第2話 老荘を交えた般若心経語り
仏教と老荘が親和性高いという話を聞いていたので、どこかできっちり、せめて般若心経とは戦っておきたいと思いました。と言うわけで戦いました。結論。ドチャクソ斉物論。笑った。以降、そのあたりについて語ります。自分なりの全訳は前ページの通り。
○般若心経についての総括
「やれ。いいからやれ。ギャテー・ギャテー・ハラギャテー・ハラサムギャテー・ボーディ・スヴァーハ! と唱えながらパンニャーパラミタの行に打ち込め。ごちゃごちゃ考えるな。雑念は無駄だ。」
以上。
ちなみにここについては、今回の訳出にあたって参考にした「飲茶」氏がちゃぶ台返しをぶち決めていて面白いです。「いやまあパンニャーパラミタに専心できるんならマントラって別に何でもいいよね?」。
確かに、それはそう。重要なのは「専心」ですものね。後進たちに余計なことうだうだ考えさせないようにさせるため、ギャテー・ギャテー・ハラギャテー・ハラサムギャテー・ボーディ・スヴァーハ! が最強のマントラであるとこそ語られてはいますが、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚は悟りの境地そのものがそれであり、言葉は所詮言葉ですよね、とは言えそうお題目を掲げとけば、疑いなくとりあえず唱えまくるだろうし、それはそれでありだよね、と言う感じでした。
○総括を受けての感想
と言う、いきなりの予断をぶち決めて、般若心経についての感想を語っていきます。「悟りを言葉でどうにかできると勘違いするなんてアホか」がすべて。
もう完全に老子第一章。「道可道非常道、名可名非常名。無名天地之始、有名萬物之母。常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼」。言葉にできるはずもねーもんを勝手に言葉にしてわかった気になるとかアホかはそこでも語られています。
あ、荘子斉物論でも言っていますね。「夫道未始有封,言未始有常,為是而有畛也」。道ってよくわからん区切りのないアレなんだけど、そこになんかアホどもがごちゃごちゃ区切りを入れ始めたんだよねー。アホだよねー、とゆう。
前話にて、般若心経を九つに区切りました。1でマエフリをしています。観自在菩薩がパンニャーパラミタに打ち込んでいたとき、「悟りを言葉でどうにかしようと思うなんかアホじゃん」と気付いた。
2~5では、まさしくその「言葉で悟りをどうこうしようとすること」の愚かしさを懇切丁寧に説きます。この叩き方がまたクッソ丁寧で、かつ容赦なくてひどい。しゅき。
そして6、7では「うだうだ考えるな、パンニャーパラミタだ、パンニャーパラミタに集中しろ」と語るのです。けど2~5に示したとおり、仏徒は過去にお釈迦様から教わった偉大なるお言葉たちからなかなか自由になれず、どうしても言葉で悟りを捉えようとしてしまうのです。なので般若心経を書いた人はため息をつきました。
えっ集中できない? 仕方ないなあ、なら8、9で集中のためのおまじないを教えてあげるね。ちちんぷいぷいみたいなもんだよ。けど下手にちちんぷいぷいとか言うと疑わしくなるだろうから、めっちゃ偉大な呪文と言い切っておくね。ギャテー・ギャテー・ハラギャテー・ハラサムギャテー・ボーディ・スヴァーハ! はいご一緒に、ギャテー・ギャテー・ハラギャテー・ハラサムギャテー・ボーディ・スヴァーハ!
ボーディ・スヴァーハ!
(では以降各節の内容を見ていきましょう)
○1 マエフリ 観自在菩薩ニキ、悟る
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
照見五蘊皆空 度一切苦厄
「観自在」とは、様々な周辺情報に囚われず、自分の目でものを見れる人、といった意味合いになってくるでしょう。そこに「菩薩」、悟ったひと、が載る。その後神格化されて今では観音さまとして拝まれていますが、般若心経が成立した段階では悟りを得た人々のうちのあるひとり、位の意味だったのでは、と思います。そうしたひとが「パンニャーパラミタ」の行に打ち込んだとき、ふと気付いたそうです。
「五蘊ってぜんぶ空じゃん!」
やめてくれませんかねいきなりの専門用語?
