噂のパートナー
りゆの慧
第1話 自分の居場所(1)
いつもと同じ時間にお気に入りの場所で、
「片思いなんて、がらでもないか」
片思いなど縁もなさそうな目鼻立ちの整った甘いマスクに、大きな厚い唇。軽く流した黒い前髪を搔き上げると、偶然側を通り掛かった女性が、思わず立ち止まり、赤くなって見つめた。そんな視線には慣れているので、意味深な笑みを浮かべ、視線を逸らした。営業スマイルは一度だけ。一八〇センチの身長に、鍛え上げられた身体。座っていると分からないが、立つと真っ直ぐに伸びた綺麗な姿勢。萌黄色のシャツに、グレーのジャケット、華やかな存在感を持つ、彼はプロのラテンダンサーだ。
「………」
彼の視線は、店から見える川の向こう側の道路を見ている。
お気に入りの店『こもれび』は、雰囲気の落ち着いた場所だ。ロッジ風の内装は、木の質感を大事にした温かみがあり、壁には海外の見た事もない風景や民族の写真が飾られている。その写真を見ているだけで、何か心の奥にじんわりとした懐かしさが込み上げてくる。思わず時間を忘れて、見入ってしまう不思議な写真だった。
ランチの時間はとうに過ぎているため、客も少ない。長閑な雰囲気が、ささくれた気分を和らげてくれた。
気さくなマスター
この街にやってきて、はや半年が過ぎた。
高級住宅街と町の繁華街が、川によって隔てられ、その川沿いにあるこの店は、高級住宅街のもの静けさとが、妙にマッチする。鷹東は、客をその笑みだけで受け入れる。少しの会話と一杯のコーヒーを、心地良い静けさで楽しませてくれた。
深沢は先程からそわそわしながら、窓の外を眺め、クスッと笑みを浮かべる。待っている時間が楽しくて仕方がない。時計をチラッと見て、今度は諦めの溜め息を吐く。
「…遅刻常習犯だな」
今日は、友人である
大学の頃からの腐縁だ。ダンサー仲間のなかでも妙に気が合い、耳が痛いことも平気で言ってくれる。その言葉を渋々ながらも聞くのは、彼がプロのバレエダンサーであり、辛い時期を共に過ごした同志だからだ。交通事故で骨を砕いてしまってからは、バレエから離れ、知り合いの企業に就職した。今は二児の父親として、幸せに暮らしている。
ドアベルが鳴り、別に遅れた時間など気にしたふうでもなく、呑気に手をあげながら、店に入ってきた。バレエを辞めて、六年が過ぎたというのに、手足の長いスレンダーな身体は厭味なくらいだ。淡いピンク色のシャツに、ベージュのスラックス。まだまだ独身のような若々しさがあるが、意外にも、性格は真面目で家庭第一である。楽しそうに笑みを浮かべて、少しハスキーな声でいう。
「よお、相変らず、シケた面しているな」
その言葉を相手にせず、隣の席を視線で促した。
「いらっしゃいませ」
鷹東の声に、振り向くと椎葉は軽く手をあげ、
「こんにちわ。こいつと一緒で。よろしく」
にっこりと笑みを浮かべたが、隣で顰め面をした深沢を不思議そうに眺めた。何かに気付いたかのように、心底嫌そうな顔で睨み付ける。
「まさかと思うが…」
「………」
「おまえはっ!」
仕方のない奴だなと、呆れたように大きな溜息を吐き出した。隣に座る色男を見ては、何度言ったか忘れたが、
「どうして、いつも続かないんだろうな」
こっちが聞きたいくらいだと、深沢は内心愚痴っていた。
「はあ…」
椎葉の大きな溜息に、深沢も川の向こう側を眺めながら、内心溜息を吐いた。この呟きにも慣れてしまったのか、それとも自分でも馬鹿だと思うのか、また溜息を吐き出した。
大学に入るとすぐに社交ダンスに嵌まった。サークルは勿論のこと、ダンス教室に通うために、バイトまでして夢中になった。それほど、魅かれるものがそこにはあった。大学を卒業する頃には、学生選手権で優勝し、アマチュアA級を取得すると、迷うことなくプロの道へと進んだ。だが、社交ダンスは、一人では踊れない。深沢のパートナーはいつも違った。それは、業界でも有名なことだった。
知り合いのスクールで今まで教えていたが、余りにも女性関係のトラブルが続き、スクールからも離れ、自分のダンススタジオを作ったまでは良かったが───。
