第2話
人の気配がして目を開けると担当の若い看護師が体温計や血圧計を持って近づいてくるところだった。22、3歳ぐらいで小柄でほっそりして目が大きいのが特徴の可愛らしい看護師だった。
「冴島さん、検温です」
毎朝必ず行われる検温は儀式のようなものだった。入院してからは担当の医師と看護師としか会話を交わしていなかった。
「37度3分です。微熱が続いていますけど、どんな感じですか?」
緩和ケア科の病棟の個室で毎日繰り返される会話。
「このぐらいどうということないです」
本心だった。いつ死んでもおかしくないぐらい弱っているが、このぐらいの熱はどうということない。体調が少しぐらい悪くても気にしなければどうということはないし、なんとかするのが軍人だと信じて疑っていなかった。ベッドに横たわっている
身長183センチでがっしりした体格だったが、不治の病に罹り軍を退役して数年のうちに筋肉は落ち、別人のような相貌になっていた。だが楽観的な性格で精神の頑強さだけは20代の頃と全く変わっていなかった。
酸素飽和度と血圧を測っている間に枕元のリモコンでテレビの電源をオンにする。テレビは特に見たいと思わないがニュースだけは見るようにしていた。
ニュースでは24、5歳ぐらいの小柄でショートヘアの可愛らしい女性アナウンサーが最新ニュースを読んでいた。世界経済は大国の仕掛けた戦争によるダメージが2030年になっても回復できていなかった。まだ冴島が自衛隊の自衛官だった2020年初頭、大国が自国領宣言をした他国への侵攻によりヨーロッパ、アジア地域は大混乱に陥り、その余波で世界経済は大打撃を被った。自由民主勢力や周辺国による積極的参戦により核を使わずに戦争は収束に向かっていった。
この戦争で多数の自衛官の犠牲と艦艇、装備の多大な損耗、そして国民の生命、財産の被害を経験し日本は防衛省、自衛隊の在り方を問われることとなった。そして政党の再編が進み、事実上の1党体制から3大政党制となり、その成果として防衛省は国防省、自衛隊が国防軍となることで、中途半端な立ち位置だった自衛隊がようやく軍として認められることとなった。
冴島は自衛官から日本国国防軍人となり階級も二佐から中佐に代わり先の戦争での功績で大佐になる直前に病に倒れ中佐のまま53歳で国防軍を退役していた。
「冴島さんは軍にいた時にどういう任務をしていたんですか?」
看護師は冴島とのコミュニケーションを良くするためにと、あまり考えずに冴島の過去の仕事について聞いてしまった。体力のない病人の小声ながらも、低く響きのある声で申し訳なさそうに言った。
「退役しても軍人は喋っちゃいけないことがたくさんあってね。任務については話せないんだ。悪いね」
冴島の怖い顔がさらに怖く見えた看護師は、...そうですよね、言えないことばっかりですよね...と言いながら血圧計や体温計を片付けると愛想笑いをしながら部屋を出ていった。
病室に一人きりになった冴島はテレビのスイッチを消すと痛み止めの点滴の作用で微睡始めた。
どのぐらい微睡んでいたのか定かでなかったが突然声をかけられ冴島は現実に引き戻された。病室の中を見回しても誰もいなかった。微睡程度であれば人の気配があれば気づく冴島だったが人の気配もなく突然声をかけられ訝しんだ。
夢か? それにしてもかなりリアルに聞こえたな・・・
そう思っていると、名前を呼びかけられた。
『冴島陣、聞こえるか?』
病室には誰もいないのに今回はハッキリ聞こえた。意識を集中させ声の主を探す。可能性があるとすればトイレとベッドの下しかなかったがトイレの方角からではなかった。ベッドの下であれば声をかけられる前に気配で気づいたはずだった。
「誰だ?」
『探しても私はそこにいない。あなたの頭の中に直接語りかけてる』
頭の中? 痛み止めの麻薬の影響か・・・?