ともあれ雑に語れば「俺らの見聞きするもんって全部勘違いじゃね?」になるわけなんですが、それはそれで誤解が生じる。と言うわけでぼくはここから老荘に絡めてこの辺りを見ます。
「空」。これはつまり「道」です。道と言うことは、世界そのもの。このあたりの結論に至るにあたっては、こちらの老子に関する考察をご参照ください。
https://kakuyomu.jp/works/16816927859749595280/episodes/16817139558413284306
「道があり、道にあり、道である」のが、世界のありよう。ならばそいつを観測する自分自身も「道があり、道にあり、道である」ことの一部分でしかありません。道には存在も含まれるし、概念も含まれます。あらゆる「何か」。その総称。あまりにもどでかすぎて、我々人間の目からすると解釈のしようがない。老子が道を「無」と呼んで、いやその表現じゃわかりづらすぎんだろいいかげんにしろと荘子が「ウズラが片翼四千里の超巨鳥『鵬』を見たときの様子」と矮小化して語ってくれています。つまりこの世はあまりにもどでかい。よくわからん。なのでまるで空っぽみたいに見える。
「五蘊」。これは我々人間が「何か」と接したとき、その「何か」を認識した、と理解するまでの段階を細分化したもの。色・受・想・行・識の五つですが、「何か」が色で、以降はそれを観測者がどう受け入れるか、の段階を表わしています。
とは言え、ここで言う「何か」って、空を人間の限定された感覚に基づく思い込みで勝手に切り出したものに過ぎないのですよね。ついでに言えば受・想・行・識の四階梯も、ほんとはもっと細分化されるのかも知れない。お釈迦様のお言葉では四段階だけど。と言うかいちいちそんなの細分化することに意味なんてある? みたいな話にもなってしまいます。え、じゃあ「何か」も勘違いだし「感じ取る階梯」も勘違いじゃない?
そうやって考えると、自分の外にある何かも、それを感じ取る自分も、大体が勘違いじゃない? そしたら自分の苦しみだなんだも、あれ、ただの思い込みじゃない?
そう気付いた観自在菩薩さんは、出し抜けに今までの苦悩は何だったんだ、と悟ったそうなのです。
○2、3 シャーリプトラいいかげんにしろよ
舎利子
色不異空 空不異色
色即是空 空即是色
受想行識亦復如是
舎利子 是諸法空相
不生不滅 不垢不浄 不増不減
ここに出てくる舎利子は多くの場合シャーリプトラ、仏陀十大弟子の筆頭として智慧第一と呼ばれる人物に比定されるそうです。なんだその厨二。ともあれ、ここで般若心経の筆者氏の怒りが爆発しているのがわかります。
この経文はシャーリプトラに対して呼びかけられたもの。すなわち「知恵の象徴」とされる弟子を殴ります、と言うわけです。上でも書いたとおり本当は2~5でワンセットなのですが、そこに先立ち、著者氏はシャーリプトラを殴る。とにかく殴る。「五蘊みてーな単なる方便をてめー、よりにもよって真理であるかのごとく奉りやがったな」と。
五蘊は色・受・想・行・識の五つなわけですが、まずは色について解説しています。色とは「巨大な世界そのもの(=空)を観測者の感覚に則して切り出した」ものに過ぎない、と言うのです。故に色即是空。そしてそんな空がいま観測者に認識されているのも確か。その見えている部分は「色」と呼ばれているものに他なりません。だってそれが定義だものね。ゆえに空即是色。
なお釈迦自身はこの五蘊を、自身を観察するための一つの手法として語ったようです。一方で「やがてはその考え方も捨て去りなさい」とも語っているようですが。
つまり五蘊とは大上段に掲げるべきものではなく、悟りを得るにあたって自分を観察するときに用いられる、ちょっとした小道具。だからここにいつまでもかかずらってる暇があったらそもそもの基本である「全部が空」に戻ってろ、となる。それもできずに色を認識する自分、なんてもんをいちいち抱え込みすぎるもんだから「空が増減したり汚れたり綺麗になったりする」みたいな勘違いを起こす。
そりゃオメーが勝手に区切ってる中でだけの話だアホ、シャーリプトラ、てめーが「とっとと捨てるべき小道具」を重大な教義として抱えこみくさったせいで後進たちがことごとく道を外しちまっただろうが、そう、般若心経の筆者氏は切れています。
○4、5 五蘊が勘違いならあとも全部勘違い
是故空中 無色 無受想行識
無眼耳鼻舌身意
無色声香味触法
無眼界 乃至無意識界
無無明亦 無無明尽
乃至 無老死亦 無老死尽
無苦集滅道 無智亦無得
解説を読むとここには4つの概念が盛り込まれています。まずは五蘊。その次に十八界。次いで十二因縁、そして四諦。般若心経の筆者氏はぶった切ります。「全部思い込みです」。つおい。