社交ダンスとは、イメージ通り、年配の方が多く、おばさんおじさん状態だ。その中でいざこざは生じてくる。アシスタントの若い女の子を入れると、おじさんが手を出す、おばさんが苛める繰り返しで、パートナーとの練習どころではなくなってしまった。折角、苦労して口説き落したというのに、喧嘩が絶えなくなり逃げられた。これでまた、一年は競技会に出ることが出来なくなってしまった。パートナーの再登録は、次年度までは出来ないからだ。
実際、深沢自身かなりのハンサムで、三〇歳の独身となれば、それだけでいい看板になる。客は、アメーバーのように広がり、毎日、おばさまたちとのレッスン。異様なアピールにも、ほとほと疲れ果てていた。現実的に考えるならば、そんなおばさま方は、いいお客様だ。時間も暇も金もある。世の中、要領の良さだけで得をすることをしみじみ感じている。パートナーには逃げられ、おばさまたちに押し切られつつある、今の現状を、どうにかしなければならない必要性に駆られていた。もっと純粋にダンスを踊りたい。その為にはどんな事でもしてやると、心に強く思うほどだ。
───だが、どうしたら…。
「とにかく、パートナーには逃げられた。アシスタントで雇った子は、耐えられなくなって…」
深沢の内心の溜息が聞こえてきそうだった。
「おばさま連中の攻撃か?おまえがカバーしないでどうするんだ」
それは、深沢自身良く分かっていることだ。
「毎度毎度、そんなことで揉めて、レッスンにならないんだ」
椎葉は、いつの間にか目の前に置かれていたコーヒーに気がつくと、鷹東を探し、軽く手をあげた。コーヒーの香りを楽しみながら、一口飲み、陶器のカップを見つめる。
「おまえはいつもそうだよ。ダンスに心が奪われている。だから、女は嫉妬する。自分だけを見て欲しいって、思う生き物なんだよ」
「分かってはいる」
そう理解はしていない。いつもと同じ返事に、椎葉は苦笑いを浮かべた。
「なのに、どうしてだろうなぁ。踊っているときのおまえは、最高にイイ男なんだよ。この俺でさえ、もう一度踊りたいって気にさせられるくらい!」
ダンスホールに立つ深沢は、ゾクゾクするほどイイ男だ。巧みなリードと、女性の陰にならない圧倒的な存在とリズム感。裸で躍らせて、躍動する筋肉を見てみたいと密かに思う程だ。今の状態の歯がゆさに、クソッ!と吐き出した。
深沢は込み上げる笑みを抑えながら、
「おまえは、いつも俺を煽てるのが上手い」
こんなふうに、思ったことを口に出してくれる椎葉が、なんでも話せる唯一の友だった。だからこそ、此処に呼んだのだが。
ふと視線を窓の外へと向ける。いつもの時間はとうに過ぎていた。今日は現れないかも知れないと落胆したその時、
「……!」
口許に笑みを浮かべた。椎葉の視線を窓の外へと向けさせた。
「なんだよ」
眉間にシワを寄せ、視線を向ける。窓に向かったカウンター席なので、外の景色を眺める。なかなかの景色に見惚れていたが、急にアッと目を見張った。川の向う側の歩道を誰かが歩いている。首だけを向けていた視線を、体ごと向けじっと凝視した。
「………」
襟足くらいの茶色の髪が柔らかく揺れている。離れた場所からでも分かる、意志の強そうな茶色の瞳。噛み締める唇は血色よくピンク色。面長ですっとした整った顔立ちをしている。ほっそりとした体付きに、その手足はとても長い。薄い紫色のチェックのシャツに、黒のジーンズを穿いている。ひと目で、見映えする容姿をしていた。
いつもと同じ場所で、そっと深沢の視線を感じたかのように立ち止まる。視線を寄越すが、川沿いを歩いていた足は、高級住宅街へと曲がっていった。その姿が見えなくなると、一気に残りの冷めたコーヒーを飲み干した。
「………」
最近、この瞬間だけが深沢の楽しみになっていた。あの体がどんなふうに踊るのか、見てみたい。妄想癖がつき始めていることに笑ってしまう。それ程までに、深沢の心を掴んでいた。
考え込んでいた椎葉は、少しの間のあと、深沢の目を見つめた。
「あの子は…。いや珍しく、俺を呼びつけると思ったら…」
用件を飲み込んだ椎葉は、可笑しそうにクスッと笑みを浮かべた。久しぶりに見たから、直ぐには分からなかったが、自分は彼をよく知っている。
