締めた。
「不満よ。私は、深沢先生と踊れるって、物凄く嬉しかったの。あなたのパートナーになれるんだって、あんなふうに踊れるんだって」
「あんなふうに…?」
その場に座りこんだ優美は、そっと涙が溢れそうになった。
「パーティの時、なつめを見て、女の私が見ても綺麗だった。男のくせに、女装までして、あんなに憧れていた貴方と、羨ましいくらい幸せそうに踊っている。なつめが憎かった」
彼女の本音だろう言葉に、優美となつめが、互いに反発しながら、求めているものが分かる気がしてきた。
「君には、君の良さがあるように、なつめには、なつめの良さがある。それにはお互い勝てないはずだ。でも、なつめは、君の良さを認めているはずだ。君が、認めさえすれば…」
「いやよ!あのなつめに負けるなんて」
「なら、はっきり言ってやる。なつめは、今の君以上のレッスンを積み重ねた。元々努力家だ。今の君の努力では、到底足元にも及ばない」
それほど、なつめはひとつひとつにこだわり、自分のモノにしていった。深沢の求めるものを、同じように求め、それに似合うだけのレッスンを自ら行っていた。そのうえで、二人で創り上げた共鳴感がある。
優美が拘っているのは、なつめ自身だ。
そこには何も存在しない。擦れ違っていく気持ちに、優美はイラつき、深沢は無力を感じた。
「レッスンにはならんな…」
今日のレッスンは、終わりとばかりに、深沢は背を向けた。その背に、優美はそっと寄り添っていく。
「──抱いてください」
絡みつく手を引き離す。
「なつめに拘る必要はないはずだ。君は、君らしく踊ればいい。それだけだ」
「お願いです」
「出来ない」
「あなたが好きです」
「応えられない」
「絶対に諦めません」
それは意地だろう。深沢は苦笑いを浮かべ、
「そんなことをいうなら、俺は競技会を諦めるよ」
「ひどい…」
優美は拳を握り占めると、スゥと立ち上がって、出口へと向かっていく。
「先生、もう何も言いませんから。ですから、競技会には出場したいです」
優美にとって、プライドだけの問題であっても、また、それを受けることによって、深沢自身が針の筵になろうとも、もう仕方がなかった。
「分かった」
呟きながら、深沢は苦しそうにソファに転がった。
何かが変わるはずもなく、深沢はいつも通りを、普通に熟していっていた。日中に変更した優美とのレッスンも相変わらずで、最近では、優美は黙って、深沢の側にいることが多くなった。それがかえって、深沢を苦しめていた。
競技会まであと一週間───。深沢はもうすぐ開放されることを祈りながら、久し振りに『こもれび』へと出掛けていった。なつめのバイト時間を避けたつもりはなかったが、気がついたときには、もうとうに時間は過ぎていた。
ドアを開け、いつものカウンターに座ると、鷹東がカウンターから顔を出した。
「久し振り、マスター」
「おや、深沢さん」
鷹東は、あまりにもおもいっきり露骨に、困った顔をすると、諦めの溜息を吐き出した。
「なんて、タイミングの悪い」
その呟きがなんなのか、頭を傾げていると、そこにお客が入ってきた。なんとなく、自然に視線を向けた深沢は、楽しそうに話をしているなつめと平賀に、思わず驚いて目を見開いた。
「………」
次には、視線を逸らした。タイミングが悪いなんてモノではない。それによりにもよって、あの平賀と一緒にいるとは───。
深沢は差し出されたコーヒーに、鷹東に苦笑いを浮かべ、礼を言った。
そんな深沢に全く気付きもせず、なつめと平賀は四人掛けの席に座った。最近、この時間にここでお茶をするのが、日課となっていた。
なつめは、深沢に会えないうっぷんばらしに、平賀の邪魔をしまくっていた。平賀の教室へ行き、深沢の過去のアルバムや大学生の頃や競技会の写真なども、全て見せてもらっていた。大学在籍中の深沢のダンスに惚れた平賀は、追い駆けるようにダンスを始めた。自称『深沢ストーカー』だけはあり、その量は半端ではない。
深沢と平賀と椎葉の三人は、大学生からの付合らしく、ダンス以外の写真も多く、それを堪能するには、平賀のコレクションは最高だった。最近では、平賀のレッスンの見学までして、平賀の技術を盗もうと、真剣になったりもしていた。深沢という共通の話題がある所為か、誰といるよりも、気が楽で本当に楽しめた。
それでも、深沢と会えないのは、精神的に満たされなかった。
「…君、なつめくん。また深沢のこと、考えてるな」
水を飲んだなつめは頬を膨らませた。
「会えないんだから、仕方がないじゃないか」
「君の頭のなかは、深沢だけかい?」
口元を和らげたなつめは、クスリッと笑う。
「そうだよ。俺の人生を変えてくれた、深沢宗司を今も追い掛けている」
「あぁ…。君の、その片思いも半端じゃないよな」
「まあね」
平賀は、素直ななつめを見ていて、最近、弟が出来たみたいに思っていた。感情というのは、違うものへと変わるものらしい。そっと視線を鷹東へと向けた平賀は、そこに困った顔の鷹東と、カウンターには普段の深沢とは、とても思えないような、影の薄くなったその横顔を見つめ、眉を寄せた。
「深沢だ…」
「また、嘘ばっかり…」
笑ったなつめは、深沢がいつも座っているカウンターの席を見た。
「……っ!」
驚いたように突然立ち上がる。その後ろ姿を見ただけで、何かがおかしいと分かる。優美と深沢の間で、何かが起こったのかは、一目瞭然だ。
