…………1-(2)

 三日後、深沢のマンションになつめが引っ越してきた。スーツケースとボストンバック一個を玄関に置くと、言葉もなく辺りを見回す。白い壁に明るい木目調のドアがとてもシンプルだ。意外にも清潔感な感じに驚いていた。促されるままに上がると、

「あんた、一人には贅沢なマンションだな」

 なつめの軽口を全く相手にせず、二つのドアを指差した。

「使っていない部屋がある。どっちでも好きなほうを使ってくれ」

「分かった」

 二つの部屋の中を見て、玄関近くの東向きのほうへ荷物を運ぶ。木目調のクローゼットの中には、マットレスと一式の蒲団も置いてあった。部屋から出ると、閉まっているドアを見つめる。此処が深沢の部屋だろうと横目で見て通り過ぎる。独りで住むには広すぎる三LDKのマンションに、なつめは唖然とした。深沢の姿を探しながら、ドアの空いているリビングへと向かった。

「うわぁ…」

 思わず出た声に、コーヒーカップを持った深沢がゆったりとソファに座ったまま、こちらに視線を向ける。

 開放感のある大きな窓、二〇畳はありそうな広いリビング。南向きの大きな窓から入る太陽のあたる場所に置かれた一人掛けのソファ、AVボードの前にあるライトグレーのカウチソファと二人掛けのソファ。何もないっていうよりは、あえてすっきりとした空間にしている。なつめは一人掛けのソファの側まで行くと、深く腰掛け息を吐き出す。沢山の観葉植物と白いレースのカーテンの間から、青い空を見上げた。

 ここは休息の場所なんだ。

 そのまま数分もしないうちに、なつめの寝息が聞こえてくる。

「………」

 過去に自分のテリトリーに他人を入れたことはなかった。人に見られることに慣れているため、何も考えず気にせず、自分を解放する場所が必要だった。なんの抵抗もなく、すんなりと彼を受け入れた自分に今でも驚いている。

「馴染んでんじゃねーよ」

 眠っている幼い顔のなつめを見て、思わず笑ってしまった。


 なつめは現在大学の三回生で、専攻はスポーツ科学科である。バレエを辞めても、スポーツは好きなので、どんな形でも関わりたいと考えていた。今のところ時間的には余裕がある。

 朝は七時に起床し、八時起きの深沢のために、コーヒーを淹れる。『こもれび』で働いていたのも、コーヒーの煎れ方を享受してもらっていたからだ。此処のキッチンに、いつの間にかコーヒーの缶がズラリと並んでいる。あまり拘りのなかった深沢は、なつめの煎れるコーヒーを飲む。早朝からコーヒーの香りで、快適な目覚めではあった。

 午前中の講義がない時、深沢を叩き起こすために、彼の部屋のドアを開ける。ベッドに上半身裸で寝ている無防備な姿に、なつめはコーヒーを飲みながら眺める。いい男は寝ていても、いい男だなと感心しながら、

「深沢…」

 呟いてみるが、ピクリとも動かない。何度か呼んでみるが、起きる気配が全くない。ピクリと眉を動かし、カップをベッド側へと置き、深沢の耳元に口を寄せ、ニヤリと笑う。

「………」

 耳元で呟かれた言葉に、ゆっくり目を開ける。笑っているなつめの顔を見つめ、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。攫うようにして、細い体をベッドに押し倒す。

「うわああ…!」

「大人をからかったバツだ」

 Tシャツの襟元から覗いている肌に、チュッと音を立ててキスマークを付ける。呆然としているなつめをベッドに残して、深沢は笑いながら、部屋を出ていった。残されたなつめは、大きな溜息を吐き出し、

「エロイ言葉はまずいな」

 リビングからラテンの音楽が流れてくる。なつめは慌てるようにして、リビングへと走って行った。

「────」

 先程から同じ曲が何度も流れている。二人の激しい息遣いに、服のきれる音。白いシャツの広がった襟からは、深沢の胸の筋肉が見える。伸縮性のある濃紺のパンツに、繰り出される激しいステップ。オレンジの丈の短いTシャツに、黒のスパッツをはいたなつめの細長い足を掴む。体の向きを変え、なつめの体を抱き込み、鋼のような柔軟性を生かしたポーズで、そのままキープ。先程つけたキスマークに笑みを浮かべると、