「…彼の名前は、
「欠点…?」
よく分からないと顔をしかめると、
「あぁ…、要は、女と変わらない細さと身長なのに、力強いバネのある足腰と美しさに、嫉妬するわけだ」
「また、嫉妬か?」
うんざりしていた会話に戻され、露骨に表情に表す。椎葉も苦笑いを浮かべた。華やかな世界ほど裏側はとても醜い引きずり合いがある。
「その後が後味悪い。確か、高校くらいの時だったかな。噂では、それがいいきっかけみたいに、彼はあっさりと身を引いたそうだ。本当に勿体無いことだ」
「それ程までに綺麗なのか?その肉体美は…」
はっきりと大きく首肯いた。だが、椅子に凭れ掛かかると、深沢を横目で見た。
「でも。あいつは男だ」
何を今更と、含み笑いを浮かべ、コーヒーのカップを弄ぶ。
「社交ダンスは、男と女が踊るものだろう?」
「…踊ろうと思えば、踊れるさ」
「レッスン室でか?」
吹き出して笑った椎葉に、何も答えなかった。既に抑えられない感情を持て余していた。自分の中では、すでに彼を見てから考えが決まっている。カップを置き、真剣な表情で椎葉を見つめる。
「俺の教室主催のダンスパーティがある。どうしても、穴を開けるわけにはいかない」
「マジなのか──!」
椎葉の驚きの声を聞きながら、大きく頷いた。彼を見た瞬間に、一瞬で興味を抱いた。あのどこか近寄りがたい雰囲気と、そっと深沢を見つめる視線のあどけなさが、気になって仕方がない。彼と踊ってみたいと真剣に思った。こんなに遠くからではなく、側で見てみたい。
そんな強い心境が分かったのか。椎葉は少しの間悩んだが、問題はとても簡単な事ではないと、小さく首を横に振った。もしかしたら、彼の人生を大きく変えてしまうかも知れない可能性が秘めている。
「今度ばかりは、力になってやれない」
「おまえにそこまで、期待してないさ」
「でも、どうするんだ?」
「おまえも、つくづく…」
お節介なヤツだなと思ったが、これも何度も言ったので、飲み込んだ。
「このまま、ほおって置けるなら、付き合ってないさ」
なるほど。深沢だって、パートナーとして男を口説くのは初めてだ。さて、どうすれば彼と話をすることが出来るだろうか。
「──チャンスを、与えましょうか?」
そんな声が、背後から聞こえた。黄色のロゴが入った黒色のエプロン。真っ白なシャツ。オールバックにした髪を下ろしたら、かなり若く見えると思うが…。鷹東と目が合うと、にっこりと微笑んでいる。営業スマイルとは違った笑みに、興味が湧いた。
「日曜日の一〇時から一四時まで。いつでもいらして下さい」
自分よりも年上だろう鷹東の顔を見つめた。人生、どこまで追い詰められたら、こんなにも不思議な人になれるのだろうか。この不思議さは、妙にそそられる。
「俺は、チャンスは逃がさない質なんだ」
益々この店を気に入ってしまった。
日曜日は、ゆっくり過ごすと決めていた。実際には競技会があるので、生徒にどんなに迫られても、この日だけは入れたことがない。その代わり、平日がどんなに忙しかろうと、レッスンの後のデートだって構わなかった。とにかく、日曜日だけは一人きりでいる時間が必要だった。
繰り返される日常に、嫌気が差しているのは認める。生徒相手のレッスンは、基本パターンというものがある。だが、みなベーシックを嫌い、少し派手なパターンや、見た目の格好良さをいう。手におえないのは、年齢による体の限界というか、体が動かないのを全く理解せずに、あれやこれやと要望を言ってくる。一番面倒なのが、あの人がしている踊りを、私にはしてくれないという嫉妬的、不満を遠慮なくぶつけてくることだ。とにかく、満足のいくように、手とり足とり教えているにも関わらず、少しも納得はしてはもらえない。
ダンスだけをこよなく愛している深沢にとって、それは煩わしいことにこの上ない。でも、生活を維持していくためには、避けられない現実でもある。
そんな深沢の休息の日が、日曜日だった。買物以外は外にも出ずに、まめに掃除をしたり、ベランダの植木を見つめたりしていた。最近、それだけでは満足しきれない何かが、自分のなかで広がっていた。疲れ切っているのかも知れない。そんな生活パターンを変えるためにも、鷹東の誘いは、いい気分展開になると思った。