冴島陣の考えに即答するかのように声が聞こえた。
『私は
こんな経験は初めてだった。夢ではないと言われたら薬の影響としか思えない。馬鹿らしいが自分1人の病室で声を出して返事をしてみる。
「その葛城さんが私に何の用事なんだ?」
再び頭の中に先ほどの男の声が響いてくる。
『声に出さなくても頭の中で考えてくれれば私には伝わる。このような会話が難しいのであれば声を出してくれて構わない。単刀直入に言う、私に力を貸して欲しい』
「おい、ここにいないからわからないかもしれないが、私はいつ死んでもおかしくない病人なんだ。力なんか貸せるような状態じゃない」
点滴の針が刺さっている腕を見ると痩せ細って骨と皮しかないミイラのようだった。
『ああ、そのぐらいわかってる。わかっていて頼んでいる』
「わかっていないだろ。立ち上がるのもやっとなんだぞ?」
ベッドの傍らにある移動用の車椅子の存在を確かめるかのように視線を車椅子に移す。
『冴島陣、あなたの戦闘の経験と精神力を貸して欲しい。私の望みが叶ったら、あなたを苦しめている病気を完治させよう。約束する』
何を言っているのか理解ができなかった。
「もう自分の死は受け入れている。今の医療では治せないことも理解している。どうやったら治ると言うんだ?」」
『魔法だよ。私は魔法使いなんだ。正確に言うと魔導師だけどな』
「魔法使い?」
『頭の中に直接語りかけてるのも魔法を使っている』
「それじゃあ望みを叶えるために先に病気を治して欲しい。そうすれば体力が戻れば手伝える...」
自分しかいない病室で誰かがいるかのように独り言を言っているのは側から見たらさぞかし滑稽な姿だろうと冴島は思った。
『その肉体じゃ無理なんだ』
「どういうことだ?」
『あなたの肉体も魔法を使えることは私の魔法で調べてわかっている。だが、あなたの肉体では限界が低いんだ。地上人の中で最も適している人物は見つけている。だが...』
「何か問題があるのか? 最適な人間がいるなら、そいつに頼めばいい」
『精神が問題なんだ。あなたと同じ軍人だが精神力が弱すぎて自分の可能性のほとんどを使いこなせない。要するに使い物にならない』
電話で会話をしているような感じに似ていると冴島陣は思った。だがスマートホンやイヤホンを使って会話をしているわけではない。自分は言葉を発声し相手は頭の中に直接語りかけてくる。
「ちょっと待ってくれ。それで私の精神力が必要だと言うことになるのか? 私よりも精神力が強い人間ぐらいたくさんいると思うが...」
『頑強な精神力、そして戦闘の経験と実力さらに言うとちょっとした魔術が使える素養のある肉体の持ち主ということもあなたを選んだ理由だ。とは言っても通常の戦闘経験が魔術を使った戦闘に活きるわけではないけどな。それと同じ言語を使い同じ文化で生活しているというのも結構重要だ』
「もしかしたら遠隔でその人間を操るっていうことなのか?」
『違う、その男と魂と記憶を入れ替えるんだ』
「入れ替える?」
頭の中に突然映像のようなものが浮かび上がった。
『そうだ、魔法でその男とあなたの間で魂と記憶を入れ替える頭の中に想像しやすいように映像を送っている。見えるな?』
頭の中に浮かんだ映像には空間を隔てた壁のようなもののこちらに自分の姿が、向こうの方には自分の姿と魂と記憶を模したものが描かれている。
『簡単に言うと私たち生命体は別次元と繋がっているんだよ。そこに複製された鏡像としての肉体、魂、記憶が保存されていて、こちらの次元の自分の肉体と強固に繋がっているんだ。別次元から紐が出ていてこちらの次元の肉体と繋がっていると考えてくれ。そして死ぬとその紐が切断され記憶と鏡像の肉体は削除される。魂と繋がっている紐は新しく生まれた生命に接続され記憶と肉体の鏡像が新たに別次元に創られ、別次元の魂の複製が肉体に保存される』
「なぜ、そんなふうに意味のなさそうな複雑なことになってるんだ?」
あまりに荒唐無稽な話だが、好奇心旺盛な冴島陣に話を続けようと思わせる熱量を宿禰の言葉に感じ取っていた。
『さあな、こればかりは私たちにもわかっていない。だが、重要なのは魔法はこの仕組みを利用することができるということだ』
「魂だけでなく記憶も簡単にコピー&ペーストできるということか...」
『記憶は肉体の脳だけでなく臓器や細胞に分散して複製保存されている。脳に損傷を受けたときに全身に散らばっている記憶をかき集めて復活させた脳の記憶域に読み込ませることで記憶を復元できるようになっているんだ。あなた達にはまだそういう知識はないだろうけどね。そして別次元にもその複製が存在しているわけだ』