「なにを笑ってんだ」

「別に…」

 右手を捕まえながら、ある高さで止めると、ピクリと反応する。なつめが苦手としている所が何か所かある。それをクリアしないと、先へは進めない。同じ動きだけで既に一時間が経過している。音楽のリズムと身体の基本の動きを何百回と繰り返しながら、徹底的に叩き込んでいた。

「教えたとおり、指一本に集中しろ…。お前の動きは全て俺が握っている。俺の指示なく、動くな」

 バレエの中心体重ではなく、前体重がなつめを苦しめていた。

「背中で俺の動きは分かるな…」

「あぁ…。で、俺は女装するのか?」

 何かに飽きてくると、なつめは話を全く違うことへと変えていく。すっかり忘れていたので笑ってごまかしながら、

「…そうだな。普段は、そのままでいいし、生徒の前でも、言葉遣いだけを気をつければ、見えなくはない」

「悪かったな」

 普段から言いたいことを言い合っている為、深くは気にしないが…。女扱いが癪に障ったのか、ムッとしている。なつめは大きく息を吐き出し、鏡に映る深沢をじっと見つめた。ダンスを踊っている時の深沢は、心が踊る程かっこいい。

 だが、時々何を考えているのか、分からない時がある。いや、ダンスの事だけしか考えていない事はよく分かっている。ホールの真中で何かを考えている。その入り込めない世界に、枠の外へと突き出されたような感じがする。深沢の心の世界に、強く興味が引かれる。だから、態とバランスを崩してやる。

「待て!俺は、なんの為にいる。おまえをリードするのは、俺だ。勝手に動くな!」

 舌を出しながら、深沢の指示するポジションに戻ると、集中集中と瞳を閉じた。

 横目で睨んでいた深沢は、鏡に映るなつめを見つめた。元々、バレエをしていたので、初心者にいう、背筋のラインや、頭の位置、体重移動などは、教えるまでもなかった。この肉体美をどう表現するかを考えるだけで、どんどんイメージが湧いてくる。どんな決めのポーズでも可能にしてくれる。楽しくて仕方がないが、それをするには、もう少しの基本が必要だ。派手なバリエーション以上に、深沢はベーシックを何よりも大切にしていた。

 深沢は、曲の音量を大きくすると、

「いいか。頭の中に叩き込め。ルンバのカウントは、♪one two three four one~もっとゆっくりだ」

 リードによって、動く進行方向へと体を向ける。

「そうだ。もっと筋肉を使って歩け、床から足を離すな。そこは柔らかく」

 一歩踏み出す足に体重を乗せて、筋肉の動きを感じながら、前進していく。深沢の手が、なつめの動きの方向を止めると、体の向きが変わる。向かい合う状態になり、深沢を見つめる。そこで、出した足に体重をのせ、リードのままに、一八〇度回転すると、深沢の目の前にやってくる。これをアレマーナと呼ぶが、なつめは今のところ、これが気に入っていた。回転に関しては、絶対的な自信があった。

「…おまえ、どこ見ている!」

 向かい合ったままの状態で、不思議そうに深沢を見上げる。

「動く方向…」

「違うだろう。ルンバは愛の踊りだ。激しくて情熱的に踊らなくて、どうする?」

「愛──?」

「おまえの激しい愛の表現だ」

 深沢の真剣な眼差しから逃げるように逸らすと、瞳を閉じた。心の奥に浮かぶ広い背中。何度も追いかけた後姿に、心が切なくなる。ふと我に返ると、深沢と目が合った。

「あんたは愛せるのか?」

 なつめの視線が、今までとは少し違った色を放った。その視線を受けとめながら、深沢はクスッと笑う。

「それが、ダンス以外を愛したことがない」

「へぇ…」

 深沢のシャツを鷲掴みにすると、挑発的な視線を向ける。

「誘惑してやろうじゃないか」

「期待しているよ」

 心底楽しそうに見つめた。

 本当にダンスが好きなんだ。共同生活をしていくうちに、何度もそう思った。ふと耳に入った音楽に遠い目をしていたり、食事をしながらでもダンスの話をしている。外食の多かった深沢が、なつめのお気に入りの和食屋『鹿のや』のテイクアウトを気に入り、最近では特別に教室まで、配達までしてくれるようになった。

 昨夜も、個人レッスンが終わると同時に、教室を閉め、お気に入りの弁当を食べる。休憩と言いながら、なつめの柔軟ストレッチを眺めながら、何かを思いついた深沢に、巻き込まれるようにして、レッスンが始まる。