五蘊では先に言ったとおり「空を自分なりの尺度で感知する自分自身」の存在が示されています。次いで十八界は、①どんな感覚器官で我々が空を感知しているか(これが視聴嗅味触+それらを認識すること、感覚までが合わさって6つ)、②それによってどのように感じ、③思うかが語られます。①に提示した6つが②、③においてもそれぞれ再度提示されるので6*3=十八界。こうして空から様々なものを自分なりの尺度で感知することを改めて理解した我々は、しかし根っこに「無明」、根源的な勘違いを抱えるものだから様々な悩みに取り憑かれる。そうしたものが絡まり合った末に生まれるのが、老いや死に対しての恐怖。無明から老死にいたるまでで合計十二の懊悩があるので、十二因縁。そしてこれらから解き放たれるためのメンタルセットとして四諦を学ばねばならない、とするのが、般若心経登場「以前」の仏教思想。
ここで老子の言葉を再び。「無名天地之始;有名萬物之母。」上でも引いてはいますけどね。名前をつけていない状態は「すべて」である。しかし名前がつくことで「万物」が生じる。似たものを感じます。本来「空の前にある自分」からさらに一歩進んだ「自分もまた空」が実態なのですが、我々はどうしてもそこから自分を切り出してしまう。このため迷いが生じ、その迷いを振り払うための思考を転がし始めたら、なんと五蘊十八界十二因縁四諦と、ごろごろ万余もの思考がまろび出てしまいました。
こうした状態、荘子はせせら笑っています。ほんとあいつ性格悪いな。「大知閑閑,小知間間」。すげー知恵はそもそも言葉になりようがねー、こしゃまっくれた知恵(笑)でとどまるからせかせかと語らにゃなんねー、とまぁ、もうひどいひどい。ついでにもう少し後でこう言います、「已乎,已乎!」やめとけやめとけ、無駄無駄! 「終身役役而不見其成功,苶然疲役而不知其所歸,可不哀邪?」んなこと無駄にごちゃごちゃ考えて日々を過ごして衰えた末に死ぬわけだ、虚しくね?
そして、トドメにこう言います。「无有為有,雖有神禹,且不能知,吾獨且奈何哉?」よくわからん、なんだかとんでもねーもんを言葉や概念としてどうにか論証しようにも、昔には禹王みたいにドチャクソ頭のいい王様だっていたんだぜ? そんな神みてーな知恵の持ち主にすらどうしようもなかった問題を、どうしておまえが解決できると思ってんの?
煽りの天才荘周。
と言うかね、引用がクッソ長くなっちゃいますからリンク貼っちゃいますが。
https://kakuyomu.jp/works/16816927859749595280/episodes/16817139556918550962
これ of これなんですよ。下手に言葉で語ってみてもどうしょうもないものを、あえて言葉にしようと試みる。その先にあるのは言語化の無限連鎖でしかない。
tan 90°は、90°の手前に近づけば近づくほど無限の極大化をします。けど、tan 90°そのものに行き着いた瞬間数学は思考を放棄する。「そんなものはない」くらいのことすら言い始めます。そして90°からちょっとでも離れると今度はマイナス無限から顔を出し始める。なんぞこれ。理性的思考の粋と思われているような数学の世界にあってすら「どう頑張ってもよくわからない、以上のことが言えない」概念が存在してるわけです。悟りに行き着くまでに無限の思考が求められても、悟りそのものの前には全く無意味、みたいな境地は、tan 90°の世界からも見出せるような気がしています。
ああのこうのと考えを転がした先に見つけた「答え」らしきもんなんて、所詮答えでもなんでもねーんだよ、そう般若心経の作者は語り、この辺りは中国でも「バカの考え休むに似たりだバーカ」とシニカルな思想家たちが語っているわけですね。
○6、7 だからパンニャーパラミタなんだよ
以無所得故 菩提薩埵
依般若波羅蜜多故
心無罣礙 無罣礙故
無有恐怖 遠離一切顛倒夢想
究竟涅槃 三世諸仏
依般若波羅蜜多
故 得阿耨多羅三藐三菩提
五蘊・十八界・十二因縁・四諦なんてもんをいくら転がしても悟りになんかたどり着けませーん! 残念賞ー! そう爽やかに語った般若心経の筆者氏。それを訳した歴代の漢語圏僧たちはボーディサットヴァ=菩提薩埵(悟りを目指すひとたち)、パンニャーパラミタ=般若波羅蜜多(完全なる智慧)、アヌッタラサムヤックサンボーディ=阿耨多羅三藐三菩提(この上なくすぐれ正しく平等である悟り)を、敢えて訳さずサンスクリット表音を保管しています。ちなみにこれは玄奘の創意ではありません。玄奘訳のベースになった鳩摩羅什訳、の、更に手前に出ていた方針でしょう。誰の方針かは不明。菩提薩埵については適切な訳語を見出しづらかった、と言うのもありそうですが、後者二つについては、その気になれば訳せたであろうものを保管しています。つまりそれは「概念として下手にいじってしまってはいけない」ものなのだろう、と言うのがうかがえます。