珍しく収納ロッカーの前で考え込み、いつも着ている白のシャツを手に取り、
「気分を変えるなら…」
その隣にある明るめのミントグリーンのセーターに、ベージュのズボンを取りだしてみた。清々しい感じに、少し照れを感じたが、直ぐに慣れるだろうと、そのまま出掛けていく。マンションの外へと出ると、一気に蒸し暑さが襲ってきた。まだ、春が終わったばかりだというのに、この暑さは信じられないほどだ。陽ざしを避けるように速足で歩き、『こもれび』のドアを開けた。
「いらっしゃいませ!」
いつもとは違う声に、ふと視線を向ける。カウンターの中にある姿に、驚いて立ち止まる。ちょうど、こちらに笑顔を向けた彼も、驚いて目を瞠った。
「……っ!」
何か突風のようなものが、胸のなかを吹き抜けた。深沢は我に返ると、平常を装い、混んでいる店内を見回し、カウンターの席に座った。この店は、ほとんどがバイトで、曜日毎に変わっていることは知っている。まさかだろう?可笑しそうに笑っている鷹東に、深沢は小さな声で呟いた。
「知っていましたね」
今日はこの顔が、曲者に見えてくる。深沢は両手を上げて、降参ポーズをした。子どもに騙されたような気分だ。こんな偶然はないだろう。思わず笑いかけて、手で口を隠した。頼んでもいないのに、目の前に出されたコーヒーを、何も言わずに口をつける。そう、この卒のなさが、またたまらない。
その時、カウンターの中から食器の割れる音が響く。なつめの無表情だが、罰の悪そうな顔。この店では珍しい光景に、不思議そうに眺めると、そっと視線が合った。なぜか睨まれ、背中を向けられる。
「いつ頃ですか?」
「片思いが始まった頃でしょうか?」
「俺が、マスターに?」
「型の大きいのは、僕の好みではありません」
内心ため息を吐き出した。自覚のない時から、既にばれていたようで居心地が悪い。今までは違ったが、どうやら類は友を呼ぶってことか。深沢は、そっとバイト姿の新藤なつめを横目で見た。
外の気温は上昇しているので、日陰でずっと裏口のドアを見つめていた。鷹東の話では、バイトは一四時までのはずだ。ならば、きっともうすぐ出て来る。
さて、チャンスは絶対に逃がすものか。
「………」
裏口のドアがゆっくりと開き、
「それでは失礼します」
声は優しいトーンだった。ドアを閉め、そっと一歩歩き出したが、予想通り、深沢の姿に驚いたように立ち止まった。ピンクのTシャツに、ベージュのパーカーを羽織り、ピッタリした茶色のズボンを穿いている。近くで初めて見る彼の容姿に一瞬、見惚れていた。確かに、中性的といった感じがする。身長差は十五センチくらいだから、ほぼ理想に近い。
なつめは何も言わず、難しそうな顔で立ち止まっていたが、無言で立ち去ろうとする。
「すまないが、少しの間、時間をくれないか?」
不思議そうに振り返った。その隙を逃がすことは、許されない。
「一時間でいい。それだけあれば、十分だ」
「なぜ?」
「頼みがある…」
少しも頼んでいるように見えないが、深沢を睨み付け、押し黙った。なぜか、怒っている感じがするのは気のせいだろうか?不思議そうに返事を待っていると、
「わかった…」
案外あっさりと許可をもらい、そっと先を促すと、黙って付いて来る。そのまま、川沿いを下流へと向かい、繁華街を横目に駅へと歩いていく。十五分くらい歩いただろうか。
茶色の三階建ての賃貸ビルの前で立ち止まる。高級住宅地に合った洒落た外観に、広い駐車場が気に入って此処を選んだ。一階の落ち着いたモダン調のドアに鍵を差し込む。ドアには『FDスタジオ』と上品な看板が掲げられている。ドアを大きく開き、部屋中の電気を一気に付けて行く。
なつめは躊躇うようにゆっくりと中へ入った。眩しいくらいの電気が付くと、部屋のなかをクルっと見回す。出入り口の両サイドには、高級感溢れるソファが置かれ、左右の壁全面に鏡が張られている。ソファの近く壁には、カラフルなドレスが何着も飾られている。部屋の奥にはドアが何個かあり、受付のカウンター、空いたままになっている控室。その至る処に、深沢の写真が飾られていた。引き寄せられるかのように、写真の前に立った。