 見境がなくなるため、予約していたステレオの電源が落ちると、同時に家に帰ることにした。お風呂から出て、リビングルームで、ひとり復習をしていたなつめを眺めていた深沢は、また吊られるようにして、いらぬ手を出してしまい、気がついた時には、午前様までやってしまっていたというのは、日常茶飯事だ。

 今日は、大学の講義が休講になったため、なつめは午前中のんびりしていた。だが、あまりにも死んだように寝ている深沢が心配になって、部屋のなかでストレッチをしていた。時計を見つめ、まずいなと思い、深沢の体をゆすり起こした。

「そろそろ起きないと、深沢!」

 いつものように、なつめの声に目を覚まし、太陽の光の眩しさに顔を顰めた。時計を掴み、本当に見ているのか分からない目線で、無表情のまま固まっている。教室のレッスンが始まるのは、一四時からだが、今の時間は既に十二時半を過ぎている。

「あぁ、寝過ぎだな」

「本当に、ダンスだけの人生なんだな、あんたは」

「決まっている」

 上半身裸のまま、バスルームへと向かいながら、伸びをしている。そんな後ろ姿を、なつめは不思議そうに見つめていた。

 共同生活を始めて、一ヶ月が経とうとしていた。深沢のことも見え始めた頃だった。見た目と違って、意外にも真面目できちんとした所があった。パーティまでの時間が限られているため、どうしてもレッスン中心になりがちだが、食事時間など不規則になりつつあると調整して、なつめが無理しないように、気遣う一面もあった。

 食事に関しても、出来るだけ自炊はしていると言っていたとおり、確かに炊飯器もあり、冷凍庫には魚が綺麗に並んでいた。外食が多いという割には、行きつけの小料理屋のテイクアウトが主だった。

 ある日レッスン中になつめが思い出したように、

「腹が減った…」

 食事を忘れて踊っていたことに、深沢もバツが悪そうに、眉間に皺を寄せた。

「悪い…、忘れていた」

 直ぐ様、タクシーで行きつけの小料理屋へ向かい、ゆっくりと食事をした。その日は珍しくレッスンもせずに眠った。

「………」

 翌朝起きると、キッチンのテーブルの上に、沢山のおにぎりと焼き魚が用意してあった。なつめは嬉しそうに笑いながら食べると、

「美味いっ!」

「そうか…」

 深沢も満足げに笑みを浮かべた。それから、朝起きると二人で、せっせとおにぎりを作り置きしては、いつでも食べられるように準備するようになった。不規則な深沢の食生活は、かなり改善させられた。以前よりも、かなり落ち着いた雰囲気で、穏やかに笑うようになった。

 唯一の問題は、女性関係だ。女性専用という携帯はいつも鳴りっぱなしだ。向こうからの連絡は、一切受け付けない徹底ぶりだった。なんでもルールがあるらしく、深沢からの連絡で我慢出来るというか、遊び程度で、割り切れる関係の女性が殆どだ。それも人妻ばかりで、貢いでいるとしか思えないが、どこまでが本気なのかは分からない。結婚という言葉が似合わないというか、そういう生活が感じられなかった。ダンスの世界のなかで生きているって思うからだ。

「────」

 ふと我に返ると、急に流れ出したラテンの音楽に、ここがスタジオであることを思い出した。空き時間は、受付でバイトをしていた。カウンターに座って、深沢がレッスンしているのを眺めている。

 一つのレッスンを終えた深沢は、物凄い集中力で、ホールの中央に立ったまま、一人の世界を作り上げている。あそこまで一つのことに集中できるのが羨ましいくらいだ。無駄なことを考えていると、

「こんにちわ!」

 笑い声と共に、教室に入ってきた生徒へと視線を向ける。この時間帯は顔を合わせるのは、初めてだ。案の上、野良猫でも見るような目線が突き刺す。

 深沢は打って変わって、ニッコリと優しそうな笑みを浮かべ、

「やあ、いらっしゃい。今日はいい天気ですね」

 言いながら、深沢の視線は、なつめを睨み付けた。視線が何を言っているのかを理解すると、引き攣った笑みで、

「こ、こんにちわ!」

 元気良く叫んで、雑誌を見つめる。深沢は徐になつめの頭を叩いた。生徒のおば様たちは、意味深な視線を交わすと、なつめを睨みつけた。なんとも言えない雰囲気だが、なつめは別に気にしたふうもなく、スケジュール帳に目を走らせる。