冴島は臓器移植をされた人が食べ物の嗜好が変わったり、知らない人の記憶を夢で見たりすると言うのをテレビ番組で見たことを思い出した。
『この別次元の魂と記憶の繋がりを、その男とあなたの間で切り替えることで魂と記憶を入れ替える。実際には魂を入れ替えて湊大地の脳にある記憶を削除してあなたの記憶をその男の脳に読み込ませると思ってほしい。だから同じ言語を話し、同じ文化だとより魂も馴染みやすい』
「そうなると、その男の身体に私の魂と記憶が入るわけだな」
『そうだ、見た目は湊大地だが中身は冴島陣という人間になる。肉体の細胞には湊大地の記憶が分散保存されているから、お互いの記憶を垣間見ることはできるがその記憶の影響を極力受けないようにすることは可能だ』
「湊大地というのか、その青年は」
頭の中の映像が切り替わった。湊大地という青年の顔とパーソナルデータが表示される。
日本国防軍陸軍中尉 ヘリコプターパイロット
国防大学校(元防衛大学校)卒業
・・・・
「魔法というのは便利なものだな」
状況前にブリーフィングの資料をタブレットで見ているように冴島は感じた。
『思っているほど簡単ではないがな』
「それで、その青年はこの入れ替わりを承諾しているのか?」
『いや、今あなたと並行して説明しているところだ。だが早急にしないといけない』
「期限でもあるのか?」
『そうではない。この男は電車というものに飛び込んで自死しようとしているからだ』
想像のような話から冴島陣は急に現実に引き戻されるようなことを告げられた。
「自死? 自殺しようとしてるのか?」
頭の中の映像が切り替わり駅のホームが浮かび上がってきた。
どうやら湊大地という青年の視界がこちらに送られているようだった。
「総武線か? 船橋駅みたいだな」
冴島は送られてくる映像から湊大地という青年が千葉の習志野から船橋に移動してきたと予想した。
『部隊の上官や同僚からかなり激しい虐めや暴行を受けているようだな。精神的にもかなり参っていて自死を選択しようとしているようだ』
「パワハラか...なかなか無くならないな...だが軍隊で0にするのは難しいのかもしれないな...」
冴島は過去に自分が味合わされたシゴキ、体罰などを思い出した。
「ところでだ...私とその青年が承諾しなかったらどうなるんだ? そもそも魔法使いのあんたがパパッと片付けてしまえばいいのではないか?」
当然な疑問であった。なんでもできるようなこの葛城宿禰という魔法使いが自分自身の手でやればいいはずだ。
『私は...古の盟約で地上には行かれないんだ』
「さっきから地上って言っているがどういう意味だ?」
『そのままだ。私は地底世界にいるんだよ。あなた達の足の下。地底にある
「地底世界?」
少しぐらいのことでは驚いたりしない冴島もとんでもない話の連続で素っ頓狂な声をあげてしまった。
『そうだ、大洪水や隕石落下といった災害から逃れるために人類は地上から地下に生きる場所を変えているんだ。あなた達は地下に逃げずに地上の災害から逃れられた人類の末裔だ。あなたたちの過去の歴史は改竄されていると思った方がいい。
そして私たちは地下に逃げ込んだ時に地上世界と相互不可侵の盟約を結んでいるんだ。特に私が守護している皇国の皇族とそれを守護するように取り巻く国の王族達は境界を跨ぐことを許されていない』
半信半疑だった冴島だったが、事ここにきて御伽噺のような説明を聞き頭を左右に振って状況を整理しようとした。
「あんたがこっちに来れないのはなんとなくわかった。それで私たちが承諾しなかったらどうなる? それと何をすればいいんだ?」
『どうなるかは正直わからない。私の兄次第だ。逃げ込んだだけなのかもしれないし、地上世界を我が物にしてから地下世界を攻撃しようとするか...』
「地上を巻き込んで一線交えるという可能性もあるという訳だな...」
『可能性はある。やって欲しいのは地上世界に逃げ込んだ私の兄を捕縛するか殺害して欲しい。兄の配下の者達は全て殺害して構わない』
先ほどの説明からすると、この男の兄も地上に来ることを禁じられている者達に含まれるのだろう・・・冴島陣はそう思った。
「あんたの兄貴はなにをしたんだ?」
宿禰の声にため息が混じった。その言葉を口にしたくないという感情がこもった声で呟いた。
『親殺し。国王の殺害だ...』
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