スポットライトに照らされた横顔に、首筋のラインを汗が流れている。逞しい胸板の躍動感まで伝わってきそうなくらいだ。男らしいセクシーな眼差し、激しさを物語る盛り上がった筋肉。そして、なつめは一枚の写真の前で立ち止まり、思わず呟いた。
「なんで、こんな所に…」
大きく看板を出しているわけでもないが、情報は口コミの方が早く伝わり、安心感もあるらしい。実際、生徒募集を一度も出したことがないのに、手に余るほどの生徒はいるのだ。
「知らなかった。いつから…」
なつめの小さな呟きに、ステレオの前で曲を選んでいた深沢はそっと笑う。
「此処に開いてか?…半年以上経つか」
「こんな分かりにくい…」
「なにが…?分かり易いじゃないか」
なつめのよく分からないが、何か怒っているかのような視線に、動きを止めたが、深くは追及しなかった。ホールの真中に立ち止まると、ワックスで光っている床板を、何度か蹴飛ばす。このワンホールにある物は、最小限にしてもらった。奥側の右の扉は更衣室と手洗い場へと続くドア、真ん中にカウンターがあり、左側の開いたドアは、深沢の控室だ。マッサージチェアとデスクにパソコンを置いている。カウンターの後ろには、今までの経歴を表すかのように、写真やパネル、トロフィなども飾ってある。
「これ…」
なつめが指差した四年前の写真を見て、あぁと視線を外した。三位を取ったときの写真であり、あまり好きではなかった。今よりも少し長めの髪を、クシャクシャに掻きあげ、日に焼けた体を見せつけるかのように、紫色のシャツをはだけさせ、ワイルドな雰囲気を醸し出している。一番充実していたといえる時であり、ラテンダンサー、深沢宗司の存在は輝かしいものだった。
「珍しいものじゃないだろう?客寄せパンダの写し絵みたいなもんさ」
そう言いながらも、視線は悲しく逸らされた。
シャツのボタンを外し、胸をはだけるように崩した。奥の右側のドアを開け、更衣室とトイレのドアを通り過ぎると、広い豪華な手洗い場で、ふんわりとした髪を手櫛しで掻きあげ、オールバックにする。それだけであるのに、雰囲気が一瞬にして変わる。ドアから出てきた彼は、戦闘態勢のような変わりようだった。
なつめは促されるまま、高級そうなソファに座った。体まで沈んでいくソファに驚いて姿勢を保つと、真剣な眼差しを深沢へと向けた。こんな機会は滅多にない。
「社交ダンスを見たことがあるか」
「あぁ…」
「二人で踊るものだが…。まずは、ルンバ…」
手に持っていたリモコンで、ステレオのスイッチを押すと、ゆっくりとしたテンポの音楽が流れてくる。どこか切ないバラードだが、低音のリズムに合わせて、深沢の体が柔らかく踊り始める。その腰付きは、微妙なほど緩やかに、だが、動きの一つ一つは、体から生まれて来るバネによって、発される柔らかさと伸びだ。
ダンスの腰の部分は、つまりは胴となる。柔らかさを表現していても、筋肉は激しく動いている。社交ダンスというと、おじさんおばさんのダンスというイメージがあるが、実際には、ラテンは弾けるような肉体と、激しいステップ、息の合ったコンビネーションによるものが多い。
深沢の容姿は、ラテンに染まりきっていた。シビアな視線、動き一つ一つから感じられる情熱の高まりは、見ているものをその世界へと引き込んでいく。軽くベーシックを踊り、最近この曲をイメージしてバリエーションを作り上げた。だからだろう。より一層の深沢の世界のイメージが、深く伝わって来る。だが、誰一人として、その世界を表現出来た者はいなかった。
四年前のあの写真──。パートナーとの相性と技術は最高だった。だからこそ、よりチャレンジしてみたい思いが強かった。結果、独り善がりと言われ、パートナーは去って行った。もっと激しく、もっと強く、踊りたい。胸が躍るほどの達成感を味わいたい。
「………」
なつめは内心苦悩していた。引き込まれそうになる気持ちを抑えながら見つめる。高まる気持ちは座っていることが苦痛な程だ。あんなふうに踊れたらどんなに気持ちがいいだろう。心を大きく揺さぶる程、セクシーに迫られる。気付くとそっと目の前に差し伸べられた手に、目を見張った。