 なつめを横目に、おば様らは深沢を取り囲む。なかでも、深沢を大のお気に入りと自称している夏川は怒りの表情で、

「先生、あの子は?」

「新しいバイトですよ」

「それだけ?」

「新しいパートナーでもあります」

「………」

 夏川は押し黙った。バイトならまた追い出せばいいが、パートナーとなると、深沢が競技会に出場出来なくなる。ホールで深沢が踊っている雄姿は惚れ惚れするし、優越感でもある。困ったと考えながら、それぞれ視線を合わせ、着替え室へと入っていく。

 深沢はなつめの肩を掴むと、

「お前、もう少し営業スマイルくらい出来るだろう」

「この顔は生まれつきだ」

「営業妨害だけはするな」

 怒りの深沢に舌を出すと、また睨まれる。一応、深沢の指示通りにピンクのTシャツに、黒のスパッツ、ラテン用のスリットの入ったスカートを穿いているが、女に見えるかまでは責任持てない。髪が伸びて少し邪魔になったので掻き上げると、深沢が事務所の忘れ物のなかにあった黒のピンで、前髪を止めてくれる。

「…っ……」

 顔を引きつらせながら睨み付けたが、深沢は楽しそうに笑っているだけだ。営業スマイルなんて…愚痴っていたが、着替え室から出てきた夏川たちの姿を見て、

「………」

 ついていた肘が力なくズルッと滑り、目が点になっていた。鮮やかというよりも、とにかく派手な衣装。青の総レース、鮮やかな緑色のモダンなドレス、夏川の赤と黄色とピンクの色合いのフレアーなスカートは、なつめのこめかみを直撃した。とにかく、営業スマイルで、パンダのように黙ってカウンターに座っていろという指示を守ってはいたが、襲った衝撃はかなりのものだった。

 慣れているのか、深沢は全く普通だ。

「さて、なにをやりますか?」

 夏川は、まずは私からと手をあげた。

「この前、テレビで見たのだけれど、パソをやりたいわ!」

 深沢は首肯きながら、曲を入れ替える。

 見ていたダンス雑誌の『パソドブレ』と書かれたページを見つめる。スペインの闘牛士でよく思い出される曲だ。牛が走るような独特なリズムが、聞くものを昂ぶらせ引き付ける。男性は闘牛士であり、女性は赤いケープを表現している。

 深沢は、取敢えずベーシックを教える。それを覚えたら、音楽に合わせてみる。彼女らは、何か月も同じ種目をすることはない。教室の個人レッスンは、彼女たちの願望を満たさないことには仕事にならない。実際、若い人でさえ、繰り返されるベーシックに嫌毛はさしてくる。

 それでも、ベーシックを徹底的に学べば、全てに対して無意味なことは一つもないというのが、深沢の持論であるが。いろんな種目を楽しく踊って、忘れた頃にまた、同じ事を何度も言われても、身に付くものではない。それが、週一のレッスンなら尚更のこと、次のレッスンには、忘却の彼方となってしまっている。それ程、体がきちんと覚えることは、簡単なことではない。

 深沢の姿を見つめながら、そんなふうに言っていた彼の言葉を思い出していた。

「あなた、名前は?」

 急に目の前に現れた夏川に、なつめは一瞬驚いた。夏川のレッスンは既に終わっているらしく、次の生徒がワルツを楽しそうに踊っていた。物珍しそうに観察している夏川に、表情を変えることもなく、

「なつめですが…」

「年は?」

「二〇です」

「そう…」

 少し厚化粧ではあるが、綺麗な顔を鼻にかけず、優雅な巻き毛の髪を指で弄っている。深沢を好きな事は見ているだけでよく分かる。大好きな先生を奪われるそんな嫉妬丸出しな夏川を、なつめはどこか楽しげに眺めていた。