で、いいかげんここを書かねばならない。パンニャーパラミタに打ち込むってなんやねん。調べるとパンニャーを獲得するための修行。6パラミタ、10パラミタ、果てには91パラミタがあるそうですが、きりがないのでここでは6パラミタを見ておきます。
檀那(ダーナ) 布施・喜捨。
尸羅(シーラ) 戒律を守ること。
羼提(クシャーンティ) 忍耐。
毘梨耶(ヴィーリヤ) 努力。
禅那(ディヤーナ) 心の集中、安定。
般若 (パンニャー) 智慧。
し修行……? と思わざるを得ませんが、こうしてみると、いわゆる苦行が羼提の拡大解釈なのかな、と言う印象にもなりますね。まぁともあれ、観自在菩薩さんはこうした行を深く積んだ結果「あっ五蘊以下って勘違いだ」と気付いたのだ、と。
アヌッタラサムヤックサンボーディ、については、これ、まぁあれでしょうね。「俺たちが一般に言う悟りって言葉が安っぽくなっちゃったのでカクチョー高い言語を持ってきましたよ」。阿耨多羅三藐三菩提。文字として強い。ただ三はない。おめーそこ原語を英語圏では same に比定してっからな?
○8、9 まだ迷う? 仕方ないなあ
故知 般若波羅蜜多
是大神呪 是大明呪
是無上呪 是無等等呪
能除一切苦 真実不虚
故説般若波羅蜜多呪
即説呪曰 羯諦 羯諦
波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提娑婆訶
般若心経
五蘊・十八界・十二因縁・四諦は勘違い。そう書きはしたが、問題がひとつある。これってお釈迦様自身が発したお言葉らしいんですよね。つまり重要な言葉として根強い。
ただ、どうもお釈迦様ってはっきりした答えを示さず回りくどいお言葉で「自力で気付かせる」よう仕向けていたそうなので、そうするとご本人が語っていたあらゆる言葉って原則として「語った相手」以外には無意味、どころか下手をすれば害があったりもしそう。
なら変に言葉そのものを保管するのは却って危うそうでもあるんですよね。
現に般若心経の筆者氏はキレてる。どちゃくそシャーリプトラにキレてる。こうした言葉が余計な迷妄を招いたんだってキレてる。そこを振り払わせるためにも、信徒たちの頭を空っぽにさせねばならない。というわけでシャーリプトラの権威を否定するためにマントラを捏造しました。あいつの言葉なんぞよりぼくのマントラのほうが権威がありますよ。そう方便をたたき出して。
とは言え、この方便。意味を見てみると、いちいち「あぁ、まさしくだ」と頷かずにおれなかったりもするわけです。
gate gate pāragate pārasaṃgate bodhi svāhā!
gate 行った
pāra 向こうに
saṃ ともに
bodhi 悟り
svāhā! 幸あれ
直訳すると行った、行った、向こうに行った、共に向こうに行った、悟りよ、幸いあれ、と言った感じになるでしょうかね。完全に偶然なんですが、悟りが老荘で「道」と呼ばれているものとの合一が示されていることを考えると、ここでもやはり「移動」がその基底視座になっているのが非常に興味深いです。
「これまでたどり着けなかった場所」にたどり着くため、我々はパンニャーパラミタに打ち込みましょう。それがこのお経の訴えるところなのだな、と感じました。
○うだうだ書き連ねた、その先
現代日本では、面白いことに般若心経そのものが gate gate pāragate pārasaṃgate bodhi svāhā! 的マントラとして機能している気がします。たとえばそこに、今回みたいにその内容を懸命に噛み砕いてみよう、などとする意味もないようには思うのです。ここにあるのは確かに言葉ではあるのですが、悟りを得るためには殊更な思考というものが邪魔になる。ならば、この経文を専心に唱え、パンニャーパラミタをする。
6パラミタにしても、檀那・尸羅の再現は難しいにしても、羼提・毘梨耶・禅那を求めることはできるでしょう。その先に悟りを得られるかどうかはひとまず度外視とし、自分がいまの楽しみに、雑念なく専心するためのヒントは、きっとこの経文を唱える中で見出せるのかも知れない、とは思いました。
さあ、ここからもっと仏典に……行く前に概説書行こ。いや経文無理無理。
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