「いつまで、一人で踊らせるつもりだ?」
鋭い視線が、心の中までも激しく貫いていく。
「俺が欲しいのは、パートナーだ。そして、おまえの体だ!」
そう言いきった深沢に、どこか笑いが込み上げてきた。こんなに心が昂ぶったのは初めてだ。そんなことは表情にも出さず、靴下のまま歩み出た。見上げる視線は、激しいまでに鋭かった。
「こんな中途半端な体が、あんたは欲しいのか?」
着ていたパーカーを脱ぎ捨てた。ピンク色のTシャツから、白く長い首筋に、細い肩と無駄な筋肉のない背中。スパッツのような幅のないぴったりとした茶色のズボン。長い脚と小さなお尻。ボディラインを眺めるには十分だった。深沢は額の汗を拭いながら、その美しい体に、笑みを浮かべる。
「なるほど…」
「その前に、俺にも選ぶ権利がある」
深沢の差し出した手を掴んだ。なつめに押される形で、ホールに立った深沢は、しっくりと馴染むことに驚いた。
「…まずは、何も考えるな。ただ、真っ直ぐ前に歩くんだ」
女性のステップなど知らないなつめは頷いた。深沢が止まれば止まる。微妙な力加減を調整され、それによって体の体重の移動をさせられていることに気付いた。リードによって、体の向き、足の運ぶ位置、求められる事が触れている手の感覚だけで伝わってくる。凄い!と思わず舌を巻いた。だが、なつめのバレエで鍛え上げられた筋肉は、深沢のどんなリードにも、ブレることなくついていく。
「そのまま、足があがるか」
回転と同時に、深沢の体を軸にして、片足を振り上げる。真っ直ぐに肩のラインまで振り上がった足は、そのままキープ。さすがの筋肉美に、深沢は楽しそうに笑みを浮かべた。体の向きを変え、なつめの体を抱き込んだ。
「………」
一瞬硬直した体が力を抜けるのを待ち、そのまま倒していく。普通なら、深沢に全体重を掛けてしまいがちなのだが、なつめはその柔軟な体と筋肉で、少しの支えでラインを保つ。そっと太腿を撫でると、
「スケベ」
「違うだろう」
促されるままに天井に向かってその足を上げた。深沢は鏡でそのラインの確認をする。ゾクゾクするほど綺麗なライン。何もかも忘れて、ただ踊り続けた。
どれだけの時間が過ぎただろうか。ふと深沢は、なつめの手を離した。疲れ果てたのか、彼はそのままソファへとダイブした。何時間踊っていたのか分からない。久しぶりに爽快感を感じた。ゆっくりとなつめに歩み寄り、
「交渉成立か?」
「冗談じゃなかったんだな」
「当たり前だ」
なつめは荒い息をしながら、笑みを浮かべた。身体が痺れるほど、深沢とのダンスは楽しかった。彼の手を掴んだ瞬間から、答えは決まっていた。
「くれてやってもいいけど?」
「けど…?」
「そう…」
「なんだ。金か──?贅沢をさせてやれるほど、俺は持ってないぞ」
『こもれび』のバイトをしているのを思い出し、考え足掻いた。これから、半年後に行うパーティは、一周年記念の大切なイベントだ。かなりの大金が動く。なつめをパートナーとして、ついでに教室の受付のバイトとして、雇うことなら出来るかと思い、
「レッスン料抜きで、棒引きって訳にいかないか?他に教室の手伝いをしてくれるなら、そのバイト料は払うが…」
なつめの反応の薄さに唸り始めていると、
「金はいらない」
「あっ?おまえ、バイトしているじゃないか」
「あれは、別に金が欲しくてしている訳じゃない」
「なら──」
「あんたのパートナーになってやってもいい。けど、その間、あんたの人となりを知るために、一緒に生活させてもらう」
笑っている彼を凝視すると、何も考える事もなく、
「了解」
なつめの方が目を見開いた。
「えっ?ほんとに」
「ああ…。で、いつ引っ越してくる?」
彼と踊りたくてうずうずしているんだ。自分のやりたい時に、ダンスが出来るのは願ってもないことだった。なつめは捕まれた腕の強さに、深沢から視線を逸らせなかった。
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