「ダンスを始めて、何年になるの?」

「最近ですね…」

「で、どれだけ踊れるのかしら?」

 素姓調査かと、内心苦笑いを浮かべたが、

「一通りのベーシック以上は…」

 平気で嘘を吐いても、舌さえも出さないなつめの言葉に、夏川は眉をピクリと動かした。

「今までの子とは、随分と毛色が違うこと。先生の趣味も変わったのかしらね。その野良猫のような目がね…」

 なつめは、夏川をじっと見つめると、

「あんまり失礼なことばかり言っていると、素敵な深沢センセの怒った顔を見せますよ」

 夏川はクスクス笑うと、

「先生が、怒るなんてことないわ」

 なつめはクスッと可愛くない笑みを浮かべた。

「手段は選びませんから」

「なんて野蛮な」

「なら、仲良くしましょう」

 なつめの作り笑いに、夏川は一瞬無表情になる。なつめが本気である事を察すると、大人の変わり身の速さで、優雅に笑みを浮かべた。

「可愛げはないけど、嫌いじゃないわ」

 かなりの新手で、一番手強い人物を抑えつけた。その遣り取りを見ていた深沢が、大きな溜息を吐いたのは言うまでもない。


「…可愛げがない」

 最近、何度もその言葉を聞いている。聞き流しかけた台詞を、握り締めた拳で憂さを晴らした。

「…痛っ!おまえ、この顔は一応、売り物だぞ」

 スタジオのソファの上で、軽く殴られた頬を手の甲で拭いながら、ツンとそっぽを向いているなつめを睨み付ける。

「なら、買ってやる。いくらだ!」

「そういうことじゃないだろう!」

 この手の喧嘩は、日常茶飯事。お互いにストレスになってくると、遠慮なく言いたい事をはっきり言うまでにもなった。それが返って、二人の距離を一気に縮めた。

 なつめは、履き慣れないヒールに顔をしかめながら、

「センセ、音は体で受け止めろっていうけど…。大体、音って言うのは、空気の振動を受け止めてだな」

「あぁ!屁理屈なんかコネてる暇があったら、もっと動けよ!」

 二人が今踊っているのは、チャチャチャ。ルンバの足型にシャッセいう、ステップが加わるだけであるが、ルンバのように、丁寧に体重移動を行っていては、ステップが間に合わない。なつめの長い足が、素早いアクションで、ステップを踏んでいく。深沢のリードの手が触れる、肩、ひじ、腕と様々な角度からリードが受け取れる態勢に居なければならない。既に上半身は、深沢のリードで体の向きが変わり、ついていくのがやっとだ。回転だったり、蹴りだったり、遊びだったりと同じステップはない。これがこの曲での最大の見せ場だと思うから、力が入る。

 深沢は、眉間にシワを寄せると、

「なつめ、もっと!」

「動いているだろう」

「俺の半分も動いていない!」

 深沢の足を見下ろすと、その足を踏みつける。

「それは、馬鹿にしてんのか!」

「痛っ…」

 確かに、十三センチの身長差はあっても、なつめの足は長い。足の長さを言っている訳ではないが、一六七センチしかない身長を気にしているなつめにとって、それは許せない台詞だった。

「あー、うるさい。いつもいつも、俺の言うことを面白可笑しく取りやがって」

 深沢自身も、この遣り取りに最近、腹が立ってきていた。この言葉の遣り取りの所為で、一気に力が抜けるのだ。思わず、笑ってしまいそうになるのだが、

「ルンバの音でカウントを取るからズレるんだ。いい加減、頭を切り替えろ。いいか、two three fore and one(checheche)a,このカウントの前のアの時点で、次のステップの準備がなされていなければ、ダメだ!」

「それ、耳タコ!」

「ならやれ。カウントの前に、次のステップにいくために体が動く。その反動が速さであり、動きにメリハリができる」

 深沢のカウントに合わせて踊るが、やはり、深沢の体の動きはなつめとは全く違っていた。動きの切れも違うし、足裁きの速さも違う。なつめは、何度やっても体が思うように動かないのと、それが掴めないことに苛立ちを感じ始めていた。

「………」

 深沢は少し考えると、なつめの前に立ち、彼の両手首を捕まえた。カウントに合わせ、なつめを立たせたままで、なつめのステップを踏んでいく。何度か、繰り返すと、真剣な眼差しで凝視している。

「いいか。ステップはもう頭に入ってるんだ。お前は理解もしてるが、考えて間に合わないって思ってるから、出来ないんだ」

「でも…」

「何も考えるな。頭を空っぽにして、俺だけを見ていろ」

 信用しろって案に言われたようで、深沢をまっすぐに見つめる。なつめの細い体を両手でホールドし、音楽に合わせて踊る。今度は深沢のリードがより伝わってくる。

「……っ!」

 少しの迷いがあるが、確かになつめの動きが変わった。流れていた体の動きに、スピード感とメリハリが感じられるようになる。それらしきものを掴んだなつめは、何度も何度も忘れないうちに、体に叩き込んでいく。きっと視覚から入る方が飲み込みやすいんだろう。リードについていけるようになってきた時、深沢が右手をスッとあげた。