「君、なつめくん…」
「………」
自分たちがここに入ってきたのを、深沢は知っているはずだ。それでも、こっちを向く気配もなく、窓の外を見ている。以前、あんなふうに、あそこからなつめを見ていた。一体、今そこで誰を見つめているのか───。
なつめがカバンを掴むと、その手を平賀が押さえる。
「一つ聞いていいかな」
「なに?」
「君は今、深沢のどんな存在だと思っているのかな」
なつめはその言葉に、ハッとした顔を向けた。平賀は笑いながら、手を振った。
「今日のディナーはキャンセル?」
「…みたいだな」
「大会には見に行くけど。応援はしない」
「分かっているよ」
片手をあげ、平賀から離れた。久し振りに深沢の隣の席に座った。それでも、深沢はなつめを見ることもなく、窓の外を見ている。
「深沢…」
呟くように言うと、深沢は溜息を吐き出した。
「元気か」
「うん」
「ならいい」
そういって立ち上り、なつめの肩に手を置いた。鷹東に手をあげ、ドアへと向かっていく。振り返ることもなく、深沢は外へと出ると、案の定、右へと歩いていった。スタジオに向かったのだ。
なつめは動くことも出来ないでいる。深沢の疲れた表情、痩せた身体、遥か向こうを見ている遠い瞳。なつめの知っている、ダンスだけが好きだった深沢が、そこにいない。
「………」
感情に耐えきれなくなったのか、心はもはや逃げ出しており、でも、ただやらなければならない使命感のみに、突き動かされている。そこまで追いつめたのは、自分なのか。なつめの頭のなかは、真っ白になっていた。
「新藤くん…っ」
鷹東の声に、我に返る。
「君がしなければならないことは?」
「──追う!」
なつめは慌てて、深沢の後を追った。
教室から流れてきた音楽は、激しいラテンのリズム。優美が気に入りそうな、そんな曲の選択だった。なつめは、息を切らせながら、そっとドアの隙間から、中を覗き込む。
優美と深沢が踊っている。だが、なつめの知っている深沢ではない。ダンスだけを愛していた深沢の純粋さは、どこか壊れてしまっていた。堪らず拳を握り占めると、ドアを激しく開けた。
「なにやってんだ!」
「きゃっ…!」
乱入してきたなつめを見て、優美が驚いて、深沢にしがみつく。
なつめの剣幕に、優美はビビリながらも、胸を張って睨み付ける。
「なにって、レッスンに決まっているでしょう」
靴を脱ぎ捨て、優美の側により、その細い腕を掴む。
「違うだろう」
「嫉妬なんて見苦しいわ!」
腕を振り払うと、深沢の後ろへと隠れる。
握り占めた拳を、精一杯の感情で開くと、優美の頬を軽く叩いた。
「おまえは、どうしていつもいつも俺に拘るんだ。俺が持っているものを欲しがる。俺がすることに、全てちょっかいを出してくる」
「別に拘ってなんか!」
「拘っているじゃないか!」
今度は優美として、受け入れてもらえないなら、なつめのマネをすればいい。そうすれば満足がいく。自分の思い通りに──。そんな自分の心を読まれたかのように、なつめに成り済ましている自分に、視線を逸らし、今度はなつめの顔を殴りつけた。
「なつめなんて、いなくなればいい!」
「優美!」
またも、そんな言葉でなつめを傷つける。ひとり傷つくのが、嫌だから。それに抑えられない感情がある。
「深沢先生が、本気で好きなの」
例え、なつめを見ているのでも良かった。少しの間でも、彼に愛されたいと望んでいる自分に、なつめへの拘りよりも、女としての恋に一生懸命になっていた。
「お願いだから、もう少しだけ。少しだけでいいの。側にいたいだけ」
「……っ…」
そんな思いは真実じゃない。独りよがりな思いに、なつめは奥歯を噛み締めた。
「…奪うな!」
「なつめ…」
「俺から深沢を奪うな!」
深沢は自分にとって、ずっと追い続けた大切なものだ。やっと掴んだ居場所だ。もうパートナーになれなくてもいい。深沢の側にいたい。それだけは、決して誰にも譲れない。
呆然と立ち竦んだ優美の肩をトンッと押すと、あっけなく崩れ落ち、そのまま床に座りこんだ。
深沢の側により、その顔を見上げる。
「一体、どこにいるんだ」
「……っ…」
「オレを置いて、どこにいるんだ。深沢!」
「もう、止めてくれ…」
深沢は、ゆっくりと意識を手放していく。暖かい何かに包まれ、その物体を見つめた。ふいに目の前に現れたのは、とても懐かしい人物の顔だった。こんなふうに、いつも深沢を見上げていた。笑って、好きだって、恥ずかしくもなく叫んでいた。もう忘れてしまったと思っていた記憶が、一気に蘇ってきた。
〝ただいま、宗司〟そんな言葉が、脳裏を横切った。
「おかえり、テツ」
呟きながらなつめに抱きついたが、そのまま気絶してしまった。
「───っ!」
取り残されたなつめは、あまりにも激しい衝撃に、軽い目眩を感じた。気力だけを振り絞って、とにかく、深沢を抱き支えた。
「なんだよ、それは…」
深沢の身体をゆっくりとソファまで連れて行くと、今度はふらつく足取りで、深沢の携帯を取りだした。震える指で、急いで、ただ頼れる人物の名前を、そのなかから探す。三回目のコールが鳴り響いた時、目を閉じて聞いていたなつめは、神に祈る思いだった。
その時、聞こえてきた声に、なつめは涙声で叫んだ。
「──深沢を助けてくれ」
それだけいうのが、精一杯だった。
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