「……っ…」

 終了の合図に、なつめはその場に足を投げ出して、床に転がり込んだ。汚れているから止めろと、何度も注意しているにも関わらず、全く聞く耳を持たない。

 深沢は、ため息を吐きながら、冷蔵庫のなかから、氷を取りだした。洗面台で水と混ぜ合わせると、数枚のタオルを絞る。なつめの前に座り込み、ダンスシューズのヒモを解き、ヒールを床の上に転がすと、冷えたタオルで冷してやる。もう一枚をなつめの顔の上に落すと、

「冷てぇなぁ…」

 案の定、怠そうな言い方だがそのままでいる。

「まぁ、ヒールに慣れるまでは、辛いだろうが。こればっかりは頑張ってくれとしか言いようがない」

「ん?あぁ、分かっている」

 最初のうちは、靴擦れやヒールで自分の足を踏んだりしての生傷、むくみや変な筋肉痛に悩まされ続けたが、今は痛みだけだ。なつめは、ムックリと起き上がると、壁に掛けられてある競技会の写真を横目で見つめ、

「あんたの好みの衣装って、どんなの?」

 指差した写真を見つめ、深沢は最近悩んでいる衣装を思い出した。過去深沢と組んだパートナーは、どれも派手で露出の多いビキニタイプが多かった。

「ラテンは、比較的露出度は多いが。でも、まぁいいと思うんだが」

 なつめの体を眺めながら言う深沢に、眉間に皺を寄せた。

「やっぱりさ…」

「んっ?」

 衣装に関しては全く分からないため、深沢に一任したが、不安はある。

「バレるぞ、絶対!」

 なつめの指差す部分を、改めて頭の中で想像した深沢は、口元に笑みを浮かべた。

「バレたら、しょうがないな」

「あんた…」

 暢気な反応に対して、ブス垂れているなつめの体を、大きなタオルの上にひっくり返し、足腰を揉み解していく。

「このスタジオの未来はないな」

「なぜ?」

「自分で客寄せパンダって言ったんだろう?生徒なら、独身でイケメンが良いに決まってる!」

「そうか?」

 なつめの力説を面白そうに、笑って交わした。なつめの背中を眺め、この綺麗なラインに目を細める。長い足をマッサージしながら、強くて伸びやかな筋肉に感心していた。ずっと思っていた結論に至った。

「衣装はそんなに心配しなくても、大丈夫だ。ネックホルダーなら胸は見えないし、背中は大きく開いた感じがいいな…。チャチャとサンバは、長めのフリンジが激しく動くのがきっと似合うだろう。で、下はパンツだ。この長い足をより綺麗に見せるサイドスリットがいいな」

「それって、あんたの好み?」

 深沢はクスクス笑いながら、なつめの体をひっくり返すと平らな胸を撫で下ろす。

「気になるなら、ここにはパットを入れてもいい。大体、大方の女性が見えるほどパットを入れているんだ」

「えぇー!」

「あれは、俺でもあまり見たくはないけどな」

 深沢の溜息に思わず同意した。女の体はどこまでも嘘だらけだと、改めて思い、苦手意識がより強まった。写真の女の人たちのドレスは、一体どこを隠したいのか、考えてしまうものだった。

「俺は、女装をして欲しい訳じゃない。パンツなら、お前もいろんな心配をしなくてもいいだろう?お前が輝くようなドレスにしたい。装飾が凝っているのもいいな。この強靭なバネのある身体だからな。飾りがいがあるってもんだ」

 楽しそうになつめの身体を撫で回している深沢に、呆れた視線を向けた。でも、そんなふうに思われていた事が、正直嬉しかった。

「…そっか。なら、大丈夫か」

 安心したようななつめの表情に、

「それに、おまえは勃たなければ分からな──痛っ!」

 顔を真っ赤にしながら、数回蹴りを入れた。深沢は腹を抱えて転がって笑っている。

「あんた、同じ男として…。いや、よくもそんなことを…」

「でも、…っ!」

「言うな!」

 可笑しくて仕方がないとでもいうように、何度も思い出しては転げ回っている。からかわれたなつめは、震える拳を握り締め、

「覚えていろよ、深沢!」

 なつめの低く響いた声に、更におもいっきり吹き出した。